夏雲立つ3つのピーク、日名倉山
日名倉山を黒土から望む
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兵庫県と鳥取県・岡山県の県境の扇ノ山・氷ノ山・三室山・後山をはじめとする山の連なりは、中国山地の東部山地群に属する。かつて、浜坂町出身の加藤文太郎は、ここを兵庫アルプスと名付けて、夏にはヤブを漕いで山を拓きながら、冬にはスキーをはいて、あるいは雪穴を掘って吹雪をやり過ごしながら歩いた。これらの県境の山の中では、日名倉山(ひなくらさん)は1000mを越す山として最も南に位置している。日名倉山との初めての出会いは、佐用町の大撫山の山頂にある西播磨天文台公園からであった。そこから北を見れば、低く緩やかな山並みが幾重にも重なって、高原状に広がっていた。その高原の奥に、裾野をやさしく左右に広げる大きな山があった。前日の台風で落ちた枝葉を片付けられていた公園の職員の方に、その山が日名倉山だと教えてもらった。あれから、もう2年たつ。
登山口の日名倉神社には「日名倉山頂マデ四千六百十米」と彫られた石碑が立っている。いつものようにハンマーを下げ、一人で歩き出した。小いさな沢を渡り、現れた露頭で石を割っていると、下からひとり人が歩いてくる。「よかったら、一緒に登りませんか。」と、いきなり人なつっこい目で誘われ、そこから連れになった。聞けば、この人はなかなかすごい。広島の福山を出てすでに数日、車に寝泊まりしながら氷ノ山や後山を歩き、国道を走っていると「日名倉山登山口」の大きな看板があったので、今日はここへ来たということだった。「山頂まで1キロぐらいじゃいうて聞いたけん、お茶も持たんと運動靴で歩いとんじゃ。人におうて(会って)よかった。」広島弁に懐かしさを覚え、山のことやらかつての仕事のことやらを聞きながら歩いた。
日名倉山山頂からの後山と夏の雲
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スギ・ヒノキの植林地内の渓に沿って林道が伸び、やがて細い登山路となった。変化に乏しいが、歩きやすい道である。奥海(おねみ)越で進路を北に変え、広い尾根を上っていった。コナラ、ミズナラなどの自然林がときどき顔を出す。ササの茂った一の丸、二の丸の高みを越え、日名倉山山頂(三の丸)に達した。一等三角点のすぐ横に木の古い祠が建ち、その先にはベンチの置かれた広場もあった。ササに覆われた山頂付近は広々とし、枝を斜めに上げたカラマツがまばらに生えている。低く垂れ下がった層積雲は、下がぼやけて、周囲の山々を白く霞ませていた。北には、尖ったピークを持つ後山の大きな山体。その右奥に、三室山の白いシルエットが浮かぶ。氷ノ山は、じっと目を凝らしても見えなかった。東には、千草川の流れる谷を隔てて、植松山のこれもまた巨大な山体。高原のようなこの山頂には、空の白い雲や周囲の山々を背景にして、ナツアカネだろうか、薄赤いトンボの群が乱舞していた。
下山後、日名倉山の山の形を見ようと千草川の対岸にある小高い集落「黒土」に上がった。緩やかな稜線が左右から高まり、頂稜に三つのピークをのせた日名倉山。午前中に広がっていた雲はもう切れている。日名倉山の上には、乱れながら垂直方向に発達しかかった夏の積雲が大小さまざまな形で並んでいた。
山行日:2001年7月21日
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