簡素なこの部屋のベッドは孤児院での僕のベッドと寝心地がよく似ている。そして防音が完璧な無機質で清潔な部屋。ユグドラシルに乗り込むようになって、まだ日も浅いけれど与えられたこの部屋は何とも落ちつける場所でもある。
明日はシェバトという未開の地を探す手がかりとなる、バベルタワーへと向う事となった。
静まり返った夜。昨日までに起こった出来事、それは僕にとってあまりにも衝撃的な事ばかりであった。この静けさは混乱した僕の頭を整頓するのに好都合だ。僕は瞼を閉じ、昨日までの事を改めて考えた。
一体僕は今まで何を信じ、エトーンという職業に就いていたのだろう? 僕のそれまでの信仰を全て覆された真実……僕は正直言ってまだ混乱していたのだ。どうにかそれを順を追って整理していたのだった。
ところが思わぬ訪問者によって僕の静かな時間を遮られた。
「お〜い、ビリー!」
インターフォンに聞える声、ここの若き艦長だ。艦長とは名だけの、子供がそのまま大人になったような人。僕より二つも年上だと言うのに落ち着きが無い。
また酔った勢いで僕の部屋へ訪れたのだろうと思い、関わりたくはなかったがお世話になっているからには、無視するのも罰が悪い。仕方なく扉を開けるボタンを押した。
「やっぱり起きていたな」
思った通りバルトはほんのり頬を紅色に染めて上機嫌だ。
「こんな夜中に何の用?」
「っだよ、相変わらず冷てぇな。暑くて眠れねぇんじゃねぇか…と思ってさ!」
「だからって、こんな真夜中に。それに明日は出発だというのに、早く寝ないと」
「堅い事言うなって…。ほらっ」
バルトは陽気に後ろ手に持っていたものを僕の前に差し出す。
「爺のバーから目新しいワインも一本拝借してきた事だし…一杯やろうぜ!」
僕は呆れ果てて言葉も出なかった。そんな僕の腕を強引に引っ張ってバルトはギアドックの方へと走り出した。
「どこへ行くんだよ」
「ここで呑むのもつまんねぇだろう? せっかく物資補給にイグニスに来たんだから、いい場所へ連れて行ってやるぜ」
ギアドックの奥でバルトはサンドバギーに乗り込んだ。
「早く乗れよ」
僕は言われるがままに助手席に乗った。
バギーは爆音と共にギア用ハッチから勢い良く外に飛び出した。そのまま暴走するバルト。
「ぶふっ」
砂塵が僕の鼻腔や目に入って来た。
「あっ、悪ぃ、悪ぃ。砂漠は慣れてねぇんだよな。ちょっくら我慢していろよ」
何が我慢だよ。こんな砂埃耐えられないよ。僕は鼻を摘み瞼をきつく閉じた。荒い運転に次第に気分まで悪くなりそうだ。どこへ向っているのか想像もつかず、とにかく一刻も早くバギーを止めて欲しいと思うばかり。
と、その時急にバギーが止まったので、上体が前にのめり込みそうになり、はっと目を開いた。
「着いたぜ!」
「君は本当に何もかも乱暴なんだね。死ぬかと思ったよ!!」
「まぁ、そう言わずに、降りろよ」
バルトはワインのボトルを片手に林の方へと歩き出した。
「ねぇ、ここどこなの?」
「ニサンの近くってとこかな…」
そう言うとバルトは慣れた足で林の奥へと突き進んだ。僕は木々の間から零れる月明かりを頼りに足元を確認しながらバルトを見失わないように彼の後を追う。こんな所で迷子になったら目も当てられない。ユグドラシルにも戻れやしない。まったくバルトは何を考えているのか。
暫く無言で歩き続けていた僕らの視界から鬱蒼とした木々が遠くになり、そこには小さな湖があった。
優しい風が湖に小さな波をつくり、湖面に映した月が少し形を崩しながらきらきらと輝いていた。僕がその光景に見とれていると「綺麗だろ?」とバルト。僕は素直に首を縦に振った。
それからバルトは地面に仰向けに寝転んだ。
「お前もここへ来て寝転べよ。空はもっと綺麗だぜ」
僕は言われるままにバルトの隣に仰向けになる。
ドームのように広がった天蓋の大空に散りばめられた星々の何たる美しい事か!
「綺麗だね」
僕はこれまでに見た事のない美しい夜空に感動はしたが、何と口をついて出てきた僕の言葉は、いつものように抑揚のない響き。
「何だよ、相変わらず…さめてんなぁ」
「…そうじゃなくてさ…僕、こんなの見たの初めてで、その何って言っていいかわかんないんだよ」
僕は珍しくバルトに本心を言った。
「そっか。ここは、俺がガキん時に見つけたんだ」
今でも充分、“ガキ”だけど、と言いそうになった口を閉じる。
「ニサンに訪れるたびに、真夜中にユグドラをこっそり抜けて、ここへ一人で来るんだ。月明かりをたよりに、真っ暗な林の中を走るだけで、スリルだったぜ。走りぬけた先に、俺だけが知っている秘密の場所へと辿り着ける喜びに、ガキん時からドキドキしたぜ」
そう語るバルトの碧い瞳は月光を浴びて輝き出す。
「こうして一人で星を見ているときまって、シグが『お探ししましたよ、若!』なんて、血相変えて俺の事を連れ戻しに来たっけな」
僕は何も言わなかった。正直言って今は彼の話を聞いているのが楽しかった。
「ガキの頃…、死んだ人達は……あの、お星様になるって聞かされなかったっけ?」
「それって、シグルド兄ちゃんや、メイソンさんから聞いたんだ」
僕は思わずクスっと笑った。
「な、何が可笑しいんだよ。ほら、御伽噺ってやつさ…」
バルトは狼狽する。
「まぁ…な…両親を失った時ってのが、あまり分別のつく年頃でもなかったわけだしな。だから、シグや爺が気ぃ使ってくれたのかもな」
彼のそんな話を聞きながら、僕はバルトを何気に羨ましく思っていた。バルトにはずっとシグルド兄ちゃんや、メイソンさんが側にいて彼を護っていてくれている事を。
「ねぇ、バルトはご両親の事を憶えているの?」
僕は何故か聞いてみたくなった。
バルトは一瞬、僕の顔を見て怪訝な表情をしたが、その視線はまた天空に戻った。
「親父とお袋が死んだのは、俺が6歳の時だったし、何よりもショックが大きかったからなぁ、あんまし覚えてねぇといえば、それまでだけどよ。俺とマルーは記憶に時限ロックみたいな催眠術がかけられていてさ、ま、それは碧玉の秘密を守るためなんだが。それが解けた13歳の時にいろんな事思い出したかなぁ……そうだな、親父は、本当に立派なアヴェの王だったんだ。マルー救出作戦の時の情報収集にブレイダブリグの町の人々からも親父の偉大さを知ったんだ」
バルトが語る彼の父、アヴェの王は立派な人だったと僕も思う。
「キスレブとの長年の戦争を集結して、何よりも国民の平和を一番に願う王だったみたいだぜ。俺は親父の遺言を果たさなければいけないけど、あまりにも親父がすごい人だったから気圧されそうだぜ」
「君がアヴェの王子だってのに、今でも僕は疑うけれどさ」
僕の口から出る言葉はどうも一言多い。
「そうだよなぁ…俺は親父の遺言を果たす為に、シグや爺が今まで命をかけて俺を護ってくれたんだもんなぁ…本音言うとさ、俺すっげぇープレッシャーだぜ」
バルトにしては珍しい反応だった。
「僕も君に助けてもらったし、お礼にって言ったら変だけど、シャーカーンを倒して、君の言う遺言を果たせるように出来るだけ協力するよ」
「おっ、お前にしては、珍しいじゃん」
「そ、そんな、助けてもらったお返しだよ」
僕は動揺する。
「いや冗談だよ、ありがとよ」
僕らしくない僕をバルトに見せた事に、何故か恥じてしまう、素直じゃない僕は話題をかえたかった。
「そ、その偉大なアヴェ王は、バルトのお父さんとして、どんな人だったの?」
「プライベートの時は、なるだけ俺やお袋と一緒に過ごしてくれていた、家族思いの親父だったと思う。それに俺の近衛士官として仕えていた、その当時少年だったシグが失踪してしまったのに心を痛めていたようだ。俺ら家族や俺達の側近、シグや爺まで家族のように大事にしていたらしい、とにかくすげぇ親父だったよ……って言うと、何だか俺の家族自慢みてぇじゃねぇか! お前の親父だって、すごい奴じゃねぇかよ」
僕は今、自分の事を語るのは、まだ自信がなかった。バルトのように父親の事をそんなふうに語るなんて、僕には“まだ”出来ない。
「僕は…まだ複雑だよ。ずっと親父の事、疑ってたからね」
親父が失踪して6年、僕にもいろんな事があったから。バルトのように親父の事を語れるだけ、親父に対しての気持ちの整理がついていなかった。
「じゃ、お母さんはどんな人だった?」
「お袋は…俺とは正反対で、とても繊細で、優しくて、物静かな人だったかな」
「ほんと、君とは全く似ていないね」
「だがよ、この金の髪はお袋譲りなんだぜ。親父の銀の髪にも憧れたけど、今じゃお袋似のこの金の髪がお気に入り」
それまでバルトはワインも手伝って饒舌だったが、ここで口を閉じた。僕はもう一度ちらっとバルトを見ると、心成しか彼の瞳が濡れた気がした。
「バルト?」
「お袋は…親父やマルーの両親が無念の死を強いられ、ショックで死んじまったよ。俺がさ、もう少し大きかったら護ってやれたかと思うとさ……悔いるぜ」
僕はバルトの直向な思いに自身を恥じた。バルトが母親を亡くした時は、僅か6歳。僕が母さんを亡くしたときは、12歳になっていた。突如死霊の群れに母が囲まれ、僕とプリムは隠れていた柱時計から一歩も出ることができなかった。そのお蔭で僕とプリムは一命をとりとめたけど、きっとバルトが僕と同じ立場だったら、母を助けに一人で出ていっただろうな、と思った。
「僕は…母さんを助けられなかったよ。プリムのこともあったけど、母さんを殺された時は、君が両親を亡くした年よりも倍の年、12歳だったのにさ」
「まぁ、人にはそれぞれ事情ってもんが、あんだろう? お前にはプリムがいて、妹を守ったじゃねぇかよ」
バルトなりに気を使ってくれたのは解る。けれども僕は、彼の話を聞いて正直言ってバルトには敵わないと思った。噂に聞くと、たった6歳だったのに、マルーさんを守る為に、シャーカーンの拷問を一人で受けたと。
「そう言えば、お前のお袋…ラケルさんだっけ? は…うちのシグも相当お世話になったようだったよな」
バルトは僕が落ち込まないように、さり気なく話題を変えてくれていた。
「母さんはドライブにひどく嫌悪を抱いていたらしく、脱ドライブ治療の研究をしていたんだ」
「シグが、ラケルさんには、本当にお世話になったって言っていたぜ。シグもラケルさんの事を聞いて、身内を思うように残念がってたぜ。だけどよ、お前にはまだ、親父がいるじゃねぇか。口が悪くて粗雑で、飲めねぇ酒をシグに無理矢理飲ましたりする、乱暴な奴だけどよ、かっこいいぜ、お前の親父!」
「ありがとう、バルト」
僕は本心から、そう言えた。なんで素直に“ありがとう”って言えねーよ、お前は…って以前バルトに言われたっけ。でも本当に現在(いま)は素直にその言葉が出てきた。
「おい、泳ごうぜ!」
バルトはカラになったワインの瓶から手を離すと、突然そう言った。
「!?」
「あそこでだよ」
目の前の湖を顎で示すバルト。躊躇する僕を置いて、バルトは手際良く服を脱いでいた。中のシャツを脱ごうとしたバルトの手が止まり、ふいに途惑う僕を見る。
「何やってんだよ、早く脱いじまえよ」
「えッ?」
「だぁー。女じゃあるまいし、男同士で何恥かしがってんだよ。先に行ってるぜ!」
バルトはそう言うと僕には目を疑う姿、半裸になったかと思うと目前の湖へと豪快に飛び込んだ。
パシャッと冷たい水飛沫が僕の頬にかかる。驚いた表情の僕にバルトは最初不思議そうにみていたが、やがて「お前、もしかして泳いだ事ねぇのかぁ?」とバカにしたように言った。
「…っ」
言葉に詰った僕を愉しそうにバルトはいきなり僕の足首を掴んだ。
「あッ!!」
あっという間に僕は湖にのまれる。
「あはぁー……どうりで生白い顔してると思ったぜ、お前泳いだことねぇんだなぁ?」
僕をからかうように言うバルト。
「な、何て事するんだよ! 服が濡れて、これじゃ、ユグドラシルにも戻れないじゃないか!!」
「だったら、脱いじまえよ! このまんまだと溺れるぜ!」
バルトは強引に僕の服に手をかけた。僕は抵抗する間もなく、聖職者の服は簡単に僕の体から剥がれた。人前で素肌を見せたのに羞恥を感じたが同時に開放感が心を満たしたのにも嘘をつけなかった。エトーンとしてずっと身につけていた、洋服。それを脱ぎ捨てて、僕は新に生まれ変わったような気さえしていた。
「大丈夫だって、水に身をまかせれば、ぷかぷかと浮かぶんだぜ。不安だったら、俺の腕を掴んでろよ」
バルトはそう言いながら水に身体を預けた。僕も恐る恐るバルトの姿勢を見習う。湖面は僕の身体を優しく受け入れてくれた。
やがてバルトはパシャパシャと音をたてて泳ぎ出した。月明かりに照らされ浮かんだバルトの泳ぐ姿は自由を感じた。雄々しく手足を動かすバルトが美しくも見えた。水と自由に戯れるバルトが決して、幼少の頃に受けた傷跡、背中を見せる事はなかったけれども。
僕はバルトの言った通り、水に身をまかせて浮いていた。
楽しそうに泳ぐバルトをまだ10歳になるかならないかの少年だった頃の彼と重なった。僕はそんなバルトを眺めていて、不思議と平安な気持ちになる。そんな中、今にもシグルド兄ちゃんが血相を変えて迎えに来るんじゃないかと、僕までヒヤヒヤとしながら……。
口が悪くて、粗雑で、酔っ払いで、でも本心は身内や他人に思いやりがあって優しい心の持ち主。バルトと親父が少し重なって見えたような気がした。僕は真実(ほんとう)は、こんな親父やバルトが羨ましんだ。だから二人の前だと余計に素直になれない。でもそんな二人がきっと好きなのに。
「若!!」
果たしてシグルド兄ちゃんの声が林の向こうから聞えてきた。
バルトはシグルド兄ちゃんの声にも気付かず、水と戯れていた。
羨ましかったけど、シグルド兄ちゃんを始めとしてみんなに愛されて、バルトってやっぱりいい奴なんだな。
「あ、シグルド兄ちゃん」
「やべッ! 逃げようぜ!」
「うん!」
「若〜!!」
僕は大声で笑った。子供のように無邪気に笑ったのは何年振りだろう?
とても気持ちが良かった。
僕はバルトと友達になれて良かった。そんな気持ちにさせてくれた、ここへ連れて来てくれたバルトに感謝かな。
バルトと僕、そしてシグルド兄ちゃんしか知らない秘密の場所。
ここは僕達の小さな楽園、いつまでも子供の頃の気持ちを忘れたくないと改めて教えてくれたのだった。