主観論者と客観論者の論争の弱き光
Lowlights from the Sobjectivist (Subjectivist+Objectivist) Debate

Nick Brooke主著および編集




以下はGlorantha Digestのいくつかの投稿を編集した記事を、編集者の許可のもとに日本語訳したものです。翻訳による不都合および間違いの責任は訳者にあります。原文はこちら。


 全員が最善の努力をつくしても、「客観論と主観論」の議論はときにうんざりするような古めかしい状況まで高まってしまう。この文書はグローランサ・ダイジェストにおけるわたしの過去の投稿のいくつかを集めたものであり、「怒りよりも嘆き」をもって書かれたものである。だから、グローランサのメーリングリストに新しく来た人々は、少なくとも自分が、われわれのグローランサの資料の多くがこれほどまでに矛盾しあうものであることをいぶかる最初の者ではないということを知っておくことができる・・・・。そして、おそらく、私自身をふたたびこのたぐいの話にかかわって自分を鞭打つ苦労から救うことにもつながるだろう。


 わたしは少々これらの投稿について編集をおこなったが、その仕事の大部分はわたしの反論からめぼしい議論好きの客観論者たちの名前を取り除いたことである。わたしはだれかが自分の書いた過去の愚かなことに記されている自分の名前が削られていることで動転するのを望まないし、望まれれば喜んでそれらを元に戻すつもりがある。



Nick Brookeより
1997年9月22日月曜日



 では、貴方は「主観論者についての論争」について知りたいとお望みなのですね。グローランサ・ダイジェストの1997年、6月と7月の記録をご覧になれば、そのときの雰囲気をかいま見ることができるでしょう。

 本質的に、この現象はたえずダイジェストの議論にあらわれる年月をへてきたもので、それが現れるたびにふみつぶされてきたものである。根本的に、二つの陣営が存在する。

 ひとつのグループは(観察の上でのグローランサの現象を拒絶して)グローランサの神々は世界じゅうで同じであり、明らかな形で交渉をもつことができるし、信者に正確に理解することが可能な存在であると信じている。そして神々は神託やその他の手段を通して自分たちの信者たちを指導するための、独自の合理的な協議事項をもっているのである。このように考える人々は「客観論者」と呼ばれる。

 もう一つのグループは(観察の上でのグローランサの現象を受け入れて)グローランサの神々やその他の諸力は文化的かつ現世における要因に影響されていて、敵対しあう集団が(たとえ異なる名前を持ち、異なる属性や神格をもっているにしても)同じ神を信仰していることを信じている。そして彼らの神々はそのことによって起こる混乱を直そうとは試みない。定命の者の完全な理解の及ばないところを行き、それを超越しているからである。このように考える人々を「主観論者」という。


 主観論者の意見を偽ることで彼らを誹謗することができるが、それは以下のようなことである。「全てのグローランサの文化は意図的に自分の信仰したいと思う神々を作り出したのであり、いかなる人に創造されたどのようなものでも異界では真に迫った、強力な力になる。どんな神話も「真実」ではないが、それは結局のところ全てがでっちあげられたものだからである。」これは攻撃するのに適したわら人形であり、「真の」主観論者の立場に対する客観論者の意見を欠いた条件で出される意見である。

 客観論者がとまどうのは、グローランサの主要な地域を支配している宗教の中にすら、内部の戦争と内部の異端が存在することを彼らの物語がどのように説明しているか聞かれた時である。(たとえば、イェルム信仰のダラ・ハッパとイェルム信仰のペント遊牧民。相互に破門し合うマルキオン教の異端学派や、果てはドワーフの異端まで)Cults of Terror(訳注:RQ第二版のサプリメント?)の(四つのそれぞれが明瞭な世界を認識する方法が記載されている)宇宙論をどうやって「唯一なる真実の神話」へと整合させることができるのか聞かれた時や、どの神話が「真実」なのか(したがって、どのグローランサの文化が本質的に間違っていて、人を誤らせる信念であるか)聞かれた時にも狼狽するのである。


 他にも多くが記録には残されている。五月の終わりごろはちょっと覗いてみるのに良い時期である。しかしこの議論が合意に達することはなかったし、大部分の参加者はすでに自分の考えを固めてしまっているし、意見について少しでも譲歩したり(反対意見に耳を傾けたり)しないことで問題を片付けてしまっている。貴方のキャンペーンに合うことをするべきです。そしてゲームにはなんら影響を与えないかかわりあいで、哲学上の嗜好から、グローランサを汚したり壊したりしようと試みないことです。これが私の助言ですね。


Alex Fergusonより:

 愉快でさっぱりとした「主観論」と「客観論」(二項対立している)あいだでの選択に関する彼らの熱意において、投稿者のなかにはこの論題の議論の状況の多くを無視しているように見える。わたしにはこの議論で現れた立場の様子が等級をつけたスペクトルのような姿をあらわしているように思える。いまわたしは私心のない奉仕活動として、それらに区分を与え、例を列挙したいと思う。


免責条項:術語は適当にでっちあげられたものであり、区分はゆるいものであり、類型化ははおおざっぱな筆で描かれたものである…そのため、もし貴方が不幸なレッテルを自分に貼り付けられたと考えるにしても、あるいは憎むべき敵と同じキャンプにいることを見出したり、自分のはいる場所がどこもなかったり、はたまた貴方の個人的な立場がひどい形で誤って代弁されたりしているにしても、どうかわたしが気楽に構えることを許して欲しい。

1.明白なる客観主義。ひとつの客観的で首尾一貫した神話的実体が存在する。そして(グローランサでは)全ての者がべらぼうにこのことを良く知っているし、それを使いたいという積極性さえあれば、接触をおこなうことができる。

2.隠された変容する客観主義。唯一の真の神話的実在があるし、私は次に挙げるすっきりした理論でこれを説明できる。しかしそれは。(「盟約Compromise」や、電話線のせい、あるいは他の理由から)グローランサで「証明する」ことの出来るものではない。この範疇にはそういう理論を持っていないが、そういうものを望んでいる人をも含むのかもしれない。しかしもう一つのカテゴリーについても見ること:

3.漠然とした客観主義。首尾一貫した、客観的実在がある。しかし私にそれがなんなのか聞かないでくれ。

4.不可知論的主観主義。誰が知っている?さらに、誰が気にするんだ?リアリティーはグローランサの民がどうなのか経験するものであって、一貫性など吹き飛ばされてしまう。

5.唯我論的主観主義。実在はそれを観察する者の精神から形作られるものである。(もしくは観察者のカルト、もしくは文化:規模は好みによる。)


Nick Brookeより
1997年6月14日土曜日



Alex Fergusonは素敵な指標を投稿してくれた。(箱の中を参照のこと)その中の分類では、私は2.5から4の間をふらついていることになる。

おそらく「ただ一つの真実たる神話的な実在」があるのだろうけれど、私はそれをきちんと説明する理論を持っていない。それがなにか私に聞かないように!いかなるグローランサの個人も文化もそれがどんなものであるかの証明を発見したことはないのだろうが、それらの文化の多くは自前の「証明されてはいない」神話的リアリティのもとに完全なまでにうまく(言葉を返して言えば、少なくともひとつの波動や微小なレベルでは)機能するし、外部にある未知のものや矛盾を無視するだけの余裕がある。神知者はもしかすると神話的な実在への「証明」へともっとも近づいたのかも知れないけれど、明白に間違ってもいるのである。(こういう考え方は私の影響を受けやすい頭脳に現れたサンディズム(訳注:Sandy Petersen的考え方)なのかも知れない。)しかし全てのグローランサ人にとって、実在(と神話)は彼らが体験したものそのものであって、そしてわれわれは異なるグローランサ人が同じ出来事に対するものの見方において(つまり、(Cult of Terrorの)四つのものの見方と「真実」の多面性により)一貫していないが、同時に正しくもあるということを知っている。

 私は二つの極端な意見(つまり、1と5のこと)は評価すべき価値はないと思う。しかし非常に強力な英雄探索者*はもしかすると同時に、双方に対する傾向があるのかもしれないが。(つまり、彼は首尾一貫した、全てを包み込み得る異界を体験し、観察者/冒涜者/唯我論者としての彼の存在そのものがそのようにさせているということを自覚していない状態である。)

 いつもの通り、私は「客観的」をグローランサの外部にあって、「グローランサの外部にあって、決して証明されることはなく証明されるわけがない」という意味で使っているし。「主観的」を「グローランサの内部にあって体験され、またフィクションとゲームに使うのに便利である」という意味で用いている。

*「非常に強力な英雄探索者」は十分なくらい発展した科学技術のように働くことになる。私が思うに:貴方はなにからも、神話/物理法則の掟からも逃れることができるということになる!




Nick Brookeより
1997年7月13日金曜日


「主観性/客観性」の話は(私にとっては)グローランサの住民が、我々のやっている議論を理解できるかどうかにかかっているような気がする。「客観的(な意見)」はゲームマスターにとっての(舞台にたいする)機械的なものの見方をつくる傾向にあるのに対して、「主観的(な意見)」はグローランサ人の信者や司祭がおそらく把握しているものごとについての議論の類に結びつくようだ。グローランサには神々が明確に存在しているわけではないことや、客観的に万人から理解されるわけではないということには、十分なだけの証拠(たとえばイェルムのダラ・ハッパ対イェルムの遊牧民、もしくはロカマヤドン対ハルマスト、もしくはマルキオン教の宗派や、ドワーフの異端思想や、全体的な―一神教と多神教と呪術、そして悟法にかかわることなどなど)があるので、客観性についての議論の有効性には疑問符が付される。数多くつくられた神話と歴史を放り出すことなしには、プレイヤーキャラクターに貴方が神々に認めた「自由意志」を否定することになることなど、客観論者がそうであって欲しいと願うかたちではこの世界が働かないのは明白なことである。

 誰が正しいのか?どの神話も正しくないと言うことは全てのグローランサの神話が嘘であるということを意味してしまう。

  そうだからといって、グローランサの神話にいくばくかの真実、洞察あるいは価値が込められているとしても、ある(お好みの)文化の神話が全て「正しく」なければならないとか、その他の文化の神話も同様の程度までの正確さを備えている事などを示してことなどを受け入れることを意味するわけではない。(もしくは議論を極端までつきつめれば、全ての他の文化の神話は「間違っている」ということにもなる。)
 
(また、最古の「天界の宮廷Celestial Court」についてのあるグローランサ神話においても、この世界における「真実」の多面性について述べられている。註.この流れについて知りたいのならWyrms Footprintの記事を見ること。)

 このことは事実上、オーランス人主体の議論である。わたしはあくまでもゲームの中でオーランス人が言うはずのことを、キャラクター自身に関わることとしてそうすることになんら問題を見出せない。しかしグローランサの中でゲームマスターを行ったり、書いたりする時の試金石としてこのような、明らかにオーランス人の価値観に他ならない態度を示すのは愚かな(またこのメーリングリストでは、挑発的な)行為である。

 グローランサで本質的に首尾一貫したゲームおよび世界を記述するために、ある種の事実や真実が決定されなければならないだろう。たとえそれらの「真実」のひとつが神々が単純なエネルギーの源で、自由意志を持たず、いかなる神話も本当のところ正しくないというものだとしてもである。

 奇怪なことには、四つの正しいけれど相互に矛盾するグローランサに対する見方があることを我々は知っているし(長いこと知っていた事実として考えていることがある。)Cult of Terrorではこれらをそれぞれ「人間主体(ヒューマニスト)」(一神教徒/無神論者)、(多)神教徒、悟法家、そして「自然主義者(ナチュラリスト)」(祈祷師/精霊崇拝)の視点である。このことはこの世界に内在する整合性を与えてくれるし、四つの「ものの見方」の中核になる信念が互いに矛盾しながら正しく、相互に反証し得ないものであることを示すことになる、(神々や、宇宙の諸力や「古代の秘密の守護者たち」も含まれる)グローランサの観察者がそのようなものの証拠や反証を挙げる試みに希望を持つ限りにおいてはの話だが。

 今や、客観的な神話の賛同者が、一神教徒、神教徒、呪術および悟法(神秘主義)の認識力すべてを(それらのどれにも暴力を振るうことなしに)包み込み、ある文化優遇の扱いを行う悪(全てのパマールテラ人、マルキオン教徒、東方人、ペローリア人、ターシュ人、非クイヴィン人は絶望的なまでに勘違いしている!)を拒絶しながら、ひとつの世界の構造を明らかにすることができるのなら、彼は我々その他の誰よりもよい仕事をしたことになる。

 その一方で、そのような体系を構築しようとする試みの中で、グローランサ宇宙の既知の作用(Cult of Terrorの事象など)の中でなんらかの両立し得ないものを生み出すことになるのならば――四つの見方の全てにおいて同様にこのことが明白であるのならば――彼はおそらくなにか間違っているのだろう。

 ところで、議論の炎をあおるものよ、気をつけよ!私は「主観性」と「客観性」の用語をある議論の意見がグローランサに対する外部的(つまり客観的)の関わりのものか、あるいは内部的(つまり主観的)な関わりについてのものか、(区別するために)用いているのである。私の選んだ陣営(いわば(前述のAlexの定義で)「隠された変容する客観主義」陣営の亜流)に不当にも押しつけられた(「主観論者は全ての神話が信者によってこしらえられたもので、神々は実在の存在ではないと信じている。」)という不合理的な意味で用いているのではない。これは論議の中身を読む努力ができない人々によって押しつけられたものであり、全くの不寛容はここからはじまるのである!




Nick Brookeより
1997年5月20日火曜日

 ある重要な「客観論者」は、自分自身のむしろ字句通りのルーンクエスト第二版の性質にたいする把握により合った、昔の「異なる題材」が出版されるのを望んでいた。

 今日では、もしこのように考えていたある人々が書いたり出版していたのであれば、全ての異なるタイプの資料が存在していたであろう。(素晴らしい!)そのかわり、我々の中の「創造的」タイプの者はたいてい「主観的な」グローランサについて書き、全ての「客観的」ファンがすることはそのことについてぐちを言い、ルーンクエスト第一版ルールブックですでに完璧であり、おそらくそれに引き続く全ての出版物(Cults of PraxやCults of Terrorも例外ではない)によっても傷つけられてきた世界に何も加わらないことを望んでいるのである。
 
 もしかするとこのことについては根本的なものがあるのかもしれない。創造的な活動は自然に我々を「主観論者」へと導き、その者は:

a)記事を書き、そして
b)我々独自の設定を世界に加える。

 その一方で維持を求める、還元主義の「客観主義者」がただ望むことは:

a)他の人々の書いた記事を批判し、そして
b)「X」以来書かれた全てが無いことを望む。


…「X」は(それが起こった時点がルーンクエスト第三版か、「グローランサ年代記」か「イェルムの光輝の再昇天」か、なんであるにせよ、)「純粋な客観論の美徳」が失墜する直前のサプリメントである。

 今日では、この態度が極端にとらえられた場合、我々にダイ・ハードな(「死にぞこない」?)ルーンクエスト第二版の信奉者がいるということになりかねない。貴方がその仲間である人たちはアバロン・ヒル社の新しいルールにあまりにも悩まされているので、グローランサに関する情報が入っている恐れのあるどんな新しいサプリメントも買うのを拒否するのである。そして私はここに顔を出している人がこのような態度を良識あふれる行為だといまでも考えているのか疑っている。

 私は(グローランサを)無味乾燥で、簡単にウォーゲームにできる手軽さに向けるために弾圧しようとする試みに対して我々、創造的な書き手が協力し合って抵抗することを望む。しかしそういうだけのことを、私はしているだろうか?

 もし貴方がオーランスのルーン呪文が「西の王の風」(訳注:ペント平原の新しい信仰、嵐崇拝)の信仰から回復できるかどうか見極めることを必要としているのなら、なぜ「赤の地」に行って確かめないのか?私の推量としては、そうできると思う
・・・・しかし君のオーランス人キャラクターはそうするにはまず騎馬遊牧民の野蛮な部族にうまく溶けこまなければならないだろう。(カルト比較表と反応ロール表だけでなくてロールプレイを通しての話だ。)ある風は風であり、風に他ならない…(訳注:Peter Metcalphは彼のCrimson Gregで違う意見を述べていたかも…)ルーン呪文を他の信仰から回復するのはもしかすると長くかかるか、それとも代償として「より多くを」要求するかもしれない。しかしこの考え方は神話的なものからしてもじゅうぶん公平なもので、我々のキャラクター全てに世界共通の神界に通ずるインターフェースを与えるよりは、よりロールプレイを行うのに喜びを与えてくれるだろう。素早く、安く、お手軽というのは言語道断だ!



Nick Brookeより
1997年12月20日土曜日



 ある文通している人は最近の修正主義的な出版物がお好みでない。


*おそらく我々の問題のひとつは、最近のグローランサ観がルーンクエスト第三版以前の出版物全ての説得力を失わせているように見えることなのだろう。 


 敬意を持ちつつ言うべきことだが、彼の言葉はばかげていると思う。(わたしの意見では)残されたグローランサ最良の資料はCults of Terror(ルーンクエスト第二版)、Wyrms FootnotesやWyrms Footprintsに掲載されていたthe Gods & Goddesses of Gloranthaの記事、(訳注:トロウル・パックの)ウズの書、そしてボードゲームのドラゴンパス及びNomad Godsの駒の説明がある。機械的なカルトのライトアップとルールの修正は出てきては消えていく。しかし最近の、ゲーム中心ではないし、(公式に)出版されているわけでもないドラフトによって引き起こされている混乱よりもこれらの出版物はグローランサの「雰囲気」や「本質」を保っている。




*「単一神話」の記録は間違っている…。



 うむ、言葉が足りなかった。「単一神話」は「良い近似」ではある。拘束服ではない。祈祷師に関する本を読むことと実のシャーマンに会うこととは異なるのと同じようなものだ。もし君が外国の人と会って、ゲームの中のシナリオにせよ、君の部族の中にせよ、またどこであれ、彼が本に書いてないことをするにしても、それはおまけの景品だ。そのことで本が「間違っている」ということにはならないし、単にその本に明らかにすべてのことについて包括する記述がされていないということに過ぎない。分別があるのなら君はそんなことを期待していないだろう。いつの日か比較宗教学の本を読みたまえ。(「金枝篇」(フレイザー著)とか、「戦士の運命」(デュメジル著)とか、「比較神話学の構造」(エリアーデ著)など。)そして神知者たち自身の尊敬すべき方法で、これが彼らの行ったことだと理解するのだ。



*神々は客観的実在を持たない…。


 神々の客観的実在は少なくともthe Cults of Terrorの四つの宇宙観から「疑わしいもの」となっている。「ここの向こう側」にあきらかな性格を持った強大なものたちがいることを否定する者はいない。ブリソス人や西方人、悟法家(神秘主義者)ですらこのことは認めている。


 これまでなされてきた再編成が行われてきたことは、「太陽神」が常に男性で、堅苦しく、帝位の尊厳にあふれている「イェルム」(とだけ)呼ばれていて、我々がしたがうべき協議事項をもち、よどみなく交渉ができ、信者の残世界の共同体で明白で首尾一貫しているというような…居心地のよい仮定に対するものである。(より最近の設定のダラ・ハッパとエルマル信徒の間の混乱を別にするにしても、このことはイェルム信徒の遊牧民とイェルムの帝国の間の戦争を理解するのを難しくする。)または/それとも、このような存在を「信仰する」ことを理にかなったこととする考えをも疑わせてしまう。



 この議論はグローランサの全体で「神々」(もしくは「精霊」あるいは「鬼神」、それともほかのなんにせよ)の実在にどのような重要性を与えているかに行きつく。異なる文化は異なる考え方をするし、ある者は信仰を行い、ある者は操作をし、またある者はなだめようとし、ある者は避け、またある者は哀れで不幸な神々に情けをかけてすらいる。ダラ・ハッパ人は言うだろう、「イェルム神は人類を御体を崇め奉らせんがために創られた。」オーランス人は言うだろう、「邪悪な皇帝はオーランス神が世界に自由をもたらすまで、皆を奴隷にしていた。」西方人は言うだろう、「汝、マルキオンの神ならぬ神を崇むるべからず、その神とは見えざる神なり。」クラロレラ人は言うだろう、「実体のない束縛にむかう愚行について瞑想なさっている間に、もう一杯お茶はいかがですか、誉れ高き官吏殿?」テシュノス人は言うだろう、「汝の言う「イェルム」とはなにか?「太陽神」は偉大なるソマシュ神である。彼は雷鳴と季節風を命令のもとにもたらすために「天空のゾウ」にまたがっているのだぞ!」そしてトロウルは不可解な「暗黒語」で(いつものように)毒づくだろう。


 誰もが自前のものの見方を持つ権利があるが、しかし「神」(もしくは「神々」それとも「唯一なる神」、なんでも良いが)はどうしてもそこにいる。我々はたいていの場合、彼らを多神教の感覚で、人格と神話を持った神人同形の存在として捉えているが、他のものの見方があることを否定することはできないし、否定するべきでもない。


*すべての「神代」と「時」についての資料はオーランス人のものの見方にのみあてはまる…


「神代」と「時」の違いについての資料は、正直なところ、かなり「ごまかしの燻製ニシンの匂い」(訳注:イギリスでは狐狩りのときこの魚の臭いを狐の鼻をだますために用いる)である。大部分の今日のグローランサ人は君がいつも昔からの資料から考えてきたように、世界が(訳注:曙で)変化したし、最初の曙が大昔に起こったし、それからそれ以前と、世界は異なっていると信じている。君が「イェルムの光輝の再昇天the Glorious ReAscent of Yelm」の資料で「学べる」全ては千年以上も前のことであり、ダラ・ハッパのある人々はまだこの世界の見方を持っていなかったのである。このことが本当に君のグローランサの喜びを奪ってしまうのだろうか?もしそうなら、なんで?




*イェルマリオについて書かれた全ては間違いである・・・


 エルマル/イェルマリオの関係はおそらく近年で最も迷惑な/不必要な変更であろう。しかしCults of Praxまで戻ってみても我々は「もっとも頑強なオーランス信者ですら「太陽」の存在は認めている」と告げられている。「エルマル」の発見はどのようにこの設定が「陽の天蓋寺院」のない部族民のオーランス人の地域で働くかを論証してみせた。いっぽうCults of Praxはすでにドラゴンパスの「陽の天蓋寺院」が古代のカルトの復興であることを我々に告げている。(「「第三期」にこのカルトはサーター王家の要請に応じてドラゴン・パスに戻った。ここでカルトはその地域の宇宙的な釣り合いを取り戻し、王国を支配する王家にとって安定したものにした。」)




 私見だがもっとも悲しいことは、我々が「グローランサ年代記」で読むことを最悪に極端に解釈する人である。イェルマリオのカルトが一夜のうちに(千年のしっかりした歴史とともに)突然生まれたとか、「イェルマリオ」という言葉をゲーム中で使う(もしくは「エルマル」を使わない)人はみんな間違っているとか言う人たちだ。わたしは我々がいつも見てきたとおりにこの世界を考えていたい。そしてこの新しいエルマル/イェルマリオの情報をいかに「陽の天蓋寺院」の再建が(嵐を信仰するオーランス人と太陽を信仰するオーランス人の、内戦に近い状態を終わらせることで)「王国を安定化させた」のかを説明するのに使っている。そしてこのことはプラックスからドラゴンパスへのイェルマリオカルトの再導入という結果になったのだ。なぜそんなに台無しにしてしまうんだ?


*ダラ・ハッパ資料(「天寵ある継承The Fortunate Succession」などなど)はそれ以前に出版されたどの資料よりも説得力がある…


 もしそう考えるならそうしておきなさい。しかし君はすべての資料の良いところをとって面白いことができる人ほど楽しいゲームをすることはできないでしょうね。(そして君はダラ・ハッパ資料について話せる人をそう多く見つけられないだろう!)「天寵ある継承」にはいくらか近代のルナーの歴史について新しくて素晴らしい資料が書かれているし、巧妙に同人誌のWyrms Footnotesや Heroesに書かれていた記事を補完している。新しいダラ・ハッパ神話と歴史の断片は興味深いシナリオや、宝物や、喪われた神殿や世に埋もれたものの再発見などに作り直すことができるだろう。しかし正直これらが「より説得力がある」と考える必要はない――もしこの地域が貴方のゲームにはめぐり合わせのないところならば、それは意義をもたないことになる。もし君が伝統主義者のダラ・ハッパ人司祭の典型でないのなら、誰がそんなの気にするんだ?(私のTales#16に掲載されている「オローニン流域」を好例として挙げることができるが、)我々の世界の扱い方やゲームでの利用法を、重要なことはなんら変えることなしに、背景世界を鮮やかにしたり、地方の神話をおぼろげにしたりするためにこの資料を掘り下げることができるのである。


*おそらくグローランサはあまりにも神秘的になっているので初心者には誰も理解できないかもしれない。


 敗北主義者の言葉だ。軍曹、この男を撃て!ここで分別のある質問を放つことのできる初心者は分別のある回答を得ることになる。十五年以上にならないいかなる出版物にも軽蔑的な態度とTSR社の(訳注:D&D、AD&Dなど?)やっつけ仕事の世界にひねくれた敬意を見せる昔なじみはぞんざいな扱いをされることになるだろう。こうなるのは私には十分公正であるように思える。


*もはやいかなる実際的な「真実」の核もない。おのおののグローランサの生命のささやかな細部に由来する、千もの異なるものの見方に応じて全ては主観的なものであり、グローランサ・ダイジェストに流されることになるので、この世界の公式に発表された大要は説得力のとぼしいものになるばかりである。


(好奇心から聞くのだが、いったいどうなって、いつ「説得力の乏しい」ものと宣言されることになったのか、そしてなぜ誰がその宣言をしたのであれ貴方はそれを信じるようになったのか?)


 今はもっと重要なことになっている。「主観論」のたわ言はしまいに全てのグローランサの議論を汚染している。そのため私は自分の言葉を注意深く選びたい。なぜならこのことを理解することはグローランサの神話的な実在性を理解する最善の方法になるかもしれないと私は本当に信じているからである。


*「誰が重装歩兵戦術を発明したか?」


 もし君が「花崗岩方陣連隊」のペローリア人信者に訊くのなら、彼は君に「花崗岩の方陣の神」が始めたのだと言うだろう。それとも古代に遡ってダクスダリウス将軍が始めたのだと言うかもしれない。もしダラ・ハッパ人に聞いたら、彼はウルヴァイリヌス皇帝の名を挙げるかも知れない。もし君がオーランス人に聞いたら、彼はそのたぐいの技は「陽の天蓋聖堂戦士団」が自分達の土地に持ち込んだものだというだろう。そしてルナー軍も同じようなやり方をしているようだとも答えるだろう。「陽の天蓋」は(もちろん)自分たちのイェルマリオのやり方が「本来かつ最良」の方法で、他のどれも貧弱な模倣を提供しているだけだと言うだろう。


 今では、これら全ての議論で素晴らしいことは、彼らが主観的に言って正しいことである。オーランス人とイェルマリオ信者は「陽の天蓋聖堂戦士」がオリジナルの「方陣」を知っているのだと実際に考えている;ペローリア人は「天蓋寺院」についての言及がない自分たち独自の物語を持っている。しかし一体どちらを正しいと選ぶべきだろうか?


 単純に言って、全てのグローランサの文化は全ての先立つ歴史的および神話的な出来事両方で完全な情報を共有している。「真の解答」がどの質問にもあるのかもしれない。ボールドホームのランカー・マイ信者、ある「灰色卿」はパマールテラの仮面の神ボロンゴが「無秩序のルーンの保持者」であったことを知っているかもしれない。第一期のあるダラ・ハッパ人は自分の「皇帝」がイェルムの目から見て正当か間違っているか知っていたかもしれない。あるマルキオン教の魔道士Wizardは完全に聖典を解釈でき、教派分裂や異端を見当違いのものにしてしまうことができるかもしれない。これらは興味深い思考の実験になるだろうが、ロールプレイングゲームの設定としてはあまりにも退屈なものだ。


 その代わりに、「真実」の多面性というものが持ち出される。ところでこのことは、全ての者が出来事に対する独自の見解を「こしらえている」ことを意味しない。それぞれの文化はなにかを単に信じているふりをしていることはありうるし、(訳注:Jean Picardジャン・ピカール、Star Trek: Next Generationの船長の口癖)ピカールのように(単に)「そうしておく」こともありうる。力説されている事実の真偽を問うことは不可能である。このことは「オレノア女神の灯明」(Wyrms Footprints 38ページ)の神話や、Cults of Terrorの四通りの宇宙論や、「グローランサの世界」に描かれている「哲学期」や創造以前の神話という疑わしい段階についての記事や、「天寵ある継承」に載っているさまざまでいかがわしく、矛盾していて混乱させる内容の「皇帝たちの目録」でうまく表現されている。


 ここで私がグローランサの神々についていままでで最初に書かれた文章の最初の文を引用することを許してほしい:

「創造についてさまざまな形の話があり、これらは全て正しい。これらが相互を否定しあうものとなっていてさえも、物語は依然として真実と価値を含んでいる。これらの相違はある種の地理的あるいは精神的影響の領域ではふつうに機能することが魔術的、心理的に明らかであるその地方での信仰を表現しているのである。これらの「実在」にたいしての劣っていて制限されている知覚力をとりまいているものに「大いなる神秘」が宿っているのである。」


 もし私がこの文章を正しく理解しているのならば、我々の文通者はこの「大いなる神秘」がそもそもなんなのか教えて欲しがっている。以前、我々にはグローランサについて「究極の真実」を与えられていたのだと考えているのだ。しかしここでいうものはその他の「究極の真実」にたいしての賛意から「否定」されてきたたぐいのものなのだ。そもそものはじめから、我々の資料に計画的な不確実性が導入されていたことを目のあたりにして、これは明らかに間違った二分法であることがわかる。(ルーンクエストの第一版のルールには、どのルーンが最初に現れたのか誰も知らないとは書いておらず、誰もが自分たちのルーンが始めてのものだったと言うと書いてある。これが「主観的」な表現でないのならなんなのか?)


 我々が我々が受け取るグローランサについての全ての情報は制限され、不完全で、大雑把であり、抽象的で、地方的なものだということを受け入れられれば、新しい思いつきに出くわすことは難しくないし、それらを自分のゲームに取りいれたりはねつけたりすることも簡単なことである。しかしすべてのものが直接的で回りくどくなく扱われてきたとか、「インターネットの邪悪な学者たち」がみんなのゲームの平安に混乱を付け加えてきたのはごく最近だ、というようなふりをすることなしにそうすることだ。私は君のために最も古い版のルーンクエストの製品から、念をいれ細をうがって引用して、そうではないと証明することができる。もし我々が若僧だったときに、無批判にプラックス人の宇宙論を受け入れていたとか、我々が実のところ理解していない断片を無視していとかしていたならば――それは我々の若気の至りの遺物であり、我々が実際に昔のものを読みかえして出た結論を反映したものではないのである。


 もちろん主観論を受け入れるに当たって素晴らしく大きな恩恵は、もちろんゲームをする人にとってのものである。いかなる「唯一の真の神話」や、「真の道」や、「大いなる疑問」に対して権威の与えられた答えの源がない限り、我々はらくに自分独自の部族や伝統や慣習やカルトや物語やシナリオなどなどにとりかかることができる。そして誰かが突然来て、「それは間違っているよ、なぜなら・・・・」などと言うことがないということがわかる。なぜなら我々はみな彼らがたわ言を言っていることを知っているからである。



「学問的な」取り上げ方の利益は、奇妙で矛盾しあう情報を調和させるときにもっとも分かりやすい。私はテルモリ族の魔術と、人狼と、赤の月の位相がなぜ関連しているのかの理由についてまもなく決着をつけることができることを願う。私は自分の書いた「赤の月」の位相と、「帝国」におけるサトラップやスルタンの命名法とともに、エルマルとモンローフ、そしてプラックスの関係についての最近の仕事をとても愉しんでいる…。しかしこれらの全ては矛盾しあう資料を取り入れて、可能な統合をつくろうとするものであり、存在する資料を可能な限り保護するが、それに新しい洞察を付け加えるものである。「新旧」のグローランサについての二分法は必要ではない。我々が「彼女が遊んでいたグローランサ」を基礎にして話を進めるにしても、より新しい「情報」をいぶかしげに見て、「どうやってこれを私の新しいゲームに使うんだ?」と尋ねるのなら、それではじめて長期的に見て我々は利益をを得ることができるだろう。


 こういうのが正しいのかは分からないが、私は促されない限り、決して「ウロックス(訳注:旧ストーム・ブル)」や「ターケンエギ(旧「赤の皇帝」)」もしくは「ルフェルザ(旧「赤の女神」)」のような言葉を使わない。その一方で私はこれらの言葉が存在していること、より正確なグローランサの原語の写しであることを喜んで認める。私は慣れた「嵐の雄牛」や「赤の皇帝」や「赤の女神」など昔からの名前を用いるときにもっとも幸福になる。なんでわざわざ君のゲームを面倒くさくするのか?


 最近のダイジェストで見ることのできる――「陽の天蓋」の歴史についての私の意見は――Cults of Praxや「太陽領Sun County」、「グローランサ年代記King of Sartar」の要点を失わずに、「エルマルの誕生」の記事からの規格外のモンローフについての資料を統合することである。しかし私がその過程で献身的に誰かのグローランサを台無しにしようとしているなどとは考えないことだ。(誰かがすでにイェルマリオのカルトの全ての痕跡を消し去るために自分のグローランサの古いところをだいなしにしていないならばの話だが。どちらにせよ、そうしている人はもはやわたしの目的としている読み手ではない。)

 
 もし誰かがダイジェストやテールズ誌やその他の場所に「無用な学問的かつ自慰的」記事を見つけたら、それはその記事がその人のゲームに全く不必要であることを意味しているのかもしれない。――私にとって大部分のパマールテラやヴィセラの資料はこのリストに入る。(しかし他の人は同じように西方や、ペローリアや、プラックスや、はてはオーランス人の資料すらに同じように感じているかもしれないのだから、あら捜しをされたのだと思わないように!)


 その一方で、批判が自分が使ってきた材料に対してのその記事のアプローチの仕方(KGB/ゲシュタポ的なダンファイヴ・ザーロンカルトや、「花崗岩方陣連隊」の魔術呪文や、ヤーナファル・ターニルズの軍隊の指揮官のカルトなど)が気に入らないことによるのならば、どの場合にせよ、君の好ましいと思える部分だけ取って、残りは無視し、(その他のみんなが同じように感じるか、君の記事の方を好む場合は、)君の考えと意見を書いた短い投稿をすることだ。そして楽しくゲームを続けること。我々みんなが何もかもに同意できるわけはないでしょう?そうでなければ、なぜ競馬やら、政治やら、他のありとあらゆることに関して、意見の違いが出てくるわけがあるのか?


 良い意図を持っていたり、良く調査して書かれたものであるにせよ、誰かが他の人のゲームを傷つけることしかできないものを書いたときに、最悪の議論が始まるのを私は見てきた。イェルマリオと呼ばれる神は存在したことがなかったとか、全てのルナーの神話は間違っているとか、フマクト信者は同性愛者だとか、単純な《神託》で間違った神話は消し去ることができるとか、オーランス人は古典時代のアテネの民主主義者だとか言う場合である。これは馬鹿げていて物議をかもすふるまいであるが、それは支持者をどこにも見出し得ないからである。


 もし君自身のゲームが出版されているものの主流から孤立して、独自の「グローランサ」の背景を作るのに何年も費やしてきたのなら、君の幸運を祈る。しかし何らかの異常なことが起こらないかぎり、君の材料が主流のものになる道を見出すことはありそうにない。(このことはルーンクエスト第二版の「ダイハード(死にぞこない)」たちにとって特有の問題であることに私は気づいているが、もしかすると私の車のボンネットの中の一匹の蜂に過ぎないのかも。「私は80年代をアヴァロンヒル社から何も買わずに第二版を遊んできたが、今では私は君が私の知っていることよりはるかに多くを知っていることがわかってあまりにもうろたえている。だから私は一緒に遊ぶのをやめることに決めた!」)


 言ってみれば、この世界の一部ではイェルマリオの名ををまるっきり聞いたことがないとか、ルナーの伝道者たちに対してキャラクターになりきって修辞的な攻撃を行うとか、神聖な同性愛者のフマクトの教団などが意義を持って存在しているということもありうる。しかし「いつもこれこれのことはこうでなくてはならず、他の全てのものの見方は間違っている」と言うのは単にもめ事を欲しがっているに過ぎない。そしてたいていそれを頂戴することになる。(おめでとう!)


*ルーンクエストやウォーゲームなしに、このリストやその他の場所でグローランサについて聞いたり気にかけたりする人は誰もいなかっただろう…いくつかの良いグローランサのフィクションが書かれているがこれらの昔のルーンクエストのゲームの本ほど興味深くて霊感を与えるものは他にはあったためしはない。

 このことは絶対的に正しい。(しかし私のグローランサに対する感覚について言うなら、ワームズフットノート誌の記事などを含む古いルーンクエスト第二版時代の資料がこれに当てはまり、「ルーンクエストの本」というものだけを意味しない。)グローランサが漠然とした学問的な議論を通してでなく、我々のゲームを通して生きているものである以上、なぜ君のゲームを進めて学者どもを無視しないのか?(しかし彼らを間引きしないでくれ、慈悲ぶかくなって下さい!インターネットかどこかに彼らの生きるところを与えてくれ。そこで彼らは自分たち独自のやり方でこの世界を開拓することを続けられるし、時たまの金言や良い洞察で貢献し、謙虚な平信者の質問に答えたり、いなくなった羊を返したりすることができるだろう。)
 このダイジェストはある種の漠然とした分野に同意事項について吟味するのには絶好の場所だが、私の意見では見解には結論なくしては的を外れる。そしてその結論とはゲームに用いるために、グローランサのある面を説明し強調を行った、よく書かれよく吟味された記事であるべきである。そしてダイジェストの貢献者の何人かはどこかでそれを出版させる機会を与えている。私はこの機能はうまく働いていると思う。ダイジェストなくしては、最近の印刷物はずいぶんと貧弱になっていただろうし、君が最近のルーンクエストの資料を買うのを拒否しないかぎり、今のところダイジェストが悪いものになろうとするのも難しいだろう、そうではないかね?


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