物語の拡散と変容――古川日出男論


1. 固有名詞に縛られない小説
2. 文字を越えていく「ことば」
3. 物語の拡散と変容
4. 書き記すこと、語り伝えること
5. 登場人物の死と再生について
6. 物語はどこへ向かうのか?



1.固有名詞に縛られない小説

 古川日出男氏の書く作品には、圧倒的に固有名詞というものが少ない。

 これは、著者の4作目にあたる『アラビアの夜の種族』に出てくる固有名詞を収集し、用語事典としてまとめたときに気づいたことであるが、あれだけの壮大な物語であるにもかかわらず、私が考えていた以上に固有名詞が出てこない、という事実は、私をずいぶん困惑させたものだ。なぜなら、用語事典とは用語を現わす言葉によって成り立つものであり、その用語が集まらなければ、それはもはや用語事典とはなりえないからである。

 言うまでもないことだが、小説というのは文字のみで世界を表現する形式のことだ。それゆえに、一度文字によって構築されてしまった物語は、けっしてその枠から逸脱することはない。だが、こと古川日出男という作家の作品については、文字で構築された物語でありながら文字による束縛を越えていくような、強烈な、あるいは原始的なイメージを内包しているように思われる。文字によって書かれる物語ではなく、ことばによって語られる物語――おそらく、著者の作品に固有名詞が少ないというのも、ある事物を「名づける」ことによって、それの持つイメージが固定されてしまうのを恐れているのではないかと思うのだ。

 著者の作品における固有名詞の排除という一性質がはっきりと出てくるのは、『沈黙』における猫の名前である。主人公となる秋山薫子が飼うことになる一匹の猫に、彼女は名前をつけない(いっぽう『13』でココ・ココが飼っている猫には「サルサ」という名前がついている)。この傾向は『アビシニアン』において、自身の名前はおろか、文字を所有すること自体を捨てる少女という形でひとつの完成を見ることになるが、そもそも何かの境界線――あるものと別のものを明確に区切るものを排除しようという傾向は、そのデビュー作『13』が持っているそもそものテーマのなかにもあったものだ。

『13』に登場する橋本響一は、左目だけ色弱をわずらった少年である。それゆえか、彼が幼少のころに書いていた絵には、物の輪郭がなく、ただ色彩の彩度と明度によってすべての表現がなされている。本書のなかにおいて、響一は普通の人には見えない「異世界」を見る者という位置づけがされているが、これは別の見方をするなら、何かと何かを区切るための境界線、本書で言うなら「輪郭」という概念に束縛されない者、ということでもある。そういう意味で、響一がザイール共和国の未開人、森の狩猟民ジョ族に家族として迎え入れられたのは、なかば必然であったと言うことができる。


2.文字を越えていく「ことば」

 私たち人間はことばをもっている。だが、ことばをコミュニケーションの道具であるとみなすなら、それはけっして人間だけの特権ではない。ことばを文字という形に置き換え、さまざまな事物に名前をつけ、区切ること――おそらく、私たち人間が今のような科学技術の発達した文明を築くことになった大きな要因のひとつが、文字の獲得にあることは間違いないだろう。文字をもつことによって人間は自分たちの世界を区切り、わからないものに名前をつけて自分たちの世界に引きずりこみ、また歴史を記録することで時間という概念をも生み出した。それは人間にとって、闇の中に光を照らし出すような作業だったに違いない。

 だが、そうした文字で物事を記すという作業は、同時に何かを選別し、切り捨てることでもある。社会が複雑化するにつれて、文字もまたより大量の、より複雑な情報を正確に記録するために発展しつづけてきたが、私たちがどれだけ高度な文字表現をもってしても、五官が受け取るすべての情報を表現することなど、しょせんは不可能なのだ。そしてそれが、文字という表現形式の限界でもある。

 文字によって表現すること、それは言ってみれば、記録するための効率を重視するがゆえの妥協の産物でしかなく、そこにはその事物が本来持っていたはずのものは、もはや存在しない。『アビシニアン』で、猫とともに生きる決意をした少女が捨ててきたのは、ことばを「文字」に変換する社会そのものであり、その象徴的意味への妥協だと言うことができる。古川日出男氏の一貫したテーマは、「文字」ではなく「ことば」――「文字」で名づけることによって固定されていた事物が、本来持っていた力を表現することである。それはあるときは、『13』のように圧倒的な色彩によって、けっして何かの形をとることのない神の現出、という形をとり、あるときは『沈黙』のように抹殺された音楽、けっして記録されることのない幻の音楽「ルコ」、という形をとり、あるときは『アビシニアン』のように文字そのものに対する焚書の刑、という形をとることになる。そして、それぞれの作品が文字の代用品として「視覚」「聴覚」「臭覚・味覚」といった、人間の五官をそれぞれ象徴しているのは、非常に興味深い。それらはすべて言語化される以前の感覚、感覚言語とも言うべきものであり、文字をもたない動物たちが特化してきた言語体系の根幹を成すものでもあるからだ。


3.物語の拡散と変容

 古川日出男氏の作品の特長として、固有名詞が少ないこと、そして人間が文字を獲得する以前にもっていた「ことば」を一貫したテーマとして持っていることは述べた。けっして名づけられないこと、文字に書かれることで固定されないこと――それは同時に、伝えようとするものの詳細が容易に変質し、また際限なく広がっていくことを意味する。それが改ざんやコピー、あるいは海賊版であるかどうかといったことは問題ではない。それは言うなれば、私たち人間が、自分の遺伝子を少しずつ変容させながら子孫に伝えていくようなものなのだ。

 そう、著者はまぎれもなく、「ことば」を生きたものだと見なしている。そして一度生まれた「ことば」の核は、まさに文字で表現されることの制約をはるかに越えて生き延びていく。『沈黙』における抹殺された音楽ルコは、娯楽のためではなく、生きるための必要不可欠な要素として生み出された、生きた音楽だった。そしてこの生き延びるための拡散と変容という要素は、『アラビアの夜の種族』においては、それ自身が英訳版「The Arabian Nightbreeds」の日本語版であるというギミックによって、本書自身もまた綿々とつづいてきた変容と拡散の壮大な歴史の一部に連なっている、という幻想を生み出すことに成功した。

 大塚英志氏は『定本 物語消費論』のなかで、人々が共同体としての「大きな物語」へのアクセスを欲している、という観点から、同人本といったサブカルチャーを論じているが、古川日出男氏が『アラビアの夜の種族』で仕掛けたギミックは、こうした「大きな物語」を強く感じさせるものがある。著者の『アラビアの夜の種族』は、けっしてそれ自体がオリジナルではなく、1世紀以上にわたる原典不明の物語の末端、いわば一部でしかない、という認識――その幻想をより確実なものとするために、本書のなかにはいくつもの「訳注」が置かれ(その傾向は、『沈黙』のなかにもすでに現われている)、あとがきでわざわざそのエピソードを載せ、あまつさえ「火縄銃」という武器に対する時代考証的な矛盾さえも示唆するという徹底ぶりを見せる。

 物語はあくまでただの物語であり、それ以上でも、それ以下でもない。物語はけっして現実を越えることはない――私たちが物語を読むときに、なかば無意識のうちに了解しているこの認識とは明らかに対極に位置するものを、古川日出男氏は物語のなかに見出そうとしている。


4.書き記すこと、語り伝えること

 物語を表現するのに「文字」に頼らないあたらな言語体系を構築すること――それこそが、それまで著者がその作品のなかで挑戦しようとしていたことであるが、『アラビアの夜の種族』では、そのためにズームルッドという語り部を登場させた。本書の大半は、この年齢不詳の女語り部の口から語られる物語によって占められているが、物語の拡散と変容という意味で、そこには2種類の方向性が示唆されている。そのひとつは、アイユーブによって書物という形に置きかえられようとしている「災厄の書」である。

 読む者を虜にし、最後には破滅させてしまうという稀代の物語集である、とアイユーブは主人であるイスマーイール・ベイに語る。「さながら魔術的な媒体の書物」と言われ、複写はおろか、翻訳されることすら厭う、世界でただ1冊しか存在しない「災厄の書」などというものは、じっさいには存在しない。それはアイユーブがズームルッドの語る物語を書き取らせることによって、まさにこの世に誕生させようとしている書物であるが、ただ1冊しかその存在を許さないとされる「災厄の書」と、ズームルッドの語りに象徴される物語の拡散と変容とは、けっして相容れないものである。

 なにより、文字によって固定されてしまうことは、そこからの発展性を自ら殺してしまうことになる。物語の拡散と変容を、あたかも生物の進化の系統樹のごとくとらえるなら、そこにあるのは進化の袋小路でしかないように思われる。だが面白いことに、書き記され、イスマーイール・ベイの元に届けられた「災厄の書」は、あたかも本物の「災厄の書」であるかのように彼を虜にしてしまった。そこには、書かれた順番が前後不覚になる、という、もう1段階の「変容」が用意されていたのである。そして当然のことながら、そこには正式なタイトルはもちろんのこと、出典も著者名も記されてはいない。ズームルッドの語りから変容した「災厄の書」は、あたかも古川日出男氏が施したギミックのごとく、生きた物語としてまさにこの世に生を受けたと言ってもいいだろう。

 もうひとつの方向性は、ズールムッドの娘である「糸杉」の存在である。口伝の物語を、同じく口伝によって別の人間へ語り伝えるという形式は、文字による物語の束縛を避ける以上、いかにもまっとうな方向性であるが、じつはこの方向性のもっとも重要なところは、それまで聞き手であったはずの人間が、今度は自らが語り手となっていく、という一種の逆転現象にこそある。こうした逆転劇は、『アビシニアン』に登場する、自身のためだけの「対話篇」を書いてきた青年が、エンマの登場によってはじめて「語り部」と化すという形ですでに見出すことのできるものであるが、それ以前の『沈黙』においても、「ルコ」の歴史を記していた11冊のノートを読み解いた薫子が、結果として自身がルコと化すといった形で表われている。


5.登場人物の死と再生について

 古川日出男氏の作品では、ある登場人物が理不尽な死を迎える、というひとつの特長がある。『13』においては、響一の親友であったジョ族のウライネが、サルの密猟者の襲撃によって射殺され、『アビシニアン』では、ある居酒屋のオーナーであるマユコさんの夫が当て逃げ犯の凶行によって殺されている。『アラビアの夜の種族』のもっとも印象的な死の場面は、「左利き族」によって育てられたファラーが、自分の中に一族の血が流れていないという事実を知ったときに引き起こした、同族殺しの場面であるが、著者はこうした陰惨な死を描くいっぽうで、その死と対になるかのような出来事を結びつけている。あたかも、その理不尽な死を経ることによって、逆にその死を乗り越えるような出来事が引き起こされるかのように。

 物語の拡散と変容が、あたかも生物の進化の系統樹のように、姿形を変えながらその種の情報を脈々と存続させつづけている、ということは前に述べた。それは、たとえばある方向の進化に突き進んでいた種が滅んだとしても、その根幹を成すものは、その拡散と変容ゆえにけっして絶えることがない、ということでもある。物語が文字による束縛から解放され、自由に拡散と変容がなされていったとき、その物語が得るものはある種の不死性であるとさえ言えるのだ。そう、それはあたかも『沈黙』において、大瀧修一郎の果たせなかった生きた音楽「ルコ」の現出を、薫子が自身の存在をもって成し遂げたかのように、有限である物質の死を超えて伝えられるものが、たしかにあることを示している。

『13』の響一は、ウライネの死によって、色彩による神の現出をさらに突き進めることになった。『アビシニアン』のマユコさんは、結果として文字非所有者であるエンマと出会うことができた。『アラビアの夜の種族』のファラーは、アーダムの魔法書を読み解くことで、アーダムの魔法書そのものとなり、またその最後に、自身の流離の生涯をサフィアーンに託すことができた。そこには常に、死と再生が混在している。それはまるで、どれだけ大規模な破壊が襲いかかっても、物語は――人間の強い想いはけっして死んだままいることはない、ということを、宣言しているかのようにも思える。

 おそらく、古川日出男氏にとっての「物語」とは、人間が純粋に生きることと同義なのだろう。人間としてその人生を歩んでいくこと、そしてあくまで有限である物質としての死を越えて、人から人へ何かを伝えていくこと――そこにはたしかに壮大なドラマがあり、それ自体がひとつの「物語」でもあるのだ。


6.物語はどこへ向かうのか?

 古川日出男氏の著作である『沈黙』と『アビシニアン』が、文庫本という形でまとめられて刊行されたとき、私ははじめてこのふたつの作品が、ある共通する場面から派生したサイドストーリーという関係で結ばれていることを、不覚にも知ることになる。そう、『沈黙』の冒頭で何気なく語られている保健所襲撃事件――公園で知り合ったある女の子のために、薫子が保健所を襲撃して彼女の飼い猫を含む多くの猫たちを、中野区の公園内に解放するという顛末を、『アビシニアン』においては、その女の子が主体となって、同じ襲撃事件について語っているのだ。そして、そのふたつの作品は文字どおり枝分かれした独立の作品であり、その後薫子と少女が関係をもつことはいっさいない。

 こうした作品のつながり、あるいは作品から作品への変容の仕方は、いかにも「生きた物語」をテーマとする古川日出男氏らしい演出である。そして『アラビアの夜の種族』において、その存在自体に壮大な物語の拡散と変容の可能性を付加した著者の5作目は、実在の作家である村上春樹氏の短編をリミックスする、という形をとった。その作品『中国行きのスロウ・ボートRMX』は雑誌「ダ・ヴィンチ」の企画から生まれたものであり、他にもいろいろな作家が村上春樹氏の作品をトリビュートしているのだが、この企画もまた「物語の拡散と変容」の一形態とみなすのであれば、著者は村上春樹氏の短編を、まさに自分なりの『中国行きのスロウ・ボート』として再構築することに成功したと言うことができるだろう。

 物語がたんなる物語を越えていくための拡散と変容――文字という束縛にとらえられながらも、なおそこから無限に広がり、現実そのものに影響を及ぼしていく「生きた物語」の可能性を、古川日出男氏は今もなお追求しつづけている。


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