私が赤の月の光の下のグレッグに対して恋焦がれたり悩んだりするのを止めたわけ

How I learned to Stop Worrying and Lurve the Crimson Greg


by Peter Metcalph


A Dictionary of English Slang: lurve Noun/Verb. Love. Humourous and intentional mispronunciation to suggest more passion and lust.



「なにかがPeter Metcalphの苔で覆われた塔の門番を呼び起こす。無愛想な学者は仕事から注意をそらせて、下の深い闇を吟味する。今度は誰がことを起こしたのか?戸別調査をする「白い月」の信者か?あるオーランス人が自分の神について言ったことでなにか意見が出たのか?まさかもう一度、呪われた「神々に送られし贈り物の与え手」(訳注:第二期に主に神知者の暗殺を行った謎の団体)の仕業ではあるまい!いずれにせよ、ピートは準備ができている。彼は「聖なる羽根ペン」を取り上げる。彼は微笑し、くすくす笑い、哄笑する。薄暗いなかでふたたび巻物に注意を戻し、彼はさらに古めかしい記号を書きつける…。」




 グローランサの各地を開拓したり、創造に参加したりする上で最大の問題の一つは、膨大な量の資料が関わってくることであり、結局のところ出版されていなかったり、はては(しばしば?)文章にすらされていない資料で「グレッグ化」されることに対しての恐れである。(この非常に有用な用語についての説明は、次ページの枠内の文章を参照のこと)我々は後にグレッグ化されることに関する恐怖からグローランサの歴史や神話について下手にいじくり回すことを好まない。〈動詞用法1bを参照。)真相は、この世界はあまりにも大きく育ったので、グレッグ自身ですら、つくるのにカビの生えた文書の入った箱(1966年から残っているものすらある!)のなかを調べるよりは、なにもないところからひねり出すほうを選ぶということである。それなのに我々は全ての細部をこころみ、満たすように鉄で縛られていると感じなくてはならないのだろうか?

 それにも関わらず、書かれた文献についての問題は残っている。無数の手がかりが遠く離れたところや、あいまいな部分に残っている。そしてこれらのうちいくつかは君のその領域に対するものの見方と合わないかもしれない。この記事はどのように、これこれしかじかのことについてグレッグの書いた(いつもながらの)ほんの少しのコメントから、君が完全な神話体系をでっち上げるか、あくまでその書かれているものの精神に従いながらクリムゾン・バットにまたがって抜けあなを通り、書かれた文章を踏みにじることができるかを実際にやってみせようとするものである。

 

・グローランサの資料は当てにならない
 まず第一に、我々は資料が完全な信憑性をもつ鑑であるという考えを疑うことを試みねばならない。このことは誰もに指向の違いがあり、いくつかの資料は明白な嘘で成り立っていることから話は簡単である。 例えば、「グローランサ年代記」を例にとってみよう。この中にはアーグラスの功業を数えあげる上で無数の欺瞞が含まれていて、生前うぬぼれの肥大した「王Prince」のとてつもない虚栄心を満足させるためになされたこびへつらいからそれらは生まれたものである。このことの主な例は「ドラゴン・パス合史」の中に見出される。アーグラスが彼の戴冠式の一部として1627年に「サーターの炎」を灯したと記されている。この炎はルナーの占領時代の多くの間消されていた。それなのに、他の資料から「星の眉の」カリルがこの時期に統治していて、「サーターの炎」を灯したのは彼女であるということをわれわれは知っている。1630年まで、アーグラスが「サーターの王Prince」になることはなかったのだ!



・グローランサの神話は自己充足的〈自分勝手)である
 それにも増して、政治的な顕彰の辞というやつがある!実際の神話というのは本当のところなんだろう?神知者の神話は主に、英雄界の地図を作るためにできたもので、面倒なことを最小限で、気まぐれに行ったすべてのヒーロークエストからひとが力を得られるようにするものだった。系図上の神々の関係はきわめて明快で、三柱のエーテルの子らの兄弟(イェルム、ダーゼイター、ロウドリル)がいて、「大地」の「四角」(ガータ、「大地の女帝」、「大地の魔女」、「大地の王」)がいて、ウーマスの五柱の息子たちがいる、などなど。それでもこの情報になにかしらでっち上げがあるという印象を受ける人がいる。イェルムに関係のある「黒陽神」、バスコもまた「天空の神」の一柱であり、イェルムの従兄弟でありながら、イェルム自身は「始原の天空の神」エーテルの息子であったりするのか?もし、「グローランサの神々」の資料でドライアドが歌った通りなら、「大地の王」はガータに「土地の女神」たちを生ませたことになるが、それならなぜジェナートとパマールト、二つの大陸の「大地の王」たちが「土地の女神」たちの父たちとしても知られているのか?なぜ「風の神」、コーラートはウーマスの長男と呼ばれているのか?他の人はウーマスの長男は「シルフの父」、アンブラールだと言っているのに?このことについての答えは「グローランサの神々」の6ページ(日本語版ではカルトブックの9ページ)に載っていて、それによるとマルキオン教徒の信じていることが述べられている:

「……自然は認知可能で、可測関数であるから、創造は最初の等差級数とともに始まったのである。知ることのできぬもの「0」のつぎに、「1」すなわち創造主がやってきた。そして彼は、「2」すなわち宇宙の二重性を作った…」(まりおん氏訳)


 このことに関する解答は明らかである。「論理王国」の継承者としての背景にふさわしく、神知者たちはすべての精霊界のトムやディックやハリーを(訳注:あるいは「太郎」や「次郎」や三郎」を)プロクルステス(訳注:ギリシア神話のテセウス伝説に出てくるわるい宿屋の主人、ベッドに合わせて客をちょんぎったり、ひきのばしたりした。)的な数秘学的骨組みにあわせて、合わない極端なところを「純粋なる論理のチェーンソー」をつかってちょんぎっていたのである。編集室の床に落ちた残骸としてなにが失われたか知っている者がいるものか!だからわれわれは全ての神知者の神話を用いることで、気前のよい塩の味つけとして、自己正当化できるのである。

 しかし神知者だけが神話上の近視眼を持っていた人々ではない。自己正当化は他の文化にも豊富に見て取ることができる。

 ダラ・ハッパの誇り高き市民たちはプレントニウスの書いた「イェルムの栄光の再昇天」を根拠に、自分たちの初めのころの歴史について知るのだが、それによると、「曙」に昇った「太陽」は実のところアンティリウス神が戻ってきたというだけに過ぎないのだ。「唯一の真実の太陽神」、イェルムは「太陽停止」の起きた375年後までこの世界に戻ってはこなかった。今ではダラ・ハッパ市民はイェルムを信仰しているし、グローランサのほかのいかなる民よりも彼のことをよく知っているのだから、彼らのいうことは「全く正しいはずだ。」しかし(我々が挙げられるかぎりにおいて、)彼らの言っているようなことを信じている他の文化がないことを考えると、ダラ・ハッパ人たちが、「太陽停止」以前にはアンティリウスを太陽神として信仰していて、その後になってからイェルムと神聖な「接触」を持つようになった、などと見なすのはまったくけちくさい考えじゃないか?我々はイェルムが、自分を信仰することを誰に許すかについてきわめて気難しいという事を知っている。(普通)イェルムのカルトには生まれながらに属している者を除いて入ることができない。それでは、もし「曙」にイェルムが昇天したのなら、彼らダラ・ハッパ人たちは、それ以前にイェルムと接触を持つためには、卑しすぎたということになる。

 それでは、君はダラ・ハッパの司祭の履く靴(サンダルでもいいけど)を無理矢理足に合わせてみる。彼にとって他の者全てより優れている理由は、君の祖先たちがずっとイェルムを信仰していたということだ。このことによって彼の民が世界を支配する当然の権利をもつことになる。彼は自分の祖先があまりにも卑しかったので「曙」の後では、アンティリウスしか信仰することができなかったなどという考えを受け入れることができるのだろうか?彼の祖先たち、「偉大なるムルハルツァーム皇帝の栄光の帝国」の素晴らしい市民たちの直系の子孫が、他の民となんら異なるところはないなどという考えを?無理に決まっている!そんなことを認めるくらいなら彼は死ぬだろう。だから、「曙」の後に、ダラ・ハッパ人たちにイェルムがなぜ信仰されていなかったかについての虚構が生まれるのである。イェルムは「実の世界」に現れる力を持っていなかったという。こういう考え方が、ダラ・ハッパ人が当然、他のいかなる民よりも優れているという名誉を守ることにつながるのである。

*DnDいわく:「真実はトロウルキンのようなもので、時々君はそいつが金切り声をあげるか確かめるために殴らなければならない。」

*「この記事はどのように、これこれしかじかのことについてグレッグの書いたほんの少しのコメントから、君が完全な神話体系をでっち上げるか、あくまでその書かれているものの精神に従いながらクリムゾン・バットにまたがって抜けあなを通り、書かれた文章を踏みにじることができるかを実際にやってみせようとするものである。」

・伝説から神話へ:神の創造?
 つまり、我々はある神話が真実を歪める明らかな例を見い出している。我々はもう一つの例を「オーランス人のサーガ」に見つけている。オーランス人たちは誇らかに、自分たちの神がオーランス、「神々の王」にして「最初の反逆者」ウーマスと(「トリックスター」が言うとおり、ウーマスは「山岳の妃」達を愛しているのであるから、)「最大の山」ケロ・フィンの間の息子であるということを高らかに宣言する。オーランスは全世界を征服して、彼の狂った兄弟、ラグナグラーが「悪魔」ワクボスを呼び出した後に、「光持ち帰りし者たちの探索行」を経験した。非常に面白いことに、オーランスの両親は両方とも、オーランスが出てくる神話には出てこない。このことは(時に無教養な男が、自分の女が孕んだと分かった時にやるように、単に姿を消したのかもしれない)彼の父親については理解できるかもしれないが、オーランスの母親はオーランスの神話群では場所の名前としてのみ現れるのだ。

 オーランスが単なる定命の英雄で、(後に神格化した、フマクトの決死隊コマンドーが私の冒涜を罰するために狩り出すことがなければの話だが、)ケロ・フィンの地に生まれた(つまり、母国だった)のだとするなら、そしてウーマス神の道を進んだ(つまり、彼にとって父のようなもの)という話は可能だろうか?このようなオーランス人の大言壮語を割り引いて考えることで、この問題はオーランスが他に本当になにをやったのかという、当然の質問にまで行きついてしまう。

 

・再び、グレッグ化した!
 我々がグローランサについて議論する時、「グレッグ化するgregged」という用語は、何度も何度も出てくるが、いつもそれは思いやりのあるユーモアが底に流れている。実際のところ、この用語はインターネットのグローランサ・ダイジェストの貢献者達によってまとめられ、多くの用法について法文化されている。以下はMichael Morrison氏の許可のもとにその成果を挙げたものである。

greg(名詞)
 
  1: グレッグ・スタフォードの出版されている、または出版されていない資料によると、正しい理論、体系、もしくは地図。
2a: ある理論、体系、もしくは地図の正確さの計測単位。グレッグ・スタフォードの出版されている、または出版されていない資料による。
2b: ある特定の題材についてグレッグ・スタフォードの書いた資料で、どれだけ表現されているかを図る計測単位。言葉や参照ページ、もしくは倍数によって計測が可能。

greg(形容詞)
   グレッグ・スタフォードの出版されている、または出版されていない資料によると、正しい。
 
greg(副詞)
   グレッグ・スタフォードの出版されている、または出版されていない資料によると、正しい手法。

greg(動詞)
1a: ある人が自分の理論を証明、あるいは対立する理論に反証するために(たいていの場合)出版されていないグレッグ・スタフォードの資料を参照する。
1b: ある理論が、近頃の考え方に合わないからといって反論する。(この用法はグレッグ・スタフォード自身のみが使える。)
2: ある人が自分の理論を証明、あるいは対立する理論に反証するために出版されていない資料を利用する。
3: ある人が自分の理論を証明、あるいは対立する理論に反証するための証拠がない人が、存在しない(ときには複数の)資料を利用する。



・ヒーロークエスト〈英雄探索)のヴァイキング〈寄せ集め)料理
 ヒーロークエストは、さもなければ、神話上のあいまいであるはずの存在を、既知のものや場所を代用品として置き換えるやり方に結びついている。この方式は、拙劣な物語の語り手(ストーリーテラー)が、記憶しなければならない曖昧なものごとにたいしてよくやることである。しかし確かにグローランサのヒーロークエストでは、物語の語り手は自前の神話がわかりやすく、意味がさだめられているようにしなければならないか、さもなければ英雄だれそれが神知者どもよりもひどいくそったれだというだけのことだ。しかしながら、多くのヒーロークエストが神話の世界に入るために特定の場所から旅をはじめる必要があるように思える。たとえば「光持ち帰りし者たちの探索行」を達成するためには、「グローランサ年代記」の記述にあるように、「勝利者オーランスの丘」から出発しなければならないのだろう。

 しかし、そう考えるのはグローランサを曖昧さの中に沈没させてしまう危険に近づけてしまう。このことが意味するのは、全ての「光持ち帰りし者たちの探索行」を達成したオーランスの民は「勝利者オーランスの丘」から出発するためにドラゴン・パス地方に旅しなければならないということである。(非人間種族の占領時代のように)もしドラゴンパスが人間に閉ざされてしまったなら、この条件は全くの失敗のもとになりうる。「魔術的な対照性(シンメトリー)」の効力を引き出して、ドラストールの「雷鳴山」やカルマニアのジェナルフ山など、他の神話的重要性を持つ丘や山で代用するほうがはるかに簡単ではないか。

 疑い深い人たちにこのやり方が通用することを示す証明として、「ドラゴン・パス年代記」のオーランス人のサーガには二つの例が見つけられる。最初は「光持ち帰りし者たちの探索行」の間にあったもので、それによると「黒曜石の城塞」の最下層でオーランスがスビーリー女神と会食したとのことである。この「城塞」はファラオがこれを黒い粉塵の霧に変えてしまうまでのことだが、ドラゴン・パスのオーランス人には「影の高原」に立っている「一なる老翁」の宮殿として良く知られていた。「一なる老翁」は実のところ「地獄の暗黒」であるスビーリーを、彼の住んでいるところの地階に住ませるほど強大なのだろうか?本当のところ、スビーリー、「暗黒のルーン」の始原の保持者は、スパイク山の「黒い深淵」か、その崩壊した残骸に住み着いているはずなのだ。


 ドラゴン・パスのオーランス人たちが意識的に、むかしの神話の「地獄」の晩餐の場所を「黒曜石の城」の地層に変えたのだと考える方がもっともらしい。彼らはオーランスが「黒曜石の城」の地階を訪れたのだという事を神話から知っていて、またある時には「光持ち帰りし者の探索行」の途中で「地獄の女神」を訪問したのだということも知っていたのだろう。もともとあった道からそれてしまったこのクエストの弱点も、新しい道を進むヒーロークエスターたちが、慣れ親しんだところを回るようになったことで要領よく立ち回るようになり、相殺されてしまったとも考えられる。つまり、もしある英雄探索者が予測不能の困難にあった時には、彼もしくは彼女はトリックスターを黙らせて(原注1)、スビーリー女神に礼を言い、「「一なる老翁」の地下牢からの脱出」カードを集まってくる看守たちに見せればいい。看守たちが地表まで送ってくれるだろう。このような脱出の方法はもし前の道が使われていたのなら、難しかっただろうし、不可能ですらあったかもしれない。
(原注1:アリンクスにトリックスターの舌を噛み切るように命じるのは伝統的な方法である。このことは好ましくない慣用句である、「どうした?(Wassamater?=What's the matter?) 猫があんたの舌を取ったのか?」の語源となった。)


 似たような例で、「光持ち帰りし者の探索行」の中に、我々は「イーヒルムの炎」についての言及がされていることに気づく。今日では「論理王国」から、神聖なる西方の預言者、マルキオンに追放された「誤ちの神」のひとりとして、ブリソス人はイーヒルムEhilmを知っている。彼は追放された後で、ラリオスに行き、そこでガラニーニ族Galinini(訳注:かつては馬のスンチェン人だったが、昔のやり方を捨てた)の支配の神となった。最初に定命の「光持ち帰りし者」となった「裸足の」ハルマストが、ラリオスでしばらく過ごしたことを我々は知っている。そのことから、ハルマストが、もともとの試練(訳注:もともとの試練は「憎悪の浴槽」につかるというもので、「知恵の泉のクエスト」に成功している必要があった。)を生き延びる術を持たなかったので、「混沌大戦」の間に彼がつきあったガラニーニ族から、無事に通る方法を学んだ「イーヒルムの炎」の試練で代用したのではないかと仮定できる。そうして彼が成功したので、元々の試練は沈黙のうちに忘れられて、「イーヒルムの炎」が事実上のお手本として受け入れられてしまったのだろう。

 神話上の特定の事物が代用のもので間に合うからといって、「神々」自体も代用で間に合うか聞くのは道理にかなっているだろうか?当然だろう。カルマニア人はフマクトをオーランスに置き換えるし、ウーマセラ人は九柱の「光持ち帰りし者たち」を扱ってきたのだし、イムサー人は(惑星「先駆星」)ラガヴァールLagavar神を「光持ち帰りし者たち」の長として、そしてオーランティオ神をトリックスターであると考えているのだ。つまり、ある特定の文化によって語られている神話は、文化を定義している事実と言うよりは、むしろその文化の価値ある産物artefactなのだ。神話が文化の変化を阻害したり、促進したりすることに一定の役割を果たすこともあるけれども、変化そのものは神々からというよりもその文化の必要に応じて出てくるのである。


・文化的変化と進歩
 そういうわけで、もし神話が変化する可能性を秘めているのならば、文化そのものの変化についてはどうだろう?文化の変化については「文明化された」、あるいは文字を持つ文化において一番顕著である。(例としては、ラスタンガールRastangar王と彼の戦士たちのほとんどが、破滅的な「剣と兜の叙事詩」のできごとで死んだ後で、「嵐の時代」のオーランス人から分離したエスロリア人について言えるだろう。(テールズ誌7号の手紙文を参照のこと))しかし口承の文化においても、同じことが起こることは見過ごされるべきではない。ペントの遊牧民は二度、自分から分裂しているが、最初は牛を遊牧する習慣を受け入れた時で、二度目は「ペントの四つ風」のカルトのおこりだった。テルモリ族も人狼Werewolfたちと、ナイサロールの祝福を受け入れなかったので、今日テイロールの呪いから自由である「純粋なる者たち」に分裂した。バトゥー・バトゥンBatu Batun(訳注:パマールテラ・ジョラーの荒野)の「左脚の道Left Footpath」の部族は古代の流儀の生き残りで、「六脚帝国」の到来以前の、昔のやり方を守っているのだが、彼らはその同じ「六脚帝国」を破壊した戦争をはじめたホーン・ホールビクツが創始した「右脚の道Right Footpath」の部族に対立しているのである。

 同じ地理上の区域を割り当てられた諸文化がある程度異なることがありうるけれど、そういう状況の中で我々はどのような信頼を置くことができるだろうか?たとえば、広範に住んでいるスンチェン人の諸部族はみんな同じなのか?スンチェン人は皆、ある特定の動物をトーテム獣として信仰しているのだ。いまや神話と歴史の中で、バスモルの獅子の民のように、もともとはパマールテラ大陸のタリエンを故郷にしていながら、広く遠くまで広がっているのである。タリエンのバスモル族の多くが北方へと敢えて向かい、彼らの子孫はラリオスとカルマニア、プラックスにまで見出される。多くの部族の間にある断絶と、外敵や環境の変化を考慮すれば、プラックスのバスモル族について書かれたことがタリエンのバスモル族にとって正しい必要は必ずしも無いのだ。(誰かが私のことを必要以上に偶像破壊(因習打破)主義者とみなすことがないのなら、)われわれには、タリエンのバスモル族が獅子を信仰しているという仮説をすくなくとも「立てられる。」)



*「龍の友」オーランスのカルトの最初の奥義:「真実は石である。それを脱皮させる手段について学ぶこと」


・HASTA LA VISTA(スペイン語:さようなら)、単一神話
 さらには、特定の文化やそれに属する者が語る神話が、「偉大なるグレッグ」がある特定の地域についてはこれこれのことが真実であると明らかに言っているにもかかわらず、きわめて極端に変化にあふれていることを描写する作業に集中してみよう。しかし神話的な事実によって作られた制約というのはなんだろうか?誰もが、自分たちが呼吸しているのは「大気Air」であると知っているはずだ。そして今日、「大気」のルーンの保持者はオーランス神だ。ということは、オーランスは万人が知っている神でなければならないのか?

 この類の排外的なルールは、ある文化がそれを信じているかいないかによって限界が定められるべきだろう。だから、もし私がクラロレラ帝国について考えて、ガガース神を「嵐の主神にして敵」と設定したいのなら、私は、オーランスがガガースより偉くて、オーランスがガガースを罰として荒野に放逐したのだという事をクラロレラ人が知っているという事実を受け入れるように強いられるだろう。それなのにオーランスはクラロレラ人に「風の子ら」が信仰する「平和の神」オーランスとして知られているということにもなる。クラロレラ人にとって、「平和の神」オーランスが「吠える神」ガガースを打ちのめすことが出来るなどというのは、彼らの信頼の感覚に無理を強いることになるではないか。君はクラロレラ人に、彼らの「光輝の国」が世界の中心ではないなどという意見を受け入れることを頼むかもしれない!ある文化がなにを知っているかについての、(単一神話主義のカルトへと速やかに人を導いてしまう)このたぐいの演繹法から逃れるために、私の論題の鍵となる点は、それぞれの文化のこの世界について教えているものの多くは、わずかの事実で、残りは理論で成り立っているということを理解することなのだ。

 私はそれぞれの文化は多少の事実を取り入れたうえで、未知の細部を教養人の推論によって補っていると考えるように提案したい。自分たちの経験から遠く離れた世界と歴史に関することについての意見は、警告すべきレベルまで信頼性を失ってしまうのだろう。通常、異なる文化同士でも、地上界のことに関しては大部分合意している―たとえば、槍に串刺しにされることが命にかかわることなどについては。しかし異界のことになってくれば、この合意事項の領域は警戒すべき程度にまで消え去ってしまうのである。


・魔術ルールのもとにあるもの
 ルーンクエストのルールによると、魔道の呪式を投射するには、呪文の成功ロールに成功しなければならないことが分かっているが、実際を使っている者がそのことについて信じている事はどのようなものだろう?平均的な(魔道師階級でない)マルキオン教徒は、呪式を「見えざる神」に対する祈祷と見なすのであり、その者は成功する率はさまざまながらそれを朗誦することができるのだろう。マルキオン教徒の魔道師は《形成[火炎]》のような呪式を「火」のルーンから力を引き出す一例と見なすのだろう。彼は《切開》のような呪式が「悪魔」の発明で、赤ん坊を食べるヴァデル人によって完成されたのだと見なすのであり―どんな犠牲を払っても避けねばならないものであると考えるのかもしれない。このことと対極となるのが、ダラ・ハッパの神学に習熟した、ルナー魔術師だろう。(訳注:ルーンクエストにおけるルナー魔術については、「グローランサの神々」を参照のこと)彼にとって、全ての魔道の呪式は、イェルム神の《太陽槍》のような祈祷による力の反対である不正な操作に過ぎないのだ。ルナー魔術師にとって、《形成[火炎]》呪式は(「金輪の踊り手」たちにエーテルAetherとして知られている存在とごっちゃにされた)プライモルト、始原的な火の神の現世的な具現を操る行為と考えるのであり、「火のルーン」が源であるとは考えないだろう。彼にとってこのルーンはユスッパ人の占星術でイェルムにあてがわれている象徴を示しているに過ぎない。《切開》呪文は彼にとって単にもう一つの呪式に過ぎず、その効果について言うことを除けば、取りたてて嫌悪すべきものではないのかもしれない。クラロレラ人とフォンリット人の考えもまた一致しないものでありそうだ。

 似たような例は他のタイプの魔術にもある。要点はある人達が用いている魔術の種類について誰もなにも知らないということではなくて、この世界がどのようなものであるかについてある程度の真相をその人達がつかんでいて、彼らの世界の他の場所に関する全てを類推するのに用いているということだ。矛盾し合う見方の存在はほとんど重要性をもたないということでもある。我々はこの法則をグローランサの魔術的な性質を説明するために拡張することができる。



*大いなる真紅の男いわく:「真実とは軍隊のようなものだ。一度きみがそれを一つか二つ呑み込むと、きみはもっと欲しがるようになる。しかしものごとの潮時には、それらはみんな同じ味がするようになりはじめる。」


・魔術的宇宙論
 あるマルキオン教徒は、「天空」が遠く離れていて、その魔術を用いるのが難しいのは、「天空」が「破壊者」ウーマスによって「大地」から引き離されたからだと言うかもしれない。ダラ・ハッパ人は「大気」がこの「二つ」を引き離したということを否定する。ダラ・ハッパ人にとって、「天空の世界」が遠く離れている理由は、「天空」がもともと純粋であり、「大地の世界」と接触することに逆らっているからであり、我々が経験する全てのことは、天空の大地の接触への抵抗の大いなる具現化に過ぎないのである。南方の蛮族どもだけが、彼らの質を下げた(彼らはオーランスと呼ぶ)シャーガーシュ神への信仰とともに、「天空」と「大地」の間に独立した元素(エレメント)が存在しているなどというたわごとを信じているのだろう。より高度な「天空の魔術」に達するために必要なものは純粋さだけなのだ。オーランス人の「灰色の賢者」たちは、ウーマス神が「天空」と「大地」を分離させたことには合意するだろうが、(彼にとって低地人たちの「火」の回りくどく分かりにくい表現に過ぎない)「天空」の、用いるのは難しい魔術という概念を把握するのには失敗するのだろう。結局のところ、ルナー人は自分の支配する民よりも古の魔道について良く分かっているように見えるのだから・・・・

 この信念について権威ある典拠が欲しいのならば、ルーンクエスト第二版のルールブック、58ページをめくること:

 「今日のグローランサでの魔術はニュートン物理学以前に行われた橋の建設の技術にとても似ている。橋は実のところ建てられはするし、それらは粗野なもので、なにが可能なのかについてのやり方は整っているけれども、その理論の大部分は読むに値しないものなのである。」


 この文章で、我々は神知者の魔術理論を覆すことができる。神知者たちは魔術を三つの種類に分類した:神性魔術、精霊魔術と魔道に。しかしこの理論の多くは簡易化なのである。たとえば、ダラ・ハッパ人の司祭の魔術は特別に建設された寺院で、明白に地上に投射される惑星の放射エネルギーから生まれる。司祭たちは神々が人格を持っているのか、それとも無生物の力に過ぎないのか無数の議論を行っているのである。魔道だろうか、それとも神性魔術なのか?


*グローランサは君が想像するかぎり願うものよりも、さらに複雑である。いつでも書かれた資料には不一致があるだろう。それを受け入れることを学ぶのだ。そうすれば君はその不一致を利用できる。

 

 東方諸島には共通する魔術の伝統があり、「夢の世界Dreamworld」とのつながりがその魔術の源であるが、この伝統も島ごとに異なる形をとる。あまり文明の発達していない島では、夢をあつかうことにたずさわる司祭は祈祷師であるということも考えられるし、一方で、ヴォルメインの南方に位置するヴァルカロー連盟は、「善き魔道士」ヴァルカローによって説かれた「見えざる神」の真実を敬い、自分たちの魔術は真っ直ぐな魔道であって正しいものであることを誓って言うだろう。精霊魔術だろうか?それとも魔道なのか?

 神知者の分類法の要点を、実際のところあいまいにしてしまうのはこのような事実である。神知者がこの分類法を適用したのは、彼らが「究極の魔術の構造」を見つけるために体系的な調査に着手するためだった。これはアリストテレスの「四大元素」から始めて、2000年間の行き当たりばったりの研究の末に現代化学の92以上の元素表に達することを希望するのに似ている。(訳注:このエッセイがRQ時代に書かれたものであることに注意すること。HWの傾向がHQでどのように変わるかはまだ未確認(2003年3月現在))

 似たような警告はエレメントやその他の全ての神知者のルーンの利用にも適用され得る。我々は皆、「大気」の元素がウーマス、最初の「嵐の神」の誕生によって生まれたことを聞きつけている。それならそれ以前に生きていた原始の人々(ムルハルツァーム皇帝や預言者マルキオンや、その他の人々)はなにを呼吸していたのか?神知者たちは「天空」が「大地」から生まれたのだと言う。それではそれ以前に「天宮の神々」は(光なしで)なにを使ってものを見ていたのか?このように神知者の体系を徐々に破壊していく断片がある。

 実のところ、我々は全ての形態の元素を知っている。「五大元素」の体系は宇宙を理解しようとする試みのなかで、最も明白な面で元素を分類しようとする努力に過ぎないのである。他の文化はものごとを違ったかたちで捉えるのかもしれない:ヴォルメイン諸島の皇室の司祭たちは元素(五行)は金、木、土、水、火であり、「天界」は金気のものであると見なしているのかもしれない。彼らは「大気」が元素のひとつであることを否定し、その中に「邪悪なるSinister」海から出た蒸気を見て取るのかもしれない。他の民は「暗黒」や「海」を同様に元素の一つでないととらえるのかも知れない。

 ドラゴンたちがとても特別なのは、彼らが(「右側」である神々と向かい合って)宇宙の「左側」の部分だからだというEWFのペテンを受け入れる人が誰もいないのなら、この理由づけもまたただの神話に過ぎない。この考えは明らかにドラゴニュートたちが左利きなのに対して、人類の大部分が右利きであるという事実に由来している。左の邪悪Sinister、ということか?(訳注:英語にはDexterで右、つまり正しい、もしくは幸運な、という意味になり、Sinisterは左、すなわち邪悪、もしくは不吉な、というふたつの意味がある。)このことを考えてみて欲しい。EWFは、その神秘的な目標追求を煽りたてるために、(輝かしい希望がグバージへと導かれたことを覚えている)伝統的な考えをもった民を、EWFが宣伝している新しい儀式に加わるように説得する必要があったのだ。しばしば非生産的になる厳罰主義Draconianの法律に頼るよりも、EWFはこの隠喩を選んだ。(我々は「右」、彼らは「左」!)民が両方の道が(推測上だが、同時代のトカゲたちに教えられたように)自分たちの精神的福祉に必要とされていると信じるようにである。EWFは今やなく、その秘密はEWFの連中が抵当金の支払いの滞納を始めた後、再び「超王」のものとなった。しかしこの「左と右」の信仰は生き残っている、なぜならこのことがドラゴニュート族の存在をオーランス人に説明するからである。(我々は「右」。彼らは「左」。このままにしておこう。)同様の理由づけは疑いもなくパマールテラの「左脚の道」の伝統の名前で存在している。

 これらの全てを語っても、(そして願わくば私ができるかぎり沢山の数の聖なる牛を生け贄として殺したことを望むが、)私は「魔術の究極の源」が何なのか分からないということを告白しておくべきだろう。グローランサが本質的に原子によって成り立っているのか、それとも単になんらかのプラトン主義的な次元における、ルーン同士の干渉によって成り立っているのか、私は知らない。私は誰がもともとの「光持ち帰りし者たち」だったのか知らない。しかしだからといって私はこれらの答えを知ることを望まない。ダラ・ハッパ人が「太陽」が「太陽停止」以前は違っていたと考えているという事実は、私が「太陽」信仰がパマールテラの「エルフ海岸Elf Coast」地域で見つけることができるか調べたいと望んでいる時にはどうでもいいことだ。文化とその魔術を発見したいと望んでいる時に私が望む全ては、その地域の歴史についての大雑把な意見と、鋭敏な美学的センス、そしてMGF(Maximum Game Fun)の原則だけである。グレッグや他の誰の手で書かれたことであっても、私は自分が適当だと思う形に歪めてしまうだろう。

 真相は何が起こったのか、私は君が叫んだのを聞きつけただろうか?私には分からない!しかしそのことなら、グローランサの大部分も同じことが言えるだろう。グローランサでは、ほんの一握りの人々や神々しか全てを知っていると主張していない。ひとりはダーゼイター神で、彼は彼自身でない全てのものが存在していないと信じている。おしまい。その他大勢のドラゴンたちはものの見方があまりにも我々のものと異なっているので、我々が理解している「真実」の概念を彼らが把握することが可能なのか訊くのはふさわしい質問である。残りはみんなブリソス人たちで、彼らは死後の生という問題について単純に間違っているために、他の問題についての彼らの権威も、ふさわしく軽蔑をもって扱われうるものなのだ。

 結論としてはこうなる:グローランサは君が想像するかぎり願うものよりも、さらに複雑である。いつでも書かれた資料には不一致があるだろう。それを受け入れることを学ぶのだ。そうすれば君はその不一致を利用できる。
 
        

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