祈り


〜1〜


 夕方。明るかった西の空が暗くなり、うっすらと星が輝きはじめている。
 遅い買い物をする女達や、早々と酒場へ繰り出す荒くれ者たちの中に、その男はいた。
 一見すると旅人のようにも見えるが、荷物は持っていない。何よりも、頭からつま先まで、男の全身を覆う黒という色と、造りもののような端正な顔立ちが、尋常ではない雰囲気を醸している。
 周囲の者たちはすれ違いざまに男を見ては、その美しさに目を奪われた。
 男はそんな周囲の視線を気に留めるようなそぶりは見せず、一心不乱に歩きつづける。
 まるで誰かを探しているように。
 男は不意に立ち止まった。それと同時に、男を取り巻く空気さえも動きを止めた。
 ほんの一瞬だったが、男は確かに感じていた。彼が求めているものの気配、波動を。
 春の夜らしい強い風が吹きぬけた。黒い髪がたなびく。漆黒の瞳の奥が、微かに光った。


 街に完全な夜が訪れた。大空にはいつになく美しい星が瞬いて、いかにも春の夜という感じだ。だが酒場の男達にはそんな事どこ吹く風、である。
 その中でも一層酒くさい、奥の部屋はなおさらだ。
 特に今ポーカーに興じている、黒いコートを着た銀髪の男は。
―…ったく、ポーカーフェイスが下手な野郎だな…。
 今まで何度も男に挑んで玉砕してきた挑戦者の、かなり緩んだ口元を見る限りでは、
―フルハウス…いや、フォーカードくらいか?
 男の手持ちのカードは、見事にバラバラである。
―ちっ…こんな野郎に負けるのも癪だが…仕方ねーな。
 男は溜息をついて、カードを出した。
「へぇ…あんたがカードで負けるとは珍しいな」
「あんたも相当酔ってるくせしてよく俺に勝てたな」
「負け惜しみなんか聞きたくないぜ、セッツァー」
 挑戦者のいやらしい声がセッツァーの神経を逆撫でする。鬼の首を取ったように得意に振舞う男の嫌味は、さらに続きそうだった。
「分かった。俺の負けだ」
 セッツァーはこのような場から逃れる時にもっとも適切なセリフを言った。大抵のザコはこのセリフだけで満足してくれる。案の定、この男もその一人のようだ。
 男の目に満足げな気配が浮かんだのを確認すると、セッツァーは椅子から立ち上がりその場から離れようとした。
「おいおい、もう帰っちまうのか?」
 男はまだ嫌味を言い足りないようだ。セッツァーは無視してずんずん入り口のほうへ進む。
 男が今までセッツァーに負けつづけてきて味わった恨みを込めたような猫なで声で禁句を言うまでは。
「ダリルもバカな女だな。お前みたいな奴とくっつくなんて」
 振り返ったセッツァーの目に殺気が宿ったことは、男以外の誰もが感じていた。
 男は調子に乗って喋りつづける。セッツァーが自分の方に戻ってきているのにも気づいていない。周りも自然と静かになる。というより、セッツァーと男の間に入らないよう、道を開けた、と言った方が正しいかもしれない。
 このあとの展開を予想して、すでに自分のジョッキを大事に抱える者もいる。
「俺だったら空を飛ぶなんてバカなマネしないで、大事に大事にしてやったのによぉ」
 それが引き金となった。
 次の瞬間、いやというほどセッツァーの拳を食らった男は隣のテーブルに突っ込んでいた。それを合図に男の仲間がセッツァーに襲いかかる。
 ものの数分もしないうちに酒場の中は喧騒の場と化していた。


 それから少し経った夜の通りを、セッツァーは一人で歩いていた。勝負はすぐについたのである。
 通りに人けはなく、聞こえるのは徐々に春を運んでくる風の音だけだ。
 セッツァーは立ち止まり、空を仰いだ。
 春の夜を飾る星々も、今はどこか哀愁を帯びているように感じられる。
 セッツァーがダリルと初めてあの丘を訪れた時も、このような空だった。
 どちらが先に星を掴むことができるか勝負しよう。そんな他愛ない一言から始まった、互いのスピードを競い合う日々。
 エンジンをフルに動かし、全速力で青空を駆け抜けていく。風を全身で受け止め、一瞬鳥になったような錯覚を覚える。
 彼女は白き翼ファルコンで、自分は黒き翼ブラックジャックで。
 この先どうなろうと構わない。スリルと快楽に満ちた今が続けばそれでいい。
―今思えば、あれは若さ故の愚かさだったのかもしれない…。
 そこまで考えて、セッツァーは自分が感傷的な気分になっているのに気づいた。
「…あいつがあんな事言うから悪いんだ」
 声に出して、我ながら子供くさいと思った。
―とりあえず帰るか…周りの奴らもしびれを切らす頃だろうし。
 夜の裏通りで油断してはいけない。建物の影に潜んでいるひったくりやギャングに襲われてしまうからだ。酒場での小競り合いとはわけが違う。下手をすれば命を落としかねない。
 セッツァーは少し小走りに、家路を急いだ。


 帰ってきたものの、やることなどなかった。時計を見るとまだ12時。普段ならまだ酒場でポーカーに興じている時間である。
 セッツァーは改めてあの男を憎たらしく思った。
「…ま、適当に過ごすか…」
 本を読む、ソリティアをする、酒を飲む…そうして取り留めのないことをしているうちに夜は更けていった。
 セッツァーも、いつのまにかベッドの上で眠ってしまっていた。


 トントントン…


 まどろんでいたセッツァーの意識は、その音で現実に引き戻された。
 まだ半分夢の中にいる状態で時計を見ると、いつの間にか針は午前2時をさしている。
―空耳か…?
 そう思って耳を澄ませていると、再びあの音―ドアがノックされる音が、静かな室内に響き渡る。
 真夜中のノックは応じない方が身のためだということは、この街に住む誰もが知っている。ドアの先にいる相手は強盗、ギャング、何でもアリなのだ。
―案外、あの男かもな。
 有り得ない話ではない。あの男の性格からして、理由をつけて仕返しをしにきたのかもしれない。
 無視を決め込み、寝返りをうった。
 すると、
「お願いします。ここを開けてくれませんか?」
 ノックの主が声をかけてきた。思いがけない事態にセッツァーは跳ね起きた。声はあの男のものではない。
 荒くれ男では真似できないような、滑らかな口調だ。
「あなたにどうしても会いたいんです。ほんの少しで構いませんから。僕はあなたに危害を加える者じゃありません」
 じゃあ誰なんだよ、という言葉がセッツァーの喉を通ろうとしたが、言うのは止めておいた。
「お願いします、ここを開けてください」
 最後の言葉のあと、沈黙が流れ出した。
―誰なんだろう…。
 今まで出逢ってきた人間の中に、ノックの主と同じ声を持つ者はいないとセッツァーは判断を下した。そうすると、未知の相手に対する好奇心はセッツァーの中で確実に膨らんでいく。
 それに何より…セッツァーの中にいる何者かが、セッツァー自身に訴えているような気がしたのだ。
 ドアを開けろ、と。
 セッツァーはベッドから降りた。立ちくらみを堪えながらドアに近づく。
「誰だ?」
「ドアを開けてくれませんか?」
「あんたが危険じゃないっていう証拠はあるのかよ」
「ありませんよ。でも、僕は無害です」
 職業柄、セッツァーは声色で相手の心理を読むことができた。言うなれば、『声の顔』を読むということだ。それくらい出来なければギャンブラーなど務まるはずもない。
 今もその能力を使って、相手を読もうと頭を働かせる。
―…タチの悪い奴だったら、返り討ちにしてやるさ。
 セッツァーは心を決めた。
「…分かった。開けるぞ」
 そっと鍵をはずす。カチャリという音。今度はチェーンもはずす。そしてドアノブに手をかけ、ノブを回す。ゆっくりドアを開く。ドアの隙間から、相手を見る。
 その人間は、背後の闇に同化してしまいそうな、黒い髪と黒い服、そして漆黒のひとみを持つ男だった。
 男はセッツァーと目が合った瞬間、まるで恋人と再会をしたかのような、嬉しそうな顔をした。
 会ったことのない相手だが、本当に危ない者ではなさそうだ。セッツァーは完全にドアを開けた。
「で、何の用?」
「セッツァー…また会えて嬉しいです。ずっとあなたを探していました」
 セッツァーも先ほどから記憶をたどって、その中からこの男のことを探し出そうとしていた。が、やはり男に心当たりはない。
「どうしても、もう一度あなたに会いたかったんです」
「あのさぁ…人違いじゃねぇのか?悪いけど、俺あんたに見覚えないぜ」
 男の熱烈な視線を無視するのはいくらか心苦しかったが、事実なのだから仕方ない。
「無理ないですよ。僕だって、あなたと話をするのは初めてなんですから」
「はぁ?何だよそれ…あんたストーカーか何かか?」
 だが男の言葉に偽りはなさそうだ。男は何かを演じているような素振りを全く見せていない。
「違いますよ…まぁ、仕方ありませんね。あなたにしてみれば、僕は見ず知らずの男なのだから」
「分かってるじゃねぇか」
 セッツァーはわざとらしく溜息をついたが、特に反応は返ってこない。皮肉の通じる相手ではなさそうだ。
「あの…差し出がましいですけど、お願いがあるんです」
「何?」
「見せて頂けませんか?」
「………?」
 男はにこりと微笑んだ。セッツァーには、それは相手に自分の思考を読まれないためのギャンブラーの笑みのように見えた。
「あなたの白い翼です」

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Wallpaper:Cloister Arts様