タイトル
《ヴァスコ・ダ・ガマの登場と武力による植民地化の始まり》

国王からの命令

  1497年7月8日 ヴァスコ・ダ・ガマ(1460ー1524年)は、国王マヌエルの命令により4隻の帆船(横帆式の旗艦サン・ガブリエル、同じくサン・ラファエル、第三角帆式カラベル船ベリオ、大型補給船一隻)でリスボア(リスボン)のテージョ河口からインドへ向け出帆した。マヌエル王(1495-1521年)(金持王)から、以下のように命令された。

プレスター・ジョンの王国を見つけ友好関係を築くこと、次にインドのカレクト王国にゆき、ポルトガル国王の親書を渡し友好関係を築くことであった。
  絵・ヴァスコ・ダ・ガマ(1460-1524年)  

インドへ出航……
 1497年11月22日、彼はケイプターン(喜望峰)を回りさらに進んだ。途中の寄港地モンパサでは、100人ほどの武装集団に攻撃された。それら苦労ののち、1498年5月20日に艦隊はインドのカルカッタ沖に投錨した。この頃のインド半島下部の支配者はヒンズー帝国で、この地の藩主のひとりにカリカットのサムリがいた。ガマは彼と会見した


会見は最初の頃は友好的であったが、サムリへの贈り物が不満足なために、徐々に険悪な雰囲気になった。双方の意志の疎通 を欠いたために「東西文化交流」は、武力による威嚇と詭弁とともに始まった。このことは東方の諸国にとって大変悲惨なことであり、これが武力による征服への始まりとなった。

 ガマは、回教徒商人が貿易を握っている限り、通商はうまくいかないと感じた、3カ月間の滞在ののち、その地で香辛料を積み込み帰国のため出航した。出発の時170名ほどであったが、すでに60名ほどが死亡、残りも健康状態は悪いものばかりであった。 帰国の途中、乗組員の不足のためにサン・ラファエル号を廃棄して帰国した。

1499年、故国リスボアに到着した。 彼が持ち帰った香辛料とインドの情報は、ポルトガル国内を興奮の渦に巻き込んだ。特にガマのもたらした情報に寄れば、香料貿易を独占するには回教徒商人を追い出すことが必要である。このためポルトガルは平和的な交易より、確実な武力による征服をめざしたのである。

このガマの成功は、ヴェネツアやエジプトには衝撃を持って迎えられた、「いままでの最悪の知らせ」と受け取られた。これ以後、香辛料の覇権はポルトガルに移るのである。

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ヴァスコ・ダ・ガマに関する資料は少なく


  ガマの第一回目の航海に関する資料は『喜望峰を経由するインディアの発見のためにドン・ヴァスコダ・ガマが1497年 に行った航海の記録』である。その記述者は旗艦に乗り込んでいた アルバロ・ヴェリーであると言われる。
他の資料によれば、彼は航海の知識はあまりなかったようである。しかし統率者としては、有能であったらしく国王の信頼も厚かったらしい。用心深い性格らしく、その性格がインドで現地人に海賊ではないかと疑惑を招いたのであろう。このことは、その後のガマに大きな影響を与え、以後、力による征服へと向かわせたらしい。
(大航海の世界史U 『ヴァスコ・ダ・ガマ』生田滋著 原書房刊)


ヴァスコダガマの旗・左の紋章は2回目の航海で使われた旗
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