宗 旨
當山の宗派は「浄土宗」で、総本山は京都・知恩院(ちおんいん)です。
お経は、お釈迦様がお説きになった「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」などの三部経を読みます。また、宗祖は「法然上人」様で、承安五年(1175年)に御開宗されました。教えは、阿弥陀仏のお誓い(十八願)を信じ「南無阿弥陀仏」とお称えする事を第一としています。
由緒・沿革(第27世霊心和尚調べ)
開山上人と寺名の由来>>>愛知郡中村の庄に、岌蓮上人と呼ぶ僧がいた。庵を建てて念仏をしていた。當寺開山上人の渓蓮社湛誉上人岌井故順大和尚(姓は不明)同郷中村の産まれで、幼少の折り岌蓮上人を師僧として剃髪し、後、関東の都において永年修学(増上寺・掛錫の学匠)し、学なり功績りて故郷中村に帰り来たり、師僧岌蓮上人の庵の跡に一寺を建創した。山号を「終南山」院号を「悟真院」寺号を「光明寺」と名付けた。時に応永二十五年(1418年)、宗祖法然上人御入寂後206年にして當山が建立されたのである。当時、宗門はいくつかの派に分かれており、当山は浄土宗藤田派であったと思われる。(開山上人の名に{岌}という字が使われている事を根拠とする。)今現在、浄土宗は鎮西派に統一され、その流れを受け継いでいる。開山上人岌井和尚はこの寺を建立されてから十年間在住し、応永三十五年(1428年)四月八日入寂された。行年五十七歳、南北朝時代より室町時代にかけての御生涯であった。
太閤記には>>「秀吉公(1536年〜1598年)幼稚の時、光明寺にて手習いせられよし・・」とあり、佳境遊覧には當山の事であると記されている。また、後鑑という書物には「応永三十二年(1425年)十二月、前将軍足利義持公、尾張光明寺を祈願寺と為す」とも記載されている。しかし乍、現在、寺歴の焼失によりその真実を知る由がない。
度重なる移転>> 當山が最初に建立された場所は、おそらく現在の中村中町と押木田町との間にある八幡神社の池(押木田公園)付近であると伝え聞いている。後、中村の地より春日井郡平田村に移転、また清洲に移転を繰り返した。それから城下町が清洲より名古屋に移ると(清洲越し)當山も名古屋に土地を拝領し移転した。(現在の中区・白川公園内北西のあたり)時に慶長・文禄の頃(1590年代)であった。開山上人没後、當山第二世貞誉徳念上人に至る180年間の當山の世代(歴代上人の法名)及び寺歴等の詳細は伝承されていない。
徳川時代の伽藍の様子>>名古屋に移転した當山の場所は、当時その町名を「石切町」また「南寺町」と呼び(後、白川町・當山北側を通称光明寺町とも言った)、その境内地は858坪・頭塔寺院の境内を含め1.529坪を拝領していた。徳川時代には上人地となり別格寺院(12等級)となる。また、当時の諸堂宇に、本堂(10間半四面127.8坪)・庫裡(184.52坪)あり、共に応永年間の古材を用い手斧削りにて建立されていた。他に鐘楼・山門・土蔵・鎮守・二十五菩薩堂・物置等があった。頭塔寺院は「吟崇院(十王堂)」「願故院」が境内地にあり輪蔵や秋葉堂等の建物があった。當山の周りは寺院が建ち並び(尾張名所図繪の{南寺町其の一}に見える)寺町の北に位置していた。歴代上人は當山に住持した後、高岳院・相応寺・建中寺等の御寺に転董した。(近年に於いては第二十六世浄誉鏡心上人が浄土宗大本山清浄華院の御法主として転董され大僧正になられた。)また當山は、町寺の有力寺院であった名古屋門中の一ヶ寺でもある。
太平洋戦争にて・・>>當山二十七世瑞誉霊心上人の世代において、昭和十六年、太平洋戦争の激化に伴い當山のあった白川町は防空公園設置に指定され、立ち退き移転の命令を受けた。白川町に堂宇を構え350年余り経ち再び移転する事となった。昭和十九年五月、移転先を現在の地に決定し、早速堂宇解体準備に取りかかった折り名古屋大空襲(昭和二十年三月十九日午後一時頃)の戦災を蒙り、諸堂宇計十五棟を全焼した。また同時に木像両大師像・二祖上人木像・開山上人木像・出山釈迦如来像・地蔵菩薩像・二十五菩薩像・十王尊木像・大黒天等々の尊像97體並びに竹洞筆「花鳥図襖絵」宮常筆「松孔雀図襖」等などの寺宝・寺歴の全てを烏有に帰した。
現在は>>戦災の後、約50年あまり仮の本堂にて法灯を守ってきたが、諸堂宇老朽化に伴い平成9年光明寺再建の事業を発願し、バブル崩壊で資金面の苦労はあったが、現在のバリアフリーの寺院建物が完成し、今に至る。
寺宝・仏画等
◎「本尊阿弥陀如来座像」木像・延宝八年、恵心僧都作と伝える(書き付けより)
◎「法然上人繪傳」紙本濃彩 上下二巻(増上寺本の模本)文化六年模写 愛知県指定文化財
◎「當麻曼陀羅」絹本濃彩金泥貞享四年 縦236.0 横208.0 江戸中期の作品
◎「釈迦誕生図」紙本濃彩金泥 正徳元年(1711) 縦180.8 横228.6
◎「仏涅槃図」 絹本 〃 文政十二年修復(1829)縦233.0 横177.9
◎「羅漢図」 紙本墨画 江戸末期 鬼頭道恭 作
◎「十王図」 紙本濃彩 元禄九年寄進 十四幅 江戸時代
◎「釈迦三尊図」紙本淡彩 江戸末期
◎「阿弥陀如来図」 〃 〃
◎「出山釈迦如来図」絹本墨画 江戸時代
以上 名古屋市教育委員会調べ
定例行事
名古屋門中寺院による浄土宗の主な法要、また千歳講春・秋の法要・松坂屋物故者追悼法要・サンメン商事(株)物故者追悼法要・お盆施餓鬼会・等の行事などがあり、毎月、定期的に御詠歌も詠唱教師の先生を招き習っている。
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