フィガロ城は短い雨期を迎えていた。乾いた土地にもわずかな緑が芽吹き、砂漠の動物達の命をつなぐ。ロックがいつものようにふらりと足取りも軽くフィガロ城を訪れた日も、そんな穏やかな日だった。
「やぁ、久しぶり」
「おお、おまえか」
警備の者ともすっかり顔なじみのロックは所持品を調べられるわけでも案内も請うわけでもなく、そのまま奧へと足を運ぶ。とりあえず謁見の間を覗いたがあいにく主の姿は見あたらず、ちょうどそこへ通りかかった女官を捕まえる。
「まあ、ロック様」
やはり見知った顔の女官はロックを見ると嬉しそうに笑い、品の良い角度で会釈を寄越す。城内を我がもの顔で歩いていても、こんなふうに不意に上品な仕草で迎えられるとロックはなんだか落ち着かない。それでいて嫌な感じがしないのは女官の行為が礼儀からではなく純粋な好意から出ているからだが、そこまで深く考えることはしない男だ。
「今日はエドガーはどこだい?」
女官の話を聞いてみれば、若き国王陛下はここ数日、執務室に籠もって出てこないのだという。
「大切なお仕事なのでしょうが、お体に障るのではないかと・・・」
表情を曇らせうつむくその様子からしても、これはただ事ではなさそうだ。女官が顔を上げたときにはもう、ロックは執務室に突進していた。
「エドガーっ!」
重い扉に悲鳴を上げさせて執務室に飛び込むと、果たして話題の主は、書類を手にしたまま目を丸くしている。
「ロック?! どうしたんだ?」
ロックは部屋を突っ切り、重厚な作りの机ごしにエドガーに詰め寄る。
「どうしたもこうしたも・・・なんともなさそうだな」
至近距離でよく見れば少々疲れているような気もするが、端正な顔立ちも髪の艶も健在だ。
「何のことだか話が見えないぞ! ・・・いや、よく来たな」
一瞬でエドガーは気を取り直し、控えの者に下がっているように指示すると、笑顔を見せた。人の上に立つ者はやはり鷹揚さが大事だ。
「いや、その・・・おまえが仕事でカンヅメになってるっていうからさ・・・」
ロックは頭をかき、視線を天井あたりに彷徨わせる。エドガーが黙って続きを待っているので、話をよそに持っていくこともできない。
「おまえが仕事で煮詰まるなんてことはあんまり想像できないからさ・・・何かまずい事でもあったのかと」
「まずい事? どんな?」
「どんなって・・・城の女の子に手を出してうっかりへまをやらかした・・・とかさ・・・」
だんだん小声になってゆくのはこの場合無理もないだろう。聞いているエドガーの眉間にも縦ジワが寄っている。
「馬鹿者」
「や、そーだよな、エドガーに限ってそんなへま、するわけないよなっ」
「当然だ」
常人とはレベルの違うところで意見の一致した二人は、ようやく格好を崩した。
「でもホント、何やってんだ?」
「城の改修の予算やら、まぁ書類の決裁だな」
フィガロ国王は仕事を家臣にまかせきりにはしない。人の見ていないところでは職務熱心な国王だった。
「そっか、大変だな。でもほどほどにしないと、女官が心配してたぜ?」
「・・・それは悪いことをしたな」
何やら満足そうな笑みでエドガーが答える。この分では必要以上に念入りに、主君想いの女官を労うつもりに違いない。
「…だろう?」
「へ?」
起きてもいないことをロックが心配している間に、何やら聞かれていたらしい。エドガーが苦笑する。
「聞いてなかったのか。ではもう一度…心配してくれているのは、おまえだろう?」
「そ…」
そりゃもちろん。そう答えればいい。それなのに言葉に詰まる。エドガーの青い瞳がまっすぐにロックを見ている。何度見ても壮絶な青の中の青だ。ロックが大きく息を吐く。
「…口説くなよ」
エドガーの笑い声が上がる。つられてロックも笑い出す。口説き用の視線、意識的に低めた声。エドガーがその気になったら幻獣だって墜ちかねない。困った国王陛下だ。
エドガーの視線がロックの手元に止まる。気づいてロックが右手に下げた包みを目の前で振った。
「おまえと飲もうと思ってさ。たまには息抜きも必要だろ?」
包みを開くと薄茶の陶器が現れた。ロックが栓を抜くと、癖のある香りが部屋に満ちる。
「ははぁ」
フィガロ城には名酒美酒にはこと欠かないが、場所が場所だけに庶民の酒はない。これは港町で船乗り達が好んで飲む酒だ。
「おまえはいいヤツだよ」
「今更言うのもなんだが、仕事はいいのかい? 陛下」
「昼間から国王の執務室で酒盛りする奴に言われる覚えはないぞ」
エドガーがどこからか杯を取り出す。
「常備してあるのか。恐れ入った」
「相手はいつもおまえだろうが」
「違いない」
「大騒ぎした挙げ句にさっさとつぶれるのも、いつもおまえだ」
酔っぱらったロックの起こす騒動はフィガロ城の娯楽の一つと化している。その度に女官達の手を煩わせ、客用の寝室に叩き込むのはおそれ多くも国王陛下の仕事だ。といってもロック本人は全く覚えていない、幸せな話である。
杯に酒を満たすと、軽く触れあわせてから二人は杯を傾ける。
「…水の匂いがする」
エドガーがつぶやく。
「ん? ああ…雨が降り出したかな」
「いや…これは海の匂いだ」
こんな砂漠の真ん中に、ロックは船乗りの酒と一緒に海の匂いを運んできた。何日か大騒ぎして、またふらりとどこかに行くだろう。
「次は何を運んでくるのやら…」
エドガーの頬に笑みが浮かぶ。ロックは早くも手酌で飛ばしている。
「渡り鳥に懐かれた気分だよ」
「んー、鳥? そうだなぁつまみは焼き鳥がいいな」
二人とも、とてもいい気分だった。
これより数ヶ月後、フィガロは帝国に反旗を翻すことになる。この時点では二人はまだそのことを知る由もない。