誰でもなく 誰でもいい 誰か

 

 

己に正直なのは、それだけで罪となるのか。

己の心を裏切るのが、罪なのか。

立っている足元さえ定かでないのなら、何をもって断じれば正しい道が分かるのか。

・・・己の心が分からないのは、そんなに罪なのか。

己をさえ、持て余しているなら、どうして他者を理解することができるのだろうか。

そこには気遣っているという錯覚しか、ありえないのではないか。

全てが錯覚ならば、良心を信じることも罪へとつながりかねないのではないか。

惜しみなく奪う、惜しみなく与える・・・

本当に信じるのは、信じなければいけないのは・・・

この思いに嘘は無い。

私は確かにセシルを愛している。

理由をいくらでも思い付くくらいに・・・でも本当は理由なんていらないくらいに。

彼へと魂ごと引き寄せられるのが実感できる。

激しい渇望、そして充足、安寧。やすらぎを全て与えてくれる。

でも、彼から安らぎを得られなくても、それでこの気持ちが変わるわけではない。

理由は説明できる。でも理由が重要なのではない。

そして彼も私に愛を注いでくれる。

心が通じ、魂に見えない紐帯があるという感触すら感じられる。

彼との挙式が決まって、誰もが私たち二人の幸せを祝ってくれている。

曰く、至上の幸福を手にしている・・・と。

しかし、私にとって大事な存在は彼だけでは・・・

私だけをいつでも見つめている、もう一対の瞳。

もう一人の、私だけの騎士。

矜持と自戒、そして友情などというものの狭間で、一人もがき苦しんでいる彼。

私は彼の、表には出さずにいるその葛藤、混沌を愛している。

彼が嫉妬に顔を歪め、それを自制して更に苦しむ様を見て、私は彼の愛を実感する。

無条件に注がれる愛の心地よさに酔いしれる。

それは、彼の愛を、愛してしまったから・・・

彼の愛への応え方が、セシルへのものと違うだけ。

そしてそれは、カインにも本当は分かっているはず。

私には、カインと繋がっている心の紐帯も感じられるのだから。

だから彼の前では、ことさらセシルに触れずにはいられない。

セシルの腕に抱きしめられて彼の優しい愛を感じると同時に、私はカインの苦い愛をいつでも感じていた。

私の心はセシルを愛している。それは偽りのない本心。

そして、私はカインも愛している。それも私の愛の形の一つ。

嘘も誤魔化しもない、私の心の形。

今日はカインの姿を見かけない。

彼の部屋にも、竜騎士の詰め所にも、訓練場にも・・・

セシルも彼を見ていないと言っていた。

何故か胸騒ぎがする。でも不安を無理に押さえつける。

大丈夫、心配はない。彼が私のそばを離れるはずはない。

彼は私への愛を捨てられない。

私は・・・彼への愛を捨てられない・・・

 

セシルとローザの挙式が正式に決まって数日後と思ってください。

 

「誰でもなく 誰でもいい 誰か」は、愛する立原道造氏の詩の一節です。

 


 

今歩いている道は人に提示されたうちの一つ。

目の前に無数に並べられていた選択肢の一つ。

しかし選んだのは己の意志だった。この道を行けと言われ、その言葉に従うと決めたのは己自身だった。

その結果に後悔はない。いや、正確には己への後悔はない。

己の選択によって他者が悲しんだら、そのことに関しては心から悔いるだろう。

だが、選択によって己が罪の贖いに喘ぐなら、そこには悔いがあってはならないはず。

心の逃げ道を作ってはならないはず。

己の選択なら、その意味、その理由、その結果の罪も功も全ては我が身だけのもの。

・・・・・・我が身は罪を背負う為の存在なのか。

罪を知り、意味を知り、贖う為に生まれてきたのなら、意識ある限り罪を求め誘惑に身を晒し、

耐えることが我が身の存在理由なのか。

それとも、罪へとひかれゆくこの心の弱さこそが我が心の形なのか。

俺は彼女を愛している。その心に偽りはなく、後悔もない。

報われない思いを無理に消すなら、それは自分を偽り騙すことになる。

そして、心で操作できる感情を認めることで愛を、そして愛を抱かせた対象を侮辱する行為となる。

そして俺のこの愛は、無理に押さえられずに育まれた思いだ。

ローザはセシルを愛している。

その気持ちに嘘はないだろう。

セシルと共にある時の彼女の輝き、

心からほとばしる昂揚のきらめきは俺の心を捉えている要素の一つと今では成り果てている。

しかし、ローザには自分でも気づいていないだろう錯覚がある。

本当の彼女の心は俺にある。

彼女の良心が遮るのだろうか。

それともセシルへの表面的な愛が目隠しとなっているのか。周りの祝福に惑わされているのか。

彼女は一つの区切りを選び、俺を試そうとした。

その選択は無意識のものだろうが・・・・・・

雑踏の中で、仲間に囲まれた中で、二人でいる中。

そして3人でいる、セシルは気づいていないかもしれない緊張した空気の中で。

ローザはセシルに触れ、セシルを見つめ、彼の温かさに包まれながらも意識は俺に集中していた。

彼女はいつでもセシルを通して俺の愛を確かめていた。

そして俺はそんな彼女の秘められた思いに気づいていた。

それが彼女の無意識の行為であろうと、それは問題ではない。

おれが欲しいのは表面を飾って取り繕う、言葉を選ぶ「お奇麗な愛」ではない。

二人の挙式が正式に決まった。

そのことに恨みも悔いもない。それどころか、俺はセシルへの祝いの言葉さえ口にできるかもしれない。

「錯覚の愛を手に入れておめでとう」と。

表面だけの愛、甘いだけの愛はいらない。

そんなものをセシルが手にしても口惜しくはない。反対に同情を覚えるだけだ。

うわべを覆っているだけの愛、甘いだけで平坦な味わい、そして愛する者の体をセシルは手に入れた。

俺は覆いを外したその奥に隠された愛、苦く複雑で豊潤にして芳醇な味と香に酔いしれよう。

そして愛する者の心を、魂をこの腕に抱きとめよう。

その日、まだ闇が朝の侵蝕を拒み抗っている頃に俺は城を出た。

このまま国を出て、しばらく一人になるつもりだ。

今は時間をおくべき時だ。

祝いのさなか、セシルの気持ちを目の前にして彼とローザの愛をたとえ心の中ででも見下したくはない。

心とは違う裏腹な笑みを送るなど、そんな無粋な真似はしたくない。

そして、これは俺からローザへの密かな贈り物でもある。

愛するローザが自分の本当の気持ちに気づき、

俺と共にお互いが見えない場所でこの苦い美酒に耽溺するように。

俺の愛するこの美酒を、必ずローザも愛するだろう。

 

「誰でもなく 誰でもいい 誰か」は、愛する立原道造氏の詩の一節です。

 


 

苦痛を伴う行為を、誰が喜んで行うものだろうか。

それが正しい姿だと分かっていても、いや、分かっていると思い込まされていたとしてもだ。

常識や良心を、自分自身の葛藤と困難から掴み取った者が、いったいどれだけいると言えるのだろうか。

心の中に強固に巣くい、我が身を律しているのは、

それが正しいと思い込まされている既成概念というものではないのだろうか。

良心、倫理観を掴むための葛藤は、そうと思い込んでいるだけで、

実は最初からそう信じるべくテキストが用意されていているのではないだろうか。

盲目的に信じている良心、常識、倫理観は巧妙に用意された標識に従ってたどり着くように設定された、

「何か」からの心の陥穽なのではないだろうか。

自分の信じている価値観、基準は本当に信じていいものなのだろうか。

心に寄生するかのごとく巣くい、良心を装った「何か」に惑わされ、盲目にされ、

真実からかえって遠ざかっているのではないだろうか。

自分の言動は正しい、その判断基準は正しいと断じるのは傲慢さではないのだろうか。

そして迷ったままでいるのは、それとまた重さに違いのない罪ではないだろうか。

最初から答えの用意されている「常識」に身を任せ安住するのは、この上ない安心感と自信をもたらす。

しかし・・・それは真実なのだろうか。

唯一の真実が本当にあるのなら、

それは決して心を持つ存在には触れることなど叶わないのではないだろうか。

ものを見ながらにして、めしいたこの身には、己の立脚しているのが光の中か闇の中か、

それとも混沌の中かさえも、思い込んでいる以上には判断出来る筈もないのではないか。

罪は・・・この心にこそあるのだろうか。

僕は全てを受け入れたい。あるがままの姿で。

葛藤も喜びも悲しみも、心の美しさそして醜さも。

僕は誰も否定したくない。

その人の見えている部分だけのありようで、その人を自分の判断の型に嵌めてしまいたくはない。

その人の自分で演出している、他者へ見せたがっている作られた姿、

見せずに隠している姿、自分でも気づかない隠れている姿。

どれもがその人にとっての真実なのだから、僕に出来るのは全てを否定しないことだけだ。

理解出来るものなど限られているのだから、それはどうしても限界があることだから、

僕は全てをあるがままに見つめたい。

ローザは笑顔を絶やさないが、その笑顔は輝きだけを映してはいない。

ローザ自身も気づいていないかもしれない、或いは気づいているかも知れない憂鬱が混在している。

彼女の視線は僕を捉えるが、それだけに止まらずその後ろへと続いている。

僕を間に介して視線を密かに交わらせている二人がいる。

二人はお互いの了解を取るでもなく、ごく自然に苦悩を選び、そしてそれに耽溺し淫している。

まるでスリリングなゲームを楽しむ為に絶妙の配置を自ら施したかのような錯覚に陥っている。

そして、おそらく二人とも気づいていない。

その秘密のゲームが実は陽光の元に晒されたかの様に全てがあからさまに暴かれていて、

もはや秘密の部分がまるで残されていないことを。

間に挟まれた僕に何も見えていないと、勝手に思い込んでいるだけのことを。

ローザの心に嘘はない。それは真実だろう。

だが彼女は自分の心の動きが掴めてはいない。

彼女のカインへの気持ちのきっかけは罪悪感だ。

優しければ優しいほど、内省すれば内省するほど、その罪悪感は形を容易く変えていく。

その過程は速やかだが穏やかで、ローザはそのことに気づくチャンスを逸してしまったのだろう。

また、自分の傷口をいたわりたいという保身も働いたに違いない。

反対にカインの気持ちは保身などない、正直なまでに一直線なものだ。元々は、だが。

二人とも勘違いに気づきたくないだけだ。錯覚から覚めたくないだけだ。

いつでも意識の焦点が誰に向いていたか、それを認めたくないだけだ。

ローザは僕を介さないことには、判断基準への安心が出来ず、あらゆる意味で僕に依存している。

カインは僕を意識するあまり、僕というフィルターを通さずには何も見えず、

フィルターを外して見たものを信頼できないまでの自己不信に陥っている。

二人の意識は全て僕を通さないと不安になるくらい、僕たちは深く結びついてしまっている。

ローザもカインも、そのことから目を背け気づかないままでいる。

僕とローザの挙式が正式に決まった。

カインは・・・みずから望んで踏み込んだ迷いから抜け出すだろうか。

ローザは・・・心地よい自己欺まんから抜け出すだろうか。

結果を選ぶのは僕ではない。でも、僕がいなくては結果はでない、選べない。

僕はただ受け入れよう。僕は全ての人を否定しない。

僕は二人を信じた。自分への直面の過程で信じた。

二人を信じた「自分」を信じたのではない。

だから、結果がどうであれ、信じた二人のだした結論なら受け入れられる。信じられる。

僕は二人を信じ、その存在を愛したのだから。

 

「誰でもなく 誰でもいい 誰か」は、愛する立原道造氏の詩の一節です。

THE END

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