忘れぬ香りに

 5歳の子供にとっては、退屈なピアノのレッスンであった。同じ繰り返しだけの、指の動き、眠くなるような音楽家の顔。
 言われるがままに指を動かしながらエドガーは、ピアノの向こう側の椅子に置いてある機械に興味を持っていた。
「エドガー様、今日はここまででございます」
「うん、ご苦労であった、またよろしく頼むぞ」
「はっ。有難うございます」
 5歳とは思えぬほどの王子の品格を持ったエドガーに、周りの者たちは恐縮するのであった。
 音楽家が去って行くと、エドガーのその透き通るような蒼碧の瞳はみるみるうちに輝いてきた。先ほどから気がかりであった、椅子の上の機械に小さな手で触れようとしたその時、
「危ない!」
と鋭い女性の声がした。エドガーはピクッ!と肩を上にあげた。侍女にしては聞きなれない声であった。
 エドガーは肩まで伸びた、黄金色の髪の毛を大きく振って、後ろを振り返った。そこにはエドガーの知らない貴人が立っていた。
 年は15、6であろうか、まだ幼さが残る顔は、まるで人形のように白く、深く蒼い瞳の持ち主の少女であった。
「これは、レディのものか?」
 子供ながら、大人びた口調にその少女は、微少を浮かべた。
「ええ、王子様」
「僕は、エドガーだ。貴方は?」
「グウィネヴィアと申します」
 ドレスを掴みそっとお辞儀をした、グウィネヴィアの肩までの金色の巻き髪がそっと揺れた。
「グウィネヴィア、これは何に使う機械なのだ?」
 機械に異様な好奇心を抱くエドガーである。
「オートボウガンと言いまして、一度にたくさんの矢を放てるので、複数のモンスターは一気に片付けられます」
 エドガーはさらに興味を抱き、その機械を食い入るように見上げていた。
「この機械は、何処で手に入るのかな?」
 エドガーは、自分の体とさほど変わらない、オートボウガンを欲しがった。
「もう少し、大きくおなりになられたら、陛下から頂くといいわ」
「父上からもらったのか?」
「グウィネヴィア様、陛下がお呼びでございます」
 ふいに、侍女の声がした。
 グウィネヴィアはエドガーがもう少し話しを聞きたそうな、子供の表情に一瞬もどったのを捉えた時、ここを去るのが少し引けた様子であった。
「グウィネヴィア、また会えるよね」
 エドガーは、王子らしく威厳のある声で言った。
「ええ、エドガー様」
 そう言ってグウィネヴィアは去って行った。
 微かに残るグウィネヴィアの残り香は、新緑の香りがした。


 エドガーは急いで、寝室へと走っていった。
「レネー!」
 息を切らしながら、寝室に入っていくと、ベッドの中のエドガーと同じ顔立ちをした双子の弟、マッシュが静かに目を開けた。
 エドガーよりも少し短く切り揃った金色の髪の毛は、汗で少し濡れていた。
「ごめん、寝ていたところを起こしたようだね」
 少し熱も下がったマッシュは顔に掛かった髪の毛を払い退た。
「…ロニ、どうしたの?」
 エドガーは呼吸を整えようと、小さな肩を上下させていた。
「さっき、僕、見たことのないレディにあったよ。その人、とってもいい匂いがするんだ」
 エドガーは唯一、弟のマッシュの前でだけ年相応の姿を見せるのである。
 マッシュもまたそうであった。
「どんな香りなの?」
 マッシュも目を輝かせた。
「父上に連れて行ってもらった、コーリンゲンの近くの森のような香りなんだ」
 エドガーは山を越えた砂漠の先にある、緑と海の近い土地、コーリンゲン地方がお気に入りであった。
「その人はね、不思議な物をもっていたんだよ」
「何なの?」
「たくさんのモンスターを一気に倒せる機械さ。あれがあれば、ナッツイーターどころか、どんなモンスターでも怖くないよ。だから、二人だけでも、少し遠くに行けるよ、きっと」
 エドガーは、マッシュが3歳の時にナッツイーターにクルミをあげようとして、指を噛まれ、それ以来ナッツイーターのような可愛げのあるモンスターでさえ怖がる、弟のことを気にかけていた。
「その機械、僕も見てみたいな」
 マッシュは、エドガーがあまりにも嬉しそうに言うので、興味を持った。
「ダメだよ、レネーはまだ静かにしてなくちゃ」
「僕、もう大丈夫だよ、熱も下がったし」
と、起き上がるマッシュにエドガーは躊躇したが、目をキラキラさせて
「じゃぁ、ちょっと、だけだよ。ばあやに見つかったら大変だからね」
と言って、マッシュに小さな赤いガウンを着せてやった。
 エドガーは廊下に誰も居ないことを確かめて、マッシュの手を取って、一気に走り、ピアノのある部屋へと向かった。
 エドガーの手に引っ張られ無理をして走ったせいか、マッシュは、激しく上下に肩を揺らせた。
「ごめんね、レネー」
 エドガーは自分の行動に反省し、小さな両手で、マッシュの痩せた背中を摩ってあげた。
「ありがとう、もう平気だよ」
 マッシュは暫くしてやっと呼吸が落ち着いたようだ。
「レネー、これだよ」
 グウィネヴィアがこの部屋を去って行った時のまま、そのオートボウガンは椅子の上に置いてあった。
 エドガーはその機械を再び見ると、マッシュがいることも忘れるくらい、食い入るように四方から観察した。
 マッシュはその場に座って、そんなエドガーを見ているのが楽しそうであった。
「ロニは本当に、機械が好きなんだね」
「うん、僕も大きくなったら、いろんな機械を造るんだ。そして、この国の人々が豊かになるように」
「そうだな、エドガー。私も、この国の皆も、お前達に期待しているんだぞ」
 慌てていて、エドガーがドアを閉め忘れたために、通りかかった王が兄弟の会話を小耳に挟み、部屋へと入ってきた。
「父上!」
 二人は驚いたように、父である王を見上げた。
「ロニはこれが気に入ったようだな」
「はい、父上。これがあれば僕にだって、レネーを外へ連れていってあげれます」
 王は、まだ5歳にしかならないが、優しさと、聡明さを持ち合わせた、二人の子供を誇りに思っていた。
 王は優しく笑って、エドガーと同じ目線に立った。そしてエドガーの肩まで伸びた真っ直ぐな流れる髪をそっと撫でた。
「あと、もう少し大きくなったら、私からロニ専用の物をあげよう」
 王の言葉にエドガーは太陽のような笑顔で笑った。
「本当ですか、父上!」
「良かったね、ロニ」
 マッシュも自分のことのように喜んだ。


 その日からエドガーは図書館に毎日のように足を運んでいた。機械の図が描かれている本を理解できなくとも、何冊も見ていた。
 エドガーが図書館に篭りきりなので、マッシュも兄の後を付いてきていた。
 エドガーは手を伸ばしても届きそうにない棚に、興味のある本を見つけた。
 周りを見渡したが、大人はいなかった。暫くその本を眺めていると、エドガーの頬に掛かっている髪の毛に柔らかいシルクのドレスの感触がした。
 そのドレスの香りがエドガーの胸をときめかせた。見上げると、エドガーが手にしたかった本を持ったグウィネヴィアが立っていた。
「また、お会いしましたね、エドガー様」
 グウィネヴィアはエドガーの目線の位置までかがんで、本を渡した。
 彼女の肩までの巻き髪がそっと、エドガーのピンクがかった頬に振れた。エドガーは初めて女性の髪の毛に触れた感触をほんの少し味わっていた。
「ありがとう、グウィネヴィア」
 エドガーは少し大人びた表情で、本を受け取った。
「ロニ! あっ!」
 マッシュが大きな本を持って走って来た。新緑の香りを感じると、エドガーが話していた女性だとわかった。
「弟君ですね」
 エドガーより少し痩せていて、髪の毛は短く切り揃えられているがエドガーと同じ端麗な顔立ちを見て、グウィネヴィアは言った。
「そうです、双子の弟のマシアスです」
「初めまして、マシアス様、グウィネヴィアです」
 エドガーにお辞儀をした時と同じく、そっと膝を曲げた。エドガーはグウィネヴィアの肩で揺れる巻き髪を見ていた。
「僕の事、皆はマッシュと呼びます」
「では、改めて、マッシュ様」
「よろしく、……グウィネヴィア」
 とマッシュははにかんだ。
「エドガー様は、機械の勉強に熱心なそうですね。陛下もお喜びでした」
「うん、僕たちは大人になったら、このフィガロを世界一の機械の国にして、国や人々を豊かにするんだ」
「楽しみにしております」
「父上がもう少し大きくなったら、オートボウガンを下さるそうです。その時は、一緒に狩りに行ってはもらえないか?」
 グウィネヴィアは少し哀しい目をしたが、エドガーはそれを逃さなかった。
「ダメなのか?」
 沈黙しているグウィネヴィアに、エドガーは哀願するような子供の表情に変わった。
「……残念です、エドガー様。私、明日になればフィガロを離れます」
「何処に行くの?」
とマッシュはあどけない声で言った。
「グウィネヴィア様はご結婚なさるのですよ」
「ばあや!」
 神官長でもあり、エドガーとマッシュの世話をしているフランセスカが突然現れた。フランセスカを見てマッシュはばつが悪そうな表情をした。
「マッシュ様、薬師の方がお待ちでいらっしゃいます。お探ししましたよ! エドガー様もマッシュ様をお連れにならないで下さいませ、まだ、病み上がりでございますから」
「ごめんね、ばあや」
 エドガーは素直に謝った。
 フランセスカはグウィネヴィアに膝を曲げ、挨拶を済ませると「さぁ、行きますよ」と言ってマッシュの手を取った。
「グウィネヴィア、結婚おめでとう。また会えるといいね」
 マッシュはそう言って、名残惜しそうに図書館を後にした。
「グウィネヴィア、結婚とはそんなに楽しくないものなのか?」
 エドガーはグウィネヴィアが結婚を喜んでいないことを悟っていた。
 グウィネヴィアはエドガーが、5歳の子供だと思えぬほどの詮索に驚きを隠せなかった。
「私には、わかりません。ただ、決められた事ですから」
 自分の運命に翻弄されたくはない、強い意志を持とうとしているグウィネヴィアであった。
「せっかく、お友達になれたのに…、寂しく思うぞ」
「ありがとうございます、エドガー様」
 軽く会釈をしたグウィネヴィアから、また森の香りがした。
「僕も頑張るから、グウィネヴィアも頑張るんだよ。また会えるのを楽しみにしてるぞ」
 エドガーは幼い声で、大人びた言葉を言い残して去っていった。
 図書館のドアを閉めると、エドガーは少し気落ちしたようであった。子供心にもこれ以上の姿をグウィネヴィアに見せまいとして、早々に立ち去ったのである。


 一ヶ月ほど前、グウィネヴィアと初めて出会ったピアノの部屋。あの頃とは何も変わらない部屋だが、ピアノ越しに見える椅子の上には何もなかった。
 エドガーは音楽家の言われるがままに指を動かしているが、今日旅立つ人のことばかりを思って、窓の外へ目をやるのであった。今か今かと思いながら窓の外を眺めていたその時、馬車の音が聞こえてきた。
 エドガーは突然飛び立って窓の方へと向かう。
「エドガー様!?」
 いつもの落ち着いたエドガーとは思えない行動に、音楽家は驚いた。
 砂煙の中からうっすらと、馬車の姿を捉えた。
 近づいてくると、いつもより少し色付く化粧を施したグウィネヴィアの姿を見つけた。馬車の揺れと同時に、グウィネヴィアの豊かな金色の巻き髪は肩の上で揺れていた。
 エドガーは昨日その髪が、自分の頬に触れた感触を思い出していた。
 ふと思いもかけず、グウィネヴィアがこちらの窓の方へと目線を向けた。
 エドガーの蒼碧な瞳と、グウィネヴィアの深みのある蒼い瞳は向かい合い、
 グウィネヴィアは自分を陰ながら見送ってくれている、まだ5歳にしかならないが、その気品のある王子を目に焼き付けていた。
 エドガーは煙の中へと消え行く馬車を、それが消えるまで見つめていた。
「すまない、中断させてしまったね」
 エドガーはいつもの落ち着きを取り戻して、ピアノの前に座った。慣れた手つきで指を動かしながら、瞼を閉じた。
 エドガーはグウィネヴィアが新緑の香りを、この部屋一杯に残していったように思えた。

                                    
終わり

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