汝、その名を名乗る者

 年の離れた弟が、玩具のような手足を精一杯動かして懸命にオレのあとについてくる。
 オレは、それよりも少しだけ早く走る。弟が嬉しそうな笑い声をあげる。
 弟の母親が、それを見て微笑んでいる。
 彼女は小さいとはいえ城をひとつあてがわれ、絹のドレスに身を包み、飢えを忘れ、二人の子供と平穏な世界をつくりあげていた。それなのに、その唇に浮かぶのは何故かとても悲しげな微笑……。
 振り返ってはいけない。彼女の目を見てはいけない。
 オレは、ただ、走る……

 





 ――ここは……どこだ? なんて暗く、冷たいところなのだろう……
 ザルバッグはぼんやりとそう思いながら、とりあえす手を動かしてみようとした。だが……
 ――動けない!? オレは敵に囚われたのか? ここは……牢か?
 一気に意識がはっきりする。だが、自身を取り巻く闇のように、記憶もまた沈黙していた。
 いったい何があったのか、まるで思い出せない。
 愕然とした。
「これ以上、貴様に付き合っているヒマはない……」
 ――声? どこからだ。
 とっさに拷問係かと思った。ザルバッグは、戦局を大きく変えることになる貴重な情報をあまりにも多く持ちすぎている。敵もそれを手に入れるためなら手段を選ばないだろう。
 だが、声は彼以外の誰かと話しているようだった。
「貴様にはここで死んでもらわねばなるまい。我が忠実な僕(しもべ)たちが貴様の相手をしてくれよう……」
 ――オレ以外にも誰か捕らえられているのか?
「……ちょうどあつらえたようにここには棺がある……。貴様もここで永遠の眠りにつくがいい……」
 ――棺? ではここは教会か墓地か? 土のにおいはしないが……教えてくれ、オレはどうしたのだ? 何も見えない、何も思い出せないんだ。
「そして……、貴様の相手は」
 ――何?
「この男がする……」
 闇が動いた!?
「ザルバッグ兄さんッ!!」
 ――兄……さん? オレを兄と呼べるのは、この世に二人しかいないはずだ。
「この男は貴様の兄にして、我が眷属の一員として生まれ変わった……。この男と戦えるかな……?」
 高笑い。それにまぎれて悔しそうな叫び……オレを兄と呼んだ男の――。
 ――そこに弟がいるのか? 生まれ変わったとはオレのことか? 眷属……なんの眷属だ? 頼む、教えてくれ。
「ザルバッグよ……、目の前にいるその小僧を殺せ……! 生きてこの寺院から出すな!!」
 ――小僧? 弟のことか? 寺院と言ったな、この闇の世界は実はどこかの寺院なのか?……わからない。いったい、今、何が起こっているのだ?
 そこに今誰かいて、殺さなければならないのか? 敵なのか、その男は。
 いや、弟か。
 オレの……弟?
 名はなんといった?


 その男の、弟の名は?

 





「名は、ラムザというらしい」
 後から、苦々しい声がする。ザルバッグは、それをぼんやりと遠いところで聞いていた。
「父上が、戦地からわざわざ寄越した手紙にそう書いてあったのだそうだ。"男ならラムザと名づけよ"と」
 外では小雨がぱらついていたが、もう間もなくやむのか、空は明るい。
「ザルバッグ?」
 窓際の机に頬杖をついて、何をするでもなくただ外を眺める――。そうやって、空の変化を見るのが好きだった。夕方から夜に、雨から晴れに。もちろんその逆だっていい。
「聞いているのか、ザルバッグ」
 静かな、だがよく通る声が間近でする。それでようやく、ザルバッグの意識は空模様から現実に戻った。
「す、すみません、兄上」
 あわてて振り返り、兄の毅然とした眼差を見上げる。
「……無理もない。我がベオルブの名を汚すべく生を受けた者が、自分の弟なのだからな」
 どうやらダイスダーグは、弟が憮然として答えなかったのだと思ったらしい。ザルバッグはわずかにうなだれただけで、何も答えなかった。
 心境は複雑といえば複雑だが、「弟が生まれた」ことは単純にうれしかった。
 たとえそれが腹違いであっても。自分達の母親は他界してもう何年も経っているのだし、敬愛する父を非難したくはない。
 だが、長兄であるダイスダーグの心境が穏やかでないのは、容易に察しがつく。父バルバネスが愛した女性が、自分と弟との年の差よりも近いとなれば――ほぼ同年と言っていいほどの年齢差しかないとなれば、それも無理はない。もっとも、11年もの開きのある年齢差と比べられると、たいてい近くなってしまうものだが。
 とはいえ、それでも相手がまだベオルブ家の名に恥じない大貴族であれば、ただ苦笑するだけですんだだろう。だが、相手は貴族ですらない。ただの卑しい平民なのだ。
 バルバネスは、その女に子を生ませただけでなく、小さいとはいえ城を、さらにはベオルブと名乗る権利までも与えようとした。それにはさすがに向こうのほうが辞退したらしいが、だからといって気が収まるものではない。
「おまえも来年はアカデミーだったな。下賎の血を受け継ぐ者が、我がベオルブの名を名乗るのだ。だからといって周りの連中に軽く見られないよう留意しろ」
「はい、兄上」
「私は明日、戦場に戻る。父上も当分戻られないだろうから、その間おまえがベオルブ家の顔になるのだ。男児が生まれたことで、中には勘違いをして祝いを述べにやってくる者もいるやもしれん。通すのは構わんが、その貴族の名を覚えておくように」
「わかりました」
 覚えておいた名をどうするのか、疑問に思わなくはなかったが、ザルバッグはあえて尋ねなかった。今までがそうだったように、兄の言うことに間違いはなかったのだから。

 





 ――そう、間違いはない……。兄上はいつも正しかった…………
 ダイスダーグ・ベオルブ。ザルバックにとって、兄は父とはまた違った理想そのものだった。
 ――その兄を、オレは、この手で…………。
「兄さん、ザルバッグ兄さんッ! しっかりして、僕だよ!」
 似た悲鳴に近い甲高い叫び。その声がザルバッグに記憶の一部を取り戻させる。
 ――その声は……。そうだ、オレは、今、弟と……ラムザと……
 ラムザと? どうしている?
「……そこにいるのはラムザか……? ここは……いったい……どこなんだ……? 暗くて……よく……わからない……。オレは……何をしているんだ……? 立っているのか……座っているのか……。手足の感覚が……まるで……ないんだ……」
 動けないのではなかった。感覚がないどころではない、身体があるのかどうかもわからないありさまだ。
 ――オレの手はどこにある? その手には剣が握られているのか? 足は地を踏みしめているのか?
『まるで奈落の底に突き落とされたような……自分の意志に関係なく、私は剣を振り下ろした……』
 ――それは、まさにこんな感じだったのだろうか。
 誰だったろう、その話をしたのは。かなり昔のことだったような気がする。
『よく覚えておけ。力ある者が無能であることは罪であり、無力であることは屈辱以外のなにものでもないことを』

 





 特別に選抜された数人の士官候補生として、研修で、後方支援基地といえど初めて"戦場"に足を踏み入れたのは、ザルバッグが14のときだった。
 ひと通りの見学を終えて帰ろうとしたとき、引率役の騎士が、ザルバッグと、その親友であるアルフォンスだけ残るよう命じた。
そうして見学コースになかった小部屋にて告げられた、驚くべき報せ。
<ダイスダーグ卿、重傷>
 しかも、収容先はこの基地。部屋はこの隣だという。
 ザルバッグは動揺を隠そうと懸命になりながら、騎士に示された扉に向かった。
「君もだ、アルフォンス候補生」
 心配そうに親友の背中を見送っていた少年に、騎士は淡々と告げた。
「えっ!?  でも……」
 こういう場合、実弟にだけ面会の機会が与えられるものではないだろうか。アルフォンスはそう思ったが、それを、上官にも等しい騎士に、きちんとした言葉に変換して口にするだけの余裕がなかった。
「ダイスダーグ卿のご要請だ。行きなさい」
 そう促されてもしりごみしている親友に、ザルバッグは手を差し伸べた。
「……来てくれないか、アルフォンス」
 兄は、無駄なことは一切しない。必要だからこそ彼もここに呼んだのだ。また、単純な不手際でその必要なものがそろわないと、気分を害する。
 アルフォンスは、ためらいながらザルバッグのあとに続いた。
 部屋を見るなり、ザルバッグはいきなり大貴族を収容してしまった司令官たちの動揺を容易に想像することができた。おそらく司令官の個室かそれに順ずる部屋だったのだろう。巨大な机が恥じるように部屋の隅に追いやられ、壁に飾られた銃剣や何やら細々と書き込まれた地図や書類などはそのまま、人の背ほどもある国旗も、奥においやられているせいで逆に目立ってしまっている。ベッド以外の調度品の色調が統一されているせいもあって、ここでは白は清潔さを現しているのではなく、むしろ奇抜でさえあった。
 ダイスダーグは、胸部を絞めつける包帯こそ痛々しかったが思ったよりも元気そうであった。明日にも有能な白魔道士が来て完全に回復する予定だという。ひと通りの挨拶を交わしたのち、上体だけ起こした誇り高き騎士は、いきなり騎士見習いたちに鋭い言葉を投げかけてきた。
「おまえたちは親友同士だと聞いたが、本当に互いに互いを信じているのか?」
「はい」
 二人の返答が重なる。
「……それもいいだろう」
 妙に冷めた口調だった。
「だが、いざというとき本当に信じられるのは自分自身、己が持つ力だ。それを正しく認識し、かつ自分の立場を正確に理解して行動しなければならん。おまえたちは、まだ何の手絡も功績も立てていない。兵(つわもの)たちから見れば木偶(でく)と同じだ。そのおまえたちが普通と違うのは、敵を引き寄せるエサを持ってしまっていることだ。おまえたちがその名に冠する家名には、それだけの力がある。だからこそ敵はおまえたちを集中的に狙うことになる。わかるな」
「――はい」
 緊張した口ぶりで答えはのは、ザルバッグだけだった。
「私の言う“敵”が誰のことかわかるか? 鴎国(オルダリーア)の人間だけが敵ではない。おまえたちは新兵であっても単なる一兵卒ではないのだ、そのエサは同胞をも敵に変える力がある。それをよく覚えておけ」
「……はい」
 今回も答えたのはザルバッグだけだった。
「自分はそれほどのエサを持っていない、そう言いたそうだな?」
 ふいに話を振られ、アルフォンスはとっさに直立不動の姿勢をとった。
「わ、わたしの父の領地は、辺境のほんの一地方ですから……」
「敵もおまえの家名など気にしないだろう。だが、立場には着目する」
「た、立場ですか?」
 まだアカデミーを卒業してもいない、ただの騎士見習いにどんな立場があるのだろう?
 アルフォンスはそう思いながら、ダイスダーグの言葉を待った。
「おまえが、ベオルブの名を冠する者と親友だということだ」
 言われて、アルフォンスは首をかしげるように傍らのザルバッグと顔を見あわせた。
 だから……? 言葉の意味がよくわからない。
 困惑する二人にダイスダーグは淡々と告げた。
「……この傷は、私が親友だと信じていた者から受けたものだ」
「えっ!?」
 少年たちの声が重なる。
「だが、この程度の怪我ですまわせてくれたのも、もう一人の親友だった。私は、このとき己がいかに無力であるかを思い知った……。私の剣技が及ばなかったばかりに親友の生命を無駄に喪(うしな)わせ、さらに、名ばかりで実体の伴なわない権力を持っていたがために、もう一人の親友をこの手で殺めねばならなかったのだからな。その間際、裏切り者はこう言った『ベオルブの名ではなく、おまえにもっと力があれば!』……まるで奈落の底に突き落とされたような……あまりの衝撃に、怒りも悲しみも忘れていた。自分の意志に関係なく、義務として私はかつての友に剣を振り下ろした」
「……兄上……」
「親友を寝返らせたのは、私の上官だ。奴がどんな手を使ったかは知らん。確かに私が今持っているのは、ベオルブという、若輩たる身には重い家名だけだ。だが、上官には戦場における権限が過分にあった。それを行使する能力は別としてな。奴は、ひとつの重要な拠点を失うことになった失態を、私に押しつけようとしたのだ。そうなれば、ベオルブ家がその名において失った拠点を取り戻してくれると思ったのだろう。現状を知らぬ、浅はかな考えだ。いったいどこにそのような余計な兵力があるというのだ!」
 少年たちは、どちらも言葉を失い、ただ黙って騎士の憤りが静まるのを待った。
「今の私をよく覚えておくがいい。どんな奇麗事も戦場では通用しない。権力であれ武力であれ、力こそが全てだ。それが何もかもを支配する。この死に損ないの姿がその証拠だ」
 静かに語られた言葉は、次第に強さを増していく。
「どんな無能者でも、力さえあれば人の心をも支配できる。だが、力ある者が無能であることは罪であり、無力であることは屈辱以外のなにものでもない。力を得ろ! それを正しく使う術(すべ)を身につけるのだ!」
「はい……!」
 二少年はただただ圧倒され、思わず敬礼しながら答えた。
 ザルバッグはこのとき、兄は、力を正しく使う術こそ正義である、と説いているのだと思った。

 





 ――そう、それが正義だと。だが…………
『“正義”だと? そんな言葉、口に出すのも恥ずかしいわッ!!』
 病によるものだったはずの父の死が兄の仕業であったことを知り、それを質そうとしたときの、ダイスダーグの言葉。
 兄上……、何故です?
『愚かな弟よ……。冥土のみやげに教えてやろう……』
 自らの罪を暴かれ、実の弟を捕えさせようとした兄を討ったとき、ダイスダーグは人外のもの、魔の化身たるルカヴィに変貌した。そうして最期にその醜い姿をさらして告げた、真実。
 知りたくはなかった。だが、知らねばならないことだった。
『バルバネスはこの私が殺した……。私が殺したのだよ……』
 そんなに、そんなに力が欲しかったのですか、兄上!
『力を持つ我々が、墜ちるところまで墜ちた王家に取って代わるのも当然ではないか!! それが正しい力の使い方だ!!』
 父殺しを断罪するザルバッグに、ダイスダーグはそう切り返した。
 ――そんなはずはない! 力を正しく行使することと支配することは違う!
 そのとき、鋭い痛みがザルバッグを突き抜けていった。どこが傷ついたのかはわからない。だが、闇の中から剣によって攻撃を受けたのは確かであった。
 ――こんな暗闇で、誰が、どこから?
「兄さん、兄さんはヴォルマルフに……ルカヴィに操られているんだよッ!」
 いくらか遠い、必死に訴える声。
 ――ラムザ……か? おまえなのだろう、そこにいるのは。何故、さっきの男はおまえを殺すようオレに命じたのだ? 体が……とてもここにあるように思えない体が、それでも動いているような気がするのは……気のせいではないのか?
「オレは……おまえと……戦っているのか……? なぜだ……?」
 自ら疑問に答えるように、弟殺しを命じた男の言葉を思い出す。
『この男は貴様の兄にして、我が眷属の一員として生まれ変わった……』
 眷属――。魔の眷属か!
 ――そうだ、オレはルカヴィに化身した兄上を見たではないか……。では、オレは、もう――人間ではないのか?
『力を持つ者が持たざる者を支配するのは当たり前! それは持つ者の責任なのだ!!』
 また、ダイスダーグの言葉がよみがえる。
 ――兄上、それは……魔物と手を組んでまでしなければならないことだったのですか?
 そして……
 そして、そのためには、実の弟であるこのオレをも……魔の世界に引きこまなければならなかったのですか。
「逃げろ……、ラムザ……、でないと……オレは……オレは……おまえを……殺してしまう………」
 自らベオルブの名を捨てていながら、たった一人で、ベオルブの名に恥じない正義を貫こうとしているおまえを。
「兄さんーッ!!」
 それでも、おまえは逃げないだろう。オレの刃を受けオレと戦いながら。
 どんなに不利であっても、決して諦めずに。
 かつての……オレのように――――

 





「何しにきた! 士官がたった一人のために持ち場を離れてどうする!!」
 アルフォンスが戦場で倒れたとき、ザルバッグは己の立場を省みず、すぐさま彼のもとに駆けつけていた。敵の城門を破っただけで戦場はまだ移っていない。このぽつんぽつんと岩が点在するだけの広大な平原で、敵味方入り乱れ、兵(つわもの)たちが血みどろになって命の駆け引きをしている。ザルバッグは雨霰と降り注ぐ矢と魔法の間をかいくぐって、陽動のために仲間から離れた親友の危機に現れたのだ。
「ここまでくれば、オレ一人抜けても問題ない。あとは城が落ちるのを待てばいい……だが、おまえは今すぐ止血しなければ死ぬんだぞ」
「ばかかおまえは! ここは戦場だぞ、何もない平原を突っ切るみたいに、なんだって平然とこんなところまで……! 矢も魔法もおまえをよけるわけじゃないんだぞ」
 その言葉を証明するように、二人が楯代わりにしている岩に鋼鉄の矢が当たる。
「そんなの、たった今通ってきたからよくわかってるさ! だがオレのチョコボは尖ったものが大嫌いでな、矢かわしの天才なんだ。魔法で狙われたって強力なチョコケアルでしのげる。おまえだって今その恩恵を受けているんだぞ」
 ザルバッグはそう返しながら、チョコケアルでようやく多量の出血が止まったアルフォンスの腕に、裂いた袖を巻きつけた。
「だったら早く戻れ! こっちがいくら有利でもここはまだ激戦区なんだ。おまえがいたら集中的に狙われちまうじゃないか。俺を生かしたかったらさっさとここから離れろ!」
 ザルバッグは、たとえチョコボに乗っていなくても、ただの見習いだった頃から何故か戦場に立つと非常に人目を引いた。今も、彼のあとを追って数名の騎士が近づいてきていた。
 それがわかっていて、ザルバッグはあくまでも冷静だった。
「オレだってミイラ取りがミイラになるような間抜けなことはしたくない」
 そう言いながら、アルフォンスを担ごうとする。
「おまえの手など借りん! いいからさっさと行け」
 アルフォンスが邪険な態度をとるのは、自分の命が惜しいからではない。そんなもの、陽動作戦に参加したときからないものと諦めている。作戦が成功したあとも、自分だけがこうして生きていることからして奇跡なのだ。だからこそ、親友まで道連れにしたくなかった。いくらザルバッグのチョコボが俊足で有名であっても、甲冑を着込んだ男が二人も乗れば容易に敵の的になる。
「まあ、そう臆するな」
 何を考えているのか、ザルバッグはどこかのんびりと言った。
「このチョコボをしつけたのはこのオレだ。たとえ乗り手が手綱をとれない臆病な子供でも、重傷のくせに強がりばかりいう大人でも、ちゃんと安全地帯まで運んでくれる」
「な、何!? それじゃおまえはどうするんだっ」
 ザルバッグは、口ばかり達者で実際はろくに動けない親友を、チョコケアルをかけ終えておとなしく待っていたチョコボに乗せた。
「オレにだって足がある」
 そう答えながら、乗獣の脇腹を叩く。
「ザルバッグ!!」
 チョコボは主人の思惑通りに怪我人だけを乗せて、間近まで迫った騎士たちをよけ、戦場を駆け抜けていった。

 





 ……自分でも、無謀だと思った。士官がとるべきでない行動だとわかってもいた。だが、どうしても見捨てられなかった。もうだめだと諦めたくなかった。
 正義の名において?
 ……違う。それが親友だったからだ。
 アルフォンスはそれでも片腕の機能を失い、永久に戦場から去っていった……
 その別れのときに聞かされた、彼の出生の秘密。
 彼の父親に半分だけ平民の血が流れていること。母親はそれを知らず父と結婚して彼を生んだのだ。そして、我が子に4分の1とはいえ下賎の血が流れていることを知った彼女は、夫に復讐するために、「生っ粋の貴族の娘」を生んで死んだという。
『五十年近く続いたこの戦争も、きっともうすぐ終わるだろう。そうしたら俺は全ての相続権を放棄して妹に譲り、野に下るつもりだ。それまでは、せめて、貴族としてできるだけのことをして領地の民たちの力になりたい』
『アルフォンス……』
 その正統な血を一適も引いていない妹のために、彼は自ら名を捨てるという。ザルバッグには、どうしてもそれが理解できなかった。
『何故だ? おまえにこそ権利はあるのに』
 その問いに答える前に、彼は、さびしそうに笑った。
『もしも祖母の相手が違っていたら、俺は城ではなく粗末な家で育っていた。その違いってなんだろうって思ったよ。祖父は、バルバネス様のようには祖母を認めてくれなかったんだ。いや、それどころじゃない……事実を知る者を全員殺したんだ。その中には"役目"を終えた祖母もいた。他に子供がいなかったからって、平民の子を貴族にする、ただそれだけのために、多くの命を奪わなければならなかったなんて信じられるか? 母だって父を裏切り、他の男と通じてまで"貴族"にこだわった。……俺には、それが正当だと思えること自体が信じられない』
『それならなおさらだ。おまえがそれを正さなければ、同じことが繰り返されるだけじゃないか!』
 義憤にかられるザルバッグに、アルフォンスはただ首を横に振った。
『どうしてだ! アルフォンス、おまえらしくない。オレたち貴族には、貴族なりに果たさなければならない責務があるじゃないか。それをも妹に押しつけるのか?』
『……だから、戦争が終わって落ち着くまではまだこの名を名乗るよ。でも、一段落して生活が安定したら、貴族の持つ権限はやっぱり特別だから……俺にはそれに安住するつもりは毛頭ないけれど、妹には平穏で不自由のない暮らしをさせてやりたいんだ』
『妹って言ったって、バイダー家の血は一適も流れていないじゃないか!』
 その言葉が湾曲的にせよどれほど親友を傷つけるか気づかずに、ザルバッグは叫んだ。
『関係ないよ』
 アルフォンスは、静かに、あっさりと答えた。
『ザルバッグだってそうじゃないか? 片親しか同じじゃなくたって、ラムザ君やアルマさんは大切な弟であり、妹なんだろう?』
 真っ向から問われ、どうにか肯定はしたが即答できたわけではなかった。
 今までザルバッグに弟妹のことをこんなふうに聞いてきた者はいなかった。そのせいか、アルフォンスの言葉が深く胸に突き刺さる。
 そのときザルバッグの脳裏をよぎったのは、幼いラムザやアルマの屈託のない笑顔ではなく、その母親の横顔だった。とても平民の出とは思えない淑やかさと優美さをそなえた、どこか儚げな――父が年甲斐もなく愛したのもうなずけてしまう、美しい女性。けれども、ザルバッグが彼女を見るとき、その瞳に常に“平民出”という被膜がかかっていたのは確かなのだ。それゆえ、彼女に対して心を開くことができないでいた。
 アルフォンスに対しても、そうだ。
 事実を知らされてのち、戦争の最中(さなか)とはいえ、無理をすれば彼に会う機会を設けることはできたのだ。だが、あれこれと理由をつけて、結局彼との再会を果たすことなくきてしまった。
 ――もし、もっとずっと前に彼の出生を知っていたら? あのときあんな無茶をしてまで彼を助けただろうか? いや、それ以前に、彼と親友になっていたか?
 答えは……否、かもしれない。
 幾度も平民と貴族の違いを問うような場面に直面しながら、常に眼をそらしてきた――違うか?
 ――そうだ。
 自分が常に正義の名において行動していたら、妹の親友であり、その身代わりにさらわれたあの哀れな少女、ティータを見殺しになどしなかったはずだ。あのとき、アルガスに事を任せればどうなるかわかっていて、あえて釘を刺すことなくあの場から離れた。
 真実を告げようとしたラムザの言葉をまともに聞き入れようとしなかったのも、そのためではないか?
 戦争の是非を問うと同時に長兄の罪を告発するラムザに、ザルバッグは逆に激昂した。
『兄上が王女誘拐の狂言を仕組んだだと? ラムザッ! おまえは、実の兄がそのような謀略を用いたというのかッ!』
 あのとき、弟よりも、兄を信じた。あらゆる状況がそうさせたとも言える。だが、それだけではなかったのだろう。
『兄さん、兄さんこそこの僕を信じてはくれないのですか!』
 ――ラムザはあんなにも必死だった。あのときに兄上の所業に気づいていたら、こんなことにはならなかったはずだ……。
『腹は違えど同じ血を分けた兄弟と思い今まで目をかけてきたが、所詮、下賎の血は下賎、高貴なベオルブの名を継ぐにはふさわしくないということかッ!!』
 あのときのラムザの傷ついた顔。言いすぎたとすぐに思ったが、怒りに任せてあの言葉が出てきたのは、心の隅で常にそう感じていたからだ。
 ラムザ……。
 ああ、そうだ。オレは、今……おまえと……戦って………
 戦って? この闇の中で? 誰もいないのに……
 ラムザを……殺そうとしている……?
 いや、殺そうとした。あのとき―――

 





「歩けるようになったばかりの赤ん坊ほど、目が離せないものはないというぞ」
 てっきりとめられると思っていたのに、ダイスダーグは意外とあっさりと、ザルバッグに生まれたばかりの妹を訪ねることを許可してくれた。
「ラムザも1歳になったのだろう? ちょうど自由に動き回れるようになったばかりだ。かわいいさかりだろうし、子守りを申し出てみるのもよいかもしれん。だが、だからこそ、ちょっと目を離した隙にラムザが勝手にどこかに行ってしまい、そこで何かあったとしても、そんなに自分を責めることはないぞ」
「はい」
 ザルバッグは、長兄の許可を得ることができたことがうれしくて、この奇妙な忠告を深くとらえることはなかった。
 彼が喜んだのは、むろん、ずっとほしいと思っていた妹が生まれたからであり、ずいぶん久しぶりに弟に会うことができるからだが、他にもうひとつ理由があった。
 あそこには“彼女”がいる。あそこに行けば、大人の女性特有の淑やかさと、母であるがゆえの優しさを同時に兼ね備えた、とても澄んだ瞳と、儚げに微笑む彼女の横顔を見ることができる。
 ……だが、自らの想いをザルバッグが自覚することはなかった。彼女への淡い恋も、偏見という壁を通過することはできなかったのだ。
 彼がラムザの子守りをすることになったのは、偶然だった。いつも彼女の世話をしていたメイドの具合が急に悪くなり、生まれたばかりの娘の世話に追われることになった彼女のために、ザルバッグが自ら子守りを申し出たのである。
 ダイスダーグの言う通り、ラムザはとにかくよく歩きまわった。おまけに力の加減を知らないので、こちらが相手をしてやると、力任せのお返しが数も倍になっ返ってくる。ザルバッグは赤ん坊の底知れぬパワーと、子育てが肉体労働であることを生まれて初めて痛感した。
 目を、離したつもりはなかった。ただラムザが散らかしたものを片づけているうちに、探求心旺盛な赤ん坊が、うっかり開け放たれたままになっていたドアの向こうに興味を示してしまったのである。
「ラムザ!」
 ザルバッグが気づいたとき、ラムザは下り階段に向かって歩いていた。ザルバッグはすぐに駆けだし、ちょうど娘を寝かしつけてやってきた彼女の姿を横目で捕らえながら、階段の縁(へり)にさしかかったラムザの背中に手を伸ばした。そのとき、兄が口にした生まれたばかりのラムザの呼び名を突然思い出した。
『ベオルブの名を汚すべく生を受けた者』
 はっとした。
『ラムザが勝手にどこかに行ってしまい、そこで“何か”あったとしても、そんなに自分を責めることはないぞ』
 ――兄上は、まさか……!?
 そのとき、状況を悟った彼女が悲鳴をあげた。
 ザルバッグは必要以上に最後の一歩を踏みしめて、危ういところでラムザを抱えあげた。が、勢いは止まらず、そのまま二人一緒に段上から消えた。
「ラムザ!!」
 彼女が甲高い悲鳴をあげる。最悪の事態を予想しながら階段をおりた彼女は、そこに、最後の段を枕に、赤ん坊をしっかりと胸に抱きしめて横たわる少年を認めた。
「ああ、ラムザ……!」
 大きな安堵のあとに、ようやく彼女は幼子の命の恩人の名を呼んだ。
「大丈夫ですか、ザルバッグ様」
「……イツッ……」
 できれば平気な顔で立ちあがりたかったが、背中の激痛がそれを許してくれなかった。
 安全地帯にいた赤ん坊にとって、階段を落ちる振動はよほどおもしろかったのか、ラムザはさも楽しげな笑い声をあげている。
「……きっと、将来、大物になるな、こいつ」
 ザルバッグは顔をしかめながら起きあがり、豪胆な弟を母親に委ねた。
「ありがとうございます、ありがとうございます……」
 彼女は涙を流しながら礼を言った。
「いや、オレの不注意から起こったことだ、すまなかった」
 だから泣かないでください――。喉までこの言葉がでかかったが、それが声になることはなかった。
「ザルバッグ様のせいではありません。本当に、ありがとう……。わたし、てっきり………」
 普通に考えれば、このあとに続く言葉は「ラムザも落ちたのかと思った」となる。だが、ザルバッグは別の言葉を想像し、かっとして叫んだ。
「てっきりなんだ!? オレが事故と見せかけてラムザを殺そうとしたとでもいうのか!」
「えっ、い、いいえ……。も、申し訳ありません……」
 彼女の怯えたような目がザルバッグの心臓に突き刺さる。それは、罪悪感という痛みとなってひどくうずいた。
「ベオルブは正義を司るもの、決してそんな卑劣な真似などしない!」
 罪の意識を振り払うように叫ぶ。
 それに答えたのは、いきなり怒鳴られて驚いたラムザの盛大な泣き声であった。

 





 ――怒鳴ったのは、彼女に心を見透かされたような気がしたからだ。もしも、あのとき彼女が悲鳴をあげなければ、オレは……兄上の暗い願望に応えるためにラムザを見殺しにしていたかもしれない。あの人の大切なたからものを、この手で……
 そう思った矢先に、記憶がひとつこぼれ落ちていった。
 ――あの人……? 誰だって?
 このとき、ザルバッグは記憶が混沌としているだけでなく、思考力がひどく低下していることに気づいた。
 ――いや、そうだ、父上が愛された方だ。どうかしている、彼女のことを忘れるなんて。そう、彼女は毒で死んだ父上の……。名は、確か……
 そこまで考え、自分の言葉にぎくりとする。
 ――毒? 違う。父上は、病いで亡くなったのだ。
 そうだったと思い直そうとしたとき、化身したダイスダーグの姿と言葉が稲妻のように閃いた。
『バルバネスはこの私が殺したのだよ……。どんな剣の達人でも毒には勝てんというわけだ……』
 ――嘘だ……! 兄上が、あの誇り高い兄上が、父上を病死とみせかけて毒殺しただけでなく、魔物と同化していたなんてあるはずがない! そんなことは……ありえない……
 否定することはできる。だが、ほとんどの記憶があいまいになっているのに、はっきりと思い出せる兄の鮮烈な言葉を無視することはできなかった。
『おまえがそうやって剣を振れるのは誰のおかげだと思っている!? 英雄と呼ばれるのは誰のおかげだ! すべてこの私だ! この私が手を汚しているおかげでおまえはその立場にいられるのだ!』
 その兄から譲られた、北天騎士団団長の座。
『イヴァリースの軍神はガリオンヌにあり!』
 亡き国王からの賞賛。それすら兄の画策による恩恵だったのか。
 野心家の兄に絶対の信頼を寄せる実直で有能な弟は、ベオルブの名を高め、より権力を掌握しやすくするためにさぞ都合よく動いてくれたに違いない。
 ――オレは、兄上に祭り上げられていたにすぎないのか。
 それとも、王家や貴族たちへの配慮や根回しが不得手だった自分の代わりに、ただ弟を“英雄”にするためにダイスダーグは自ら手を汚したというのだろうか。
 そう好意的に考え直してみようとする。そもそもルカヴィなどお伽話の産物だ。実在するはずがない。
『ザルバッグが乱心したッ!!』
 そういえば、ダイスダーグはそう叫んでいた。
 ――乱心……オレは狂っているのか? だから、兄上がいるはずのないルカヴィなどに見えたのか。そういえば、ここは……どこだった?
『ザルバッグを捕らえよ!』
 ――兄上………オレは狂って、それでこんな暗いところに放り込まれたのですか?
 兄? オレに……兄などいたのか……?
 記憶の欠落がひどくなり、言葉だけが無秩序に交錯する。
『愚か者どもめ! 何故、私に従わん! 何故、私に逆らうのだ!』
 ――耳元で怒鳴らないでくれ! 大事なことが思い出せない……
 大事なこと……“あの人”の名……
『鴎国(オルダリーア)の人間だけが敵ではない』
 敵……
『……自分の意志に関係なく、私はかつての友に剣を振り下ろした……』
 かつての……トモ……。誰か……いた……ような…………
『無理もない。我がベオルブの名を汚すべく生を受けた者が、自分の弟なのだからな』
 弟? オレに?
『本当に、ありがとう……。わたし、てっきり………』
 泣いている? ああ、“彼女”だ。そう、彼女……。名……は……何故だ、何故、知っているはずなのに、名前が出てこないんだ?
『ザルバッグ兄さんは何もご存じないのですかッ!?』
 何も……。そうか、思い出せないのではない。オレは何も知らないのだ。だからこんなことに――
 そのとき、凄まじい衝撃がザルバッグを襲った。
 ――うっ!? なんだ、今のは。体などないはずなのに、痛みだけがある……
 ……体が、ない?
 ばかな、そんなはずあるものかッ!
 オレは……
『兄さん、兄さんはルカヴィに操られているんだよッ!』
 操られて……
 ――そうだ、オレは………!!
 ほんの一瞬、ばらばらだった記憶の断片が一本の線になる。自己の自覚を促す最たるもの、確たる記憶を取り戻したからか、闇の一部が退き、そこから石の部屋と傷だらけの金髪の青年が見えた。
 ――ラムザ!!
 そうだ、オレはラムザと戦わされていたのだ! 魔物の手に落ちて……。
 ……魔物……の……
 ラムザは浅いがいくつも刀傷を受けていた。足元に落ちている誰かの防具が、何故か“嫌な物”に見える。あれは百八の数珠。生き血を啜(すす)る魔物に特に効力のあるものだ。
 弟を護るように剣を構える、彼の仲間たち。
 あの防具は落ちていたのではない。誰か――ラムザが?――祈りに近い念を込めて投げつけたのだ。
 ――そうだったのか。
 ザルバッグは冷静にすべての事実を受け入れた。兄の所業と正体を。変貌した自分自身を。弟が今見ているものを。
「頼む……ラムザ……」
 考える前に言葉がでてくる。
「このオレを……殺してくれ……」
 ――オレはもはや、人間ではない……。ただの、闇にうごめく魔物だ。
「苦しいんだ……。手足の感覚もないのに……ひどく……いろいろな部分が……痛むんだ……」
 おまえの仲間たちが、おまえのためにつけた傷。だが、一番痛むのは武器による傷ではない。
「そして……」
 ラムザの顔が苦しみにゆがむ。わかっている。自分が何を言っているのか。けれど。
「なによりも……怖い……。記憶が少しずつ……あいまいに……なっていく……」
 ――せっかく思い出したのに、ラムザ、そこにいるのが「おまえだ」という確信すら、少しずつなくなっていくのがわかるんだ……
 抜けていく記憶に比例するように、闇が再びザルバッグを覆い隠そうとする。
「大丈夫だよ、兄さんッ!」
 声に、涙がにじんでいた。
「きっと何か……、何か方法があるよ! だから、あきらめないでッ! お願いだから、あきらめないでッ!!」
「いや……」
 ラムザ……。もはや、そういう問題ではないんだ。これは……この苦しみは、とても「ここ」にあるとは思えない、体の、そして、心の痛みは……
 そのとき、ひとつの事実が霹靂(へきれき)のように閃き、ザルバッグを慄然とさせた。
 ――そうか! やっと、やっとわかった。手足の感覚がなくて当然だ。この闇は、オレの心そのものなのだ。この痛みすら、オレの悔恨と、羞恥と、悲しみがもたらしているもの……
 オレは、自分自身の中に閉じ込められ、そして……自ら奥深く入り込んでしまったのだ。
 ここから解放されるには、この暗闇を取り除くには、心を手放さなければならない。だが、それは完全なる自我の喪失を意味する。そうしたら、この身はただ生き血を啜る影に成り果てるだろう。
「もう……オレはだめだ……早く……殺してくれ……」
 それが一番の方法なのだ、ラムザ。
「苦しい……誰かが……耳元で……喋っている……誘っている……泣いている……脅している……」
 すべてオレ自身がつくりだしている幻影にすぎない。だが、オレがオレである以上、オレには、これらを静めることはできない……
 だから、ラムザ……
「なんとかしてくれ……助けてくれ……。早く、早く楽にしてくれ………」
 すまない……。酷なことを頼んでいるのはわかっている。おまえにとって、それがどれほどの苦しみをもたらすのかも。
 けれど、こうして訴えている今も、オレの体は、おまえを狙い、おまえに刃を向けているのだ。
 ………やめさせてくれ。
 頼む、ラムザ!
 そのとき、金色の線が闇を引き裂き、完全に打ち払う。
 視界が一気に拓け、間近に見覚えのある瞳があった。悲しげな、とても澄んだ彼女の双眸(ひとみ)が。
 それが、彼からあらゆる苦しみを取り除いていった。



 ――アルマイード!



 どうしても思い出せなかった、“彼女”の名。
 その名とともに、抜け落ちた記憶がよみがえる。
 光に満ちた視界が、手足の感覚が、体を包む正常な空気が戻ってくる。……そして、痛みが。
 心がもたらすそれと違って、肉体の痛みの、なんて穏やかなことか。
 たとえ、それが、この命を奪うほどのものであっても。
 気づけば、その瞳は彼女のものではなく、血のりついた剣を握り締める腹違いの弟のものだった。
 ――そうか。そうだったのか……
 彼女はもうこの世にはいない。だが、その心の片鱗は、息子に確かに受け継がれている。
 彼女の横顔しか思い出せないほど、ずっと彼女から目をそらし続けていたザルバッグは、初めてまともにその瞳をとらえた。
  ――わたしは、ただ、バルバネス様を愛しただけ……――
 彼女は、城も、絹のドレスも、贅沢な食事も望んでなどいなかった。
  ――人を想う気持ちに、身分がどれほどの意味を持つのですか?――
 彼女の瞳は、いつもそう問いかけていた。真っ向から問われたら答えなければならないような気がして、いつも彼女から目をそらしていた。 
 ――彼女は、オレがただの偏見で彼女を見下していることに気づいていたのだ。それだけでなく、半分とはいえ血のつながったラムザやアルマをも見下していることに。
 だから、彼女の笑みはいつも悲しそうだったのだ。
 このオレを憐れんで。
 彼女の念いはおまえに受け継がれたのか。
 そういえば、おまえもまた、同じ問いを問い続けていた。
 だが、オレが答えるまでもないだろう? おまえは、もう、知っているじゃないか。
 おまえの仲間たちが、その答えだ。
「すまない……ラムザ……。つらい……思いを……させたな……」
 感謝する……。おまえが止めを刺してくれて。そんなおまえだからこそ、安心して頼める。
「アルマを……アルマを助けてやってくれ……」
 あの人の名と魂を受け継いだ、オレのたった一人の妹を。
「おまえだけが……頼りだ……」
 ラムザの瞳に涙があふれ、流れていく。
 ――おまえも静かに泣くのだな。兄弟とは……奇妙なところが似るものだ……。
 とても久しぶりに、弟の顔を見た気がした。
 いつの間に、彼はこんなにも大人になっていたのだろう。
 今まで自分は彼の何を見ていたのだろう?
 だが、もう大丈夫だ。
 あとは、全てをラムザ・ベオルブに委ねればいい。
「いくよ……。ラムザ……さらばだ……」  再び闇が視界を覆う。だが、そこにはもはや苦痛はない。  ……彼方に、小さな光が見える。
 ザルバッグはそこに何があるか知っていたが、そちらに行きたいとは思わなかった。
 今はただ、静かに眠りたい。
 そのとき、ラムザの涙が頬に落ちたのがわかった。
「……ありがとう……」
 その言葉を遺し、ザルバッグ・ベオルブの魂はようやく魔の呪縛から解放された。魔に冒された肉体はその場で消滅し、ラムザには、兄をこの手で貫いた感触だけが残された。

 





「……そういえば、どうしているだろう」
 窓際の机の傍らに立っていたアルフォンスは、急に親友のことを思い出して独り言のように呟いた。
「何がです、兄様」
 利き腕が不自由な兄の代わりにその言葉を書面にしたためていた妹が、美しくほっそりとした面(おもて)をあげる。
 アルフォンスはこの戦争で右腕の機能を失っただけですんだが、彼の父親は命そのものを失い、この辺境の地に兄と妹だけが遺されることになった。五十年戦争の末期であったためアルフォンスは父のあとを継ぐことをひどく悩んだが、敗色濃い戦争が終わったところで妹が安らげるとはとても思えず、結局彼が当主の座に就いた。
 あれから3年の歳月が流れようとしている。時勢ということもあるだろうが、どんなに狭くとも、領土をひとつ任されることで生じる仕事の多さや責任の重さは、アルフォンスの想像をはるかに超えていた。それに、あんな出生である自分だからこそ、貴族の名のもとに民たちにできることがあることにも気づいた。
『オレたち貴族には、貴族なりに果たさなければならない責務があるじゃないか。それをも妹に押しつけるのか?』
 ザルバッグはそのことを知っていたのだろう。あれは、確か20歳かそこらのこと。まったく、たいした男だ。
「どうしてか、急にザルバッグのことを思い出したんだ。どうやらこの戦争も先が見えてきたようだし、あいつもそろそろ落ち着くべきじゃないかとね」
「それを言うなら兄様もですわ。早くはっきりしてあげないとクララさんがかわいそう」
 微笑みを浮かべながら鋭いことを言う妹に、アルフォンスは素直に赤面した。
「ど、どうしておまえがクララのことを知っているんだ?」
「そういうことに関しては、女のほうが情報収集力がありますのよ」
「……まったく、間者顔負けだな。もちろん考えてはいるさ。だが、それも戦争が終わってからの話だ」
「そうなんですの?」
 いかにも残念そうに言う妹に、アルフォンスは思わず苦笑を浮かべた。
「俺たちが生まれたときから戦争は始まっていた。そのため俺たちは平和を知らずにここまできてしまったが、これから生まれてくる子供達は、全く戦争を知らずに育つんだ。だからこそいい世界をつくってやりたい。最近よく耳にするディリータという若者がもしも王位についたら……平民出の彼が国王になれば、貴族と平民の軋轢も少しはなくなるんじゃないかと思うんだ。そうなれば貴族が負う心労も少しは軽減するだろう」
 兄の言葉に、妹は夢見るような遠い眼差を向けた。
「戦争のない世界……。なんだかにわかには信じられませんわ。五十年戦争が終わるときもそう思いましたのに、1年もせずまた戦争ですもの」
「今度こそ大丈夫さ。だからこそ、今まで軍人としてしか生きることを許されなかったあいつにも、ようやく人としての幸せを求める権利が与えられるだろう」
「ザルバッグ様がですか? それではまるで、今は人としての幸せを諦めているように聞こえますわ」
「その通りだよ」
 答えながら、アルフォンスは最後となった戦場を思い出していた。
 あのとき――深手を負って死を覚悟して倒れたというのに、アルフォンスはこちらに向かってくる親友を一目見て、苦痛も、ここが戦場であることも忘れてしまった。ザルバッグは、その行為を鑑みれば当然そう見えてしかるべきなのに、少しも“勇猛”には見えず、穏やかな午後の草原に遠乗りにきたとでもいうように、実に“堂々と”していた。
 アルフォンスは、このとき、自分の親友が戦場に好かれているのだと……戦争そのものが自身の象徴として、ザルバッグ・ベオルブのような人間を欲しているのだと悟った。
「確かにあいつは根っからの武人だ。ベオルブ家にかくあるべくして生まれてきたと言ってもいい。だが、あいつ自身は決して戦いを好んではいない。見ていてこっちのほうがつらいときもあった。あいつはそれをおくびにもださなかったが……よく投げ出さず、ベオルブ家の名のもとに果たすべき使命を全うしたと思う」
 アルフォンスはどこかしみじみと言うと、何気なく窓に目をやり、ザルバッグが好きだったなと思いながら暮れなずむ空を見つめた。
「……だから、これからは、少しくらいその名を忘れて普通に生きてもらいたいんだ」
「お兄様……」
 妹の呟きに、自分の言葉が急に気障に思えて照れくさくなったが、構わずに続ける。
「もう、おいそれと会うことはできなくなってしまったが、この戦争が終わりディリータが王となれば、もしかしたら何かの折に再会を果たすことができるかもしれない。その頃は、きっと、お互いにいい父親になっているだろうな」
 静かな確信を込めて呟く。アルフォンスが見守るなか陽はゆっくりと沈み、やがてあらゆるものを安らかな瞑りへと誘(いざな)う夜の帷が、世界をやさしく包み込んでいった。

 

――終――
2000.02.16


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