吸血鬼
サスカ・ヴィコス
Sascha Vykos
暗闇の中、牢の鉄格子から手を差し伸ばすと、彼の冷たい肌に触れる。冷たく、瞬きせずに凝視する目には耐えられないが、視線をそらすと、彼の身体中にある口から木霊のように冷静な声が響き出す。彼はここ数日地下の研究室まで降りてきてわたしの肉を文字通りこねていく。
「アンヤ、明かりを持ってきなさい。ここは細かい作業をするには暗すぎる。ああ、君は気にすることはない。客なのだからな。それに仕上げが終わらないうちに動き回られるとこちらが困る。今の君の外見は少々、外の者に感じがよいものとは言えないしね、それに君には狩りをする必要がないほど、十分血が与えられているはずだ。違うかね?」
「持って参りました。ご主人様。ところでお客人に例の話をしなくてよろしいのですか?」
不意に非人間的な蒼い光が向こうからやってくる。青褪めているが、ミケランジェロの彫刻のように彫り上げられた死体たちのシルエットが明かりに照らされて世にも美しく、また戦慄すべき影が伸びて恐ろしい警告を生み出しているはずだ。ヴィコス、サバトの拷問長官はグールのほうを振り向くと、
「今日の作業が終わってからだな。主人に指図をするのはよくないぞ。」
びくっと震えたアンヤは黙って頭を下げると、燭台を置いて出ていった。
いつも通りヴィコスの作業が終わると、わたしはいつも通り奇妙な形をした寝台に横たえられた。アンヤが薬で夢うつつになっている私のそばまでやってきて、いつものように囁き始めた。彼女の美しい顔は惜しいことに嫉妬に歪んでいる。
「ご主人様の経歴について憶えてもらいます。始めのうちは大まかなところで結構。でも後でもっと細かい部分を暗記してもらいますよ。気をつけなさい。このような特権を与えられた者はいまだかつてなかったのですから。」
「我が主人はこれまでの不死の生の間に、何度も自分の経歴、気質、信念、人格などを別のものに取り換えて、前あったものを抹消してきました。これが彼に他の暗黒時代に生まれた血族と違って幾度もの危機と敵の悪意を乗り越えることを可能にさせた方法です…彼は文字通り…変わってしまいます。トレメール魔術師としての「人間性」からコンスタンティノープルの「夢の輪」の一員としての「天国の道」、そしてカルパチア・ヴォイヴォードとしての「変容の道」、サバトの古老としての「死と魂の道」…彼はサルブリの隠者や、トレメールの異端者から教えを盗み、自分のものとしました。
「ヘルメス魔術師団の一派、トレメール派が血族となる道を選ぶ以前のこと、ミカ・ヴィコスは若年ですが有能な魔術師として知られ、その実力はトレメールの高弟であったゴラトリックスの嫉視を受けるほどでした。コンスタンティノープル・ツィミィーシの一隊がトレメール派の祭儀所を不意打ちできたのはゴラトリックスがヴィコスの実力を恐れて、情報を漏らしたからだという説がもっぱらです。シメオンは捕らえた魔術師の多くを殺しましたが、一人の適性を認められた奴隷は彼自身に抱擁されてコンスタンティノープルに連れていかれました。」
「11世紀当時のコンスタンティノープルの血族社会とその構成員の精神構造を理解することは現代の血族社会の正式な一員であっても困難です。それはカルタゴと同じく、寿命を知らない者の壮大な実験でした。ヘレニズムの長い伝統とキリスト教、畸形と言っても良いローマの都には、公子はおらず、三人のメトセラ…夢想家のミカエル、計画立案者のアントニウス、神秘主義者のドラコンが自らを「父と子と聖霊」とみなして共治していました。ミカエル・ベシュタールはキリストの名のもとにビザンティンの芸術と魂を支配すると豪語し、両翼に二人の愛人を抱え、聖ソフィア寺院から帝国全土の血族の「教父Patriarch」として君臨していました。
「オベルトゥス・ツィミィーシ達はカルパチアの同族とは異なる「啓発の道」を信奉していました。ご主人様とサバトの思想の潮流はここから由来しているのかもしれません。彼らは自分たちの《造躯》の力を
キリストの神性の顕示だと見なしていました。その主導者であるゲースGesuはツィミィーシ・アンテデルビアンそのひとが抱擁のさいに警告を発し、父に逆らうドラコンは、忠告を聞かずにゲースを抱擁しました。ゲースはたちまち極めて不従順かつ独特な(奇矯なと言ってもよい)血族としての人格を明らかにし、あくまでも兄弟に対して忠実なシメオンを抱擁してしまい、ミカエルの「地上の天国」の崩壊が始まりました。
「ゲースとシメオンSimeonは定命の兄弟で、三頭政治Triumvirateの間の亀裂がもはや単なる競争では収まらなくなってきた時代に抱擁されました。当時、トレアドールのミカエルを巡るヴェントルーのアントニウスとツィミィーシのドラコンの争いは賎民の社会に「聖像破壊運動Iconoclasm」として現れていました。ツィミィーシ達が自分達の肖像を聖像として賎民達に崇めさせていたからです。ミカエルの両者を調停しようとする努力は、この二者の絆として抱擁されるはずであった兄弟、ゲースとシメオンが勝手な行動を取り、ゲース自身が弟を抱擁してしまったことから、アントニウスの面目は丸つぶれになりました。アントニウスは聖像破壊を煽動し、破壊活動のあまりの増大についには残り二人の統治者、ミカエルとドラコン自身がアントニウスの破壊に同意しました。
「伝説によると、ミカエルの愛をめぐってアントニウスとドラコンが諍い、ついにはドラコンが勝利を収めましたが、自分がミカエルと同じくらい仇敵のアントニウスを愛していたと気付いたドラコンは悔恨と苦悶のあまり狂乱してコンスタンティノープルを捨て、荒野へと走ったということです。ともあれ奇人ゲースがオベルトゥスの長になり、シメオンは兄の忠実な僕として長年働きました。ミカ様が抱擁されたのもこの時期に当たります。
「ツィミィーシ達はコンスタンティノープルにカリフ・ウマルがアレクサンドリア図書館を焼き討ちする前の数々の写本を保管していました。ミカ・ヴィコスは多くの知識を先達から学び、「夢の輪Dream
Circle」では多くの超自然の技芸を学びました。「教父」自身がご主人様の教育を援助していたという説もあります。後の血と骨で建てられるサバトの構想が、コンスタンティノープルの鋼と煉瓦の王国の残骸から生み出されたと言うのも過言ではありません。」
「まもなくゲースはリリアンという名の一人の美しい人間女性を巡って弟と仲違いし(ゲースはこの女性を文字通り自分の身体の中に吸収してしまいました)、ただ一人残ったメトセラ、ミカエルは狂気に陥って自分が自称の通り天使であると考えるようになってしまいました。ミカエルに仕えるマルカヴィアンの道化や、セトの民(その中には今日のシドニーの公子であるサラセイン自身が混ざっていたといわれます。)は破滅を策謀して彼の狂気をますます助長し、コンスタンティノープルの社会は崩壊に向かいました。ミカ・ヴィコスとその父であるシメオンは第四回十字軍やトルコ軍の脅威から逃れるためカルパチアの野蛮な地へ戻りました。」
「しかしコンスタンティノープルは理想と教訓をともに残していくことになりました。これほど長い年月を洗練された賎民のもとで過ごし、また信仰と生の調和をいったんは見出して、カルパチアの旧態依然とした長老支配の情勢に満足できる血族はいませんでした。クパーラの夜で首謀者となったルゴジとヴェルヤもまた、ミカ・ヴィコスを叛徒の軍事顧問として受け入れ、最終的にはアンテデルヴィアンの同族喰らいの成功でおわりました。もはや、ミカにとって父シメオンはつまらない感情に左右される愚者に過ぎないこと、存在価値をもはや挙げられないことが判明していましたので、彼が父であるシメオンを呪縛し、血を吸っては戻し、この緩慢な「同族喰らい」を繰り返して彼の力を完膚なきまで吸収するのになんら困難や葛藤はありませんでした。
「叛徒たちはソーンズ協定の調印のためにイングランドに呼び集められましたが、カマリリャの要求にもっとも抵抗したのがミカ・ヴィコスでした。(ソーンズの村の焼き討ちを主導したのは彼です。)彼は自分を裏切って死ぬにまかせたトレメール一族を決して許そうとせず、そのために《魔術》を習い憶え、新大陸に渡ったツィミィーシの代表格と目されるようになったのです。ミカMycaがサスカSaschaと自分を呼ぶようになったのは、ソーンズの村の襲撃後、緩慢に自らの肉体に全く非人間的な改造を施し始めてからだといわれています。「完全な」人間性からの脱却です。完全な殺戮兵器となる力と非人間的な美を作りだし、自分の肉体の上にそれを体現させることに成功したのです。
「ジハドはその後も延々と続き、サスカはゲヘナの始まりにおいてついに独立した浪人、古老としての立場を止め、ワシントン市の大司教として就任しています。彼の目的は不明ですし、彼はいつもの通り決して自分を説明しようとはしません。彼はノド学の碩学であり、常に知識とゲヘナについての預言、世界の知識を世界中から(たとえベケットやトレメール氏族のような敵からでも)収集してきました。彼は常に冷静さを失わず、血族の秘密である死と生の狭間の領域に精通しています。これがわたしが貴方に話すべき全てのことで、おそらく彼がわたしに求めていることの一部は果たしたといえるでしょう。」
「まるでカメレオンのように姿を変えるのだな。」
サスカ・ヴィコス
カインの天使、ノド学の権威、サバトの拷問長官
第六世代ツィミィーシ(親殺し、同族喰らい) 怪物/先覚者
外見7、歴史6、言語6、ヨーロッパ知識6、サバト知識6、造躯7
彼には性別がなく、ミケランジェロ彫像のような顔を持ち、非人間的、異界の美を湛えている。ほっそりして背が高く、動作は優美で、目はまったく瞬きをしない。身体中に網目状の刺青やピアスが装飾として施されており、いくつかの傷はまるで人の口のように開いている。事実彼のたぐい稀な造躯の力でこれらの傷は話をするし、本当の口から出る言葉と重なって木霊をつくり、ステレオのような役割を果たしている。
再び目を覚まし、鏡を見るとカインの天使、コンスタンティノープルの生き残り、サスカ・ヴィコスと寸分違わない姿が写っていた。まだ身体から薬が抜けていない。不意にざわめきが地下道の方から増え始め、カマリリャのアルコンの印をつけた血族が彼の姿を見つけ、同朋を呼んだ。
「いたぞ、ヴィコスだ!」
カマリリャの兵士達の襲い来る中を死に物狂いで駆け回り、地下の研究室を出口を求めて蠢く。突然辺りに焦げ臭い匂いが漂い始め、驚く間もなく赤い舌が踊り始めた。
「罠だ!」
出口の光の漏れる扉に近づくと、格子の向こう側に再び燃え上がる炎に照らされて、アンヤの歯を剥き出した醜い笑いが見えた。
「まさかあれほど多くのご主人様の秘密を明かされて、生き延びることができるなどと思っていたわけではないでしょうね?とんでもない。貴方に明かされた秘密の十分の一だけでも貴方の命を奪うには十分なくらいです。秘密を手に握って死ぬことに満足しなさい。ご主人は感謝されていますよ…貴方の協力に。」
彼女はもはや溶鉱炉となった広間の、鋼の扉を閉めた。炎が再び爆発し、おのれをなくし、もはや完全にサスカ・ヴィコスの写し身となった名も知れぬ吸血鬼は、炎で歪んでいくクロームの表面に写る己の姿をぼんやりと眺めていた。