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 番号 日付  題名 投稿者 返信数  読出数
38 8/14(水)
21:59:08
 訃報:イノス・スローター  メール転送 古老  595 

 
久々の書き込みです。
しばらくは訃報をメインに書き込んでいきます(趣味悪いかな。でも今回のスローターのような選手は、ここで話題にしておくのが一番だと思ったので)

殿堂入り外野手、イノス・スローター氏が死去されました。
スローターは、カージナルスで1938年にデビュー。
スタン・ザ・マンと3・4番を組んで、猛打を炸裂。
1939年には最多二塁打、1942年には最多安打・最多三塁打、1946年には打点王、1949年には最多三塁打と打ちまくりました。
この猛打で、ミュージアルが敬遠されるケースを少なくした功績は大です。

1946年のボストンとのWシリーズでは、死球による負傷でドクターストップがかかっていたにもかかわらず、その後も平然と出場し、第7戦の8回裏には、三塁コーチの制止を振り切って本塁へ突進し、名遊撃手ペスキーの判断ミスを誘い、見事に決勝のホームを踏みました。ボストンは、久々の世界一のチャンスを、スローターの好走塁で逃したわけです。思えば、「バンビーノの呪い」は、このときから始まったのでしょうか。

1956年には、スローターはヤンキースに移っていて、ベラ、マントルと並んでクリーンアップを打っていました。
この年のWシリーズで、ドン・ラーセンがパーフェクトゲームを達成するのですが、その時も5番レフトで先発していました。

Wシリーズには5回出場、オールスターには10回出場というスター選手です。
通算安打2383本も、1943年からの3年間のブランク(恐らく兵役)がなければ、もっと増えていたでしょう。

それにもかかわらず、彼の野球殿堂入りはかなり遅いものでした。資格は早くから得ていたのに、実際に殿堂入りしたのは1985年のことです。これは、彼がジャッキー・ロビンソンのメジャー入りに強硬に反対したためだと言われています。ただ、当時の情勢としてはスローターのこの態度はやむを得ないのではないかと思うのですが、結構殿堂入りの条件は厳しいですね(ピート・ローズの件も含めて。どうも、あの選手が殿堂入りするなら、自分は殿堂から出て行く、というような言動をする人が居るようで、なかなか難しいようです)


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