タイトル

ドードーはヨーロッパへ連れてこられ、路上で見せ物になった》


ドードーの発見……
 1599年、オランダのファン・ネック提督が長い航海の帰路、休養のためにモーリシャス島に立ちよった。上陸した彼らがドードーの巣でいたずらしたところ、ドードーに一人が追いかけられて尻を突っつかれた。 これを見たネック提督はドードーをヨーロッパに連れて帰り見世物にしたらおもしろかろうと、一羽を連れて帰った。最初は王侯貴族のコレクションになったが、人気が出て沢山つれてこられるようになると見世物興行に使われるようになった。

 大航海時代には、ドードーだけでなく世界中の不思議な動物や鳥などがヨーロッパに持ち込まれた。この背景には大航海時代に交易で豊かになった商人層の出現がある。下のイラストは当時の様子を描いたもの、興業は娯楽の少なかった庶民に人気があったからである。


見世物湖やイラスト  
木に登る熊イラスト
当時の見世物小屋、木に登る熊

《個人コレクターの誕生から生まれた近代的な博物館》

富のあるものは大金で、今のペットように美しい鳥や動物などを買い集めた。南海(南アメリカ)の美しいインコなどは特に喜ばれた。「ドードー」もこのために、どのくらいの数が島から運び出されたかは記録が無くはっきりしない。

植民地政策の根底には、世界中の動植物も美術品もすべてを所有したい、または集めたいという欲求がある。それが貴族階級や裕福な商人のコレクションにつながり、死後、個人コレクションは寄贈され博物館の設立にまでつながるのである。


のちに設立された東インド会社は「博物標本の収集」も業務のひとつとなっていた。船の乗組員にとっても珍しい動植物を持ち帰ることがいい副収入になったのである。また専門の収集人もおり、のちに彼らの中から有名な生物学者(例えば、ウォーレスなど)が生まれた。彼も学問を続けるため、収集による収入を得ていた。

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 《イギリスで見せ物になったドードーの話

ピーター・マンディーの航海記によれば、インドで2羽のドードーを見たそうである。日本にもこのインドから輸入されそうになったが実現しなかったという。(内田清之助選集『鳥』第一巻 1948年より)

1638年、イギリスの街角の風景からの記述。『街角を歩いていると、奇妙な鳥の絵を描いた布が道端にぶら下がっていた。一 緒にいた友人とその鳥を見るために見世物小屋に入った。 奇妙な鳥は、小さな檻に入れられていた。その鳥はオスの七面 鳥よりも大きく、飼い主は「ドードー」と呼ん でいた。また腹面はキジのメスのような色をして、背中は暗色の鳥である』(サー・ハーモン・レストレインジの日記から)

別の記載によれば、見せ物でドードーに釘などの金属を食べさせて見せたらしい。『1638年、イギリスで見世物になったドードーが3羽目である。確かな記録ではないが10羽(イタリアに1羽、ドイツに1羽、オランダに8〜9羽、イギリスには2〜3羽、ロンドンには見世物になった1羽)だけだという』がヨーロッパに連れてこられたという。(次のページに神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世の動物園に連れてこられたドードーの話があります)


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右のイラストは、当時人気のあった鳥のごく一部である。出典は「Familiy of psittacidae,or Parrots」1830ー32年青い鳥は、コウゴウインコ(Ara ararauna) 南アメリカ産 エドワーズ・リアの彩色リトグラフ、彼は8才から画を描き始めた。彼が制作した図鑑類は、あとのJ・グールドなどの大型図鑑の原型として影響をあたえた。

鳥の画

(右の写真)赤い帽子のインコ (Purpureicepbalus spurius)エドワーズ・リアの彩色リトグラフ、出典は「A Family of Parrot」 見世物小屋にいたインコを 描いたといわれる。左下も同じエドワーズ・リア、出典も同じ。

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