タイトル

アイコン  《実話、タヒチからパンの苗木を運んだ戦艦バウンティ号の反乱》

 小説の概略
1789年4月28日、早朝に副長が艦を乗っ取り、艦長以下は1隻のランチに押し込められ艦の外に漂流させられた。反乱事件である。ブライ艦長は48日間の漂流のあとオランダ領マレー群島についた。その後1790年にイギリスに帰還する。

  反乱軍を探すべく軍艦パンドラ号が派遣された。タヒチ島にいた犯徒を逮捕したのち、3ヶ月も副長たちを探すが見つからず、オーストラリア近海で座礁沈没する。 犯徒のうち3人が水死したが、別の軍艦で帰国、裁判で10人のうち3人が絞首刑となる。1792年のことである。
1809年に孤島ピトケアンで唯一の生存者ジョン・アダムスが発見されたが、副長クリスチャンは今も生死の事実関係は不明である。ピトケアン島には現在も彼の子孫が住んでいる。

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スパイ小説で日本にもファンの多い、『チャーリーマフィン』シリーズや『KGB』、『CIA』などで有名なイギリスの作家ブライ アン・フリーマントルが書いた。写真は『バウンティ号の反乱』の表紙。 この小説は彼の最初の長編小説であった。原題は別だが日本語版で改題された。 (早川書房 新庄哲夫訳 1996年)

アイコン 《戦艦バウンティ号の目的は何だったのか》
 
  南海のタヒチ島に行き、島からパンの苗木を西インド諸島に運ぶことである。そこで植林して、プランテーションで働く奴隷達の食料にするためである。


苗木を運ぶため、艦には専門の植木職人が乗っていた。苗木のために飲み水は著しく制限され、乗組員の反感は高まった。日頃の厳しい艦長に不満を抱いていた水夫は、副長をそそのかして反乱に至った。

今から見れば非人間的だが、当時の軍艦では艦長の命令は絶対であった。 当時のイギリスは産業革命の進行、植民地アメリカの独立、フランス革命の勃発などの背景があり、社会情勢は不安であった。この反乱事件は社会に大きな影響をあたえた、小説、歴史資料、研究が発表された。イギリス国民にとって、日本の赤穂浪士の仇討ちのように周知の歴史話であるらしい。


戦艦バウンティ号は戦艦と言う名から想像する大きさではない。わずか重量250トン、長さ27.7メートル、幅7.3メートルの中古帆船を改造した小さなものである。当時の戦艦が2000トンと言うことを考えると、戦艦と呼べない小さな帆船である。乗組員は46名、艦長はブライ、副長はクリスチャンである。

ネットの百科事典 ウィキペディア
http://en.wikipedia.org/wiki/Mutiny_on_the_Bounty
復元された戦艦バウンティン
http://en.wikipedia.org/wiki/Image:ANMM-Bounty-3.jpg
BBC 放送の復元された戦艦バウンティンの写真
http://www.bbc.co.uk/humber/content/articles/2007/08/28/bounty_visit_feature.shtml
戦艦バウンティンの切手
http://www.stamps.gov.pn/BountyDefinitive.html

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右の油彩は、スウエーデン生まれの画家キャスパー・デヴィト・フリードリヒ(Caspar David Friedrich 1774〜1840年)が描いた港の風景である。
『港の光景』1815〜16年 90×71センチ ベルリン シャルロッテンホ−フ宮蔵

大航海時代の盛況を迎えた港の風景である。七つの海に漕ぎだす前の一瞬の静寂を描いたものである。手前中央に船に帰る小舟が見える。私の好きな一枚である。拡大表示

港の絵
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