八方美人でない随筆

「ただ生きる」ということの難しさ

 このあいだ書評したマーク・ボイルの『ぼくはお金を使わずに生きることにした』は、ひさしぶりに深く考えさせられた本である。本書のなかで著者は、もともとは便利な概念にすぎなかった「お金」というものが、モノとそれを使う人との断絶を生み出し、それが結果として地球環境の破壊を何の痛痒もなく継続させている元凶だととらえている、言い換えれば、私たちはお金という虚構を蓄積するために地球という、私たちが生きていくのに不可欠な世界そのものを消費しているという結論にいたったがゆえに、著者はいっさいのお金の授受なしで生きる実験を試みたわけだが、この考えは、じつは私のなかにずっとわだかまっていたものの、なかなか適切な言葉にできなかった「お金」に対する不信感を、かなりの部分で代弁してくれるものであった。

 私のなかに「お金」に対する執着がどれくらいあるのか、と考えたとき、じつは「ほどほどにあればそれでいい」という程度のものでしかない。たとえば、人より裕福になりたいとか、贅沢な暮らしがしたいとかいう欲望は、私のなかではさほど大きな部分を占めているわけではない。幸いなことに、私の体は今のところきわめて健康であり、最低限の衣食住が手元にあれば、どこかに閉じ込められるような環境でないかぎり、それでよしとしてしまうところが私にはある。お金と同様に、モノに対する執着も、じつはあまりない。コレクターとして何かを集めるような趣味はないし、最近は身のまわりの電化製品も少なくなってきている。テレビはないし、ステレオもない。スマホ全盛の時代に時代遅れのガラケーで満足しているし、掃除機も今では不要となっているが、それで不便だと感じることはない。

 本当に必要だと思うものにしかお金は使いたくない、という心理が自分のなかにはたらいているのは、以前からぼんやりとした感覚としてはあった。だが、それがなぜなのかということに、あまり考えを向けていなかったように思う。世のなかの、とにかく消費を強要するかのような志向性をうっとうしく感じ、また何かを購入しなければ不幸になる、といった脅しをかけてくるようなセールストークには殺意すら覚えるのだが、そうした傾向に対する漠然とした違和感を、きちんとした言葉にしてくれたのが本書だったと言える。

 もちろん、この本の著者のように極端な方向に走るつもりはないし、そもそもできるとも思っていない。著者は本書のなかで「自分には何のスキルもない」と断言しているが、そもそも彼には人々と容易に接触、交流し、そのつながりを維持していくことができるという「スキル」の達人である。何かが必要になったとき、私たちはふつうお金を使ってそれを購入するという方法をとるが、著者の場合、それをもっている人と交渉し、自分の労働力なり、自分がもっている別の何かなりと交換するという手間を意に介しないし、そのための数多くの人脈を見つけ、維持している。こういう部分は、私のなかに決定的に欠けているものだ。そもそも私は赤の他人と接触することを得意としていない。移動のためにヒッチハイクをしたり、スーパーの廃棄物として捨てられることになった食糧をゆずってくれとお願いしてまわったり、ましてやこっそりいただくといったことができるとは、どうしても思えない。もし、世のなかから「お金」の概念が失われて、著者のようなスキルがなければ生き残れないと考えると、正直戦慄するしかない。

 ただ、人々の欲望をできるかぎり喚起し、消費させようと促している今の社会のありように違和感があるのも事実だ。そして、そうした社会傾向に抗うような生き方をする人たちにこのうえない魅力を感じるのも事実である。たとえば、古川日出男の作品には、都会で野生児のように生きる女の子が登場するものがいくつかあるのだが、ある意味で街のゴミを漁って生きるカラスのようなたくましさ――それが本来の自然の姿とは言えないが、今ある環境に程よく適応し、執念深く生き延びていくその生命力に、あさましさや汚さ以上のものを感じる自分がいることを知っている。

 将来何をしたいのかとか、どんな夢があるのか、といったことを私たちは大切にする。まるで、それを胸に抱いて生きることが人間であることの証であるかのように。私にも昔はあったが、今はあまり大それた夢ややりたいことがあるかと言えば、ほとんど思いつかない。読書をして書評するという趣味はあるし、それが自分の今をつくっているという自覚もあるが、同時に自分の身体感覚をもっと大事にしたいという意欲もある。だがそれらは、お金をたくわえて何かを購入することで達成されるようなものだとは思っていないのだ。しいて言えば「ただ生きる」ことをしたい。生きるために呼吸をし、生きるために食べ、生きるために眠る――そのために必要なことをして一日の大半が過ぎていくくらいがちょうどいいのではないか、という気がして仕方がない。だが、今の社会は「ただ生きる」人々に不寛容である。「ただ生きる」という私の「夢」は、いったいどうやったら具体的な形にできるのだろうか。(2015.04.08)



「八方美人でない随筆」リスト

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旧 随 筆 リ ス ト(掲載日付順)

ディスコミュニケーションの書評――『タナトスの子供たち』考
読み手が生み出す物語――『舞踏会へ向かう三人の農夫』考
新しい世界の担い手――『希望の国のエクソダス』考
ニュータイプと新しきシャーマンの役割――『コンセント』考
物語は現実を超えるか――『三月は深き紅の淵を』考
空を目指す心――『楽園』考
ネット社会がもたらす新たな人間関係――『すべてがFになる』考
新しい言葉の生まれる可能性――『ヴァイブレータ』考
文章と時間の奇妙な関係――『グランド・ミステリー』考
先読みされる人生――『柔らかな頬』考
狂気という名の日常――『バトル・ロワイアル』考
物語の一部となった表紙イラスト――『ななつのこ』考
三人称多元描写と人間関係――『残響』考
音と想像力――『アンチノイズ』考
読書は現実逃避の手段か――『死の泉』考
方言の魅力――『春の夢』考
書評は後出しジャンケンか――『定年ゴジラ』考
信じることと疑うこと――『ウォーレスの人魚』考
自分が自分であるためのプライド――『走るジイサン』考
マイコンに託された輝かしき未来――『青猫の街』考
ホームページにおける情報操作――『破線のマリス』考
食べることの幸せ――『アンダーソン家のヨメ』考
情景描写がもたらす想像力――『妊娠カレンダー』考
RPG的クライマックス――『二重螺旋の悪魔』考
地球にとっての人間――『パワー・オフ』考
江戸の俳諧と現代の小説――『ひねくれ一茶』考

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