八 方 美 人 な 読 書 日 記
−書評300冊記念&休暇中イベント−

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8月分の日記

8月8日(水)

 今日で仕事のほうも一段落つき、明日から夏季休暇に入る。

 私は明日から実家のほうで過ごす予定となっており、夏季休暇が終わる8月15日をもって休暇からの復帰を宣言するつもりなので、実質、これが最後の「読書日記」更新となるだろう。

 いろいろなサイトを訪問するたびに、何らかの形で「日記」というコンテンツがあるのを見るにつけ、じつはよくみんな「日記」を続けることができるものだなあ、と感心していた。それは、私自身が仮に日記をはじめたとしても、すぐにネタにつきてしまうに違いない、という、あまり嬉しくない見通しがあり、また書評の更新やリクエストされた本を読むといったことで精一杯だろう、という予測があったからに他ならない。

 ちょっと思うところがあって書評更新を一時休業しようと決意して、はじめて「日記」なるものに手をつけることができたのだが、それも「読書日記」だからこそ続けることができたのであって、そうでなければこれほど長い間、日記を更新しつづけることはできなかったに違いない、と今でも思っている。

 ちなみに、今日読了した小野不由美の『東の海神 西の滄海』も含め、休暇中に読んだ本を羅列すると、以下のようになる。

『グインサーガ54 紅玉宮の惨劇』(栗本薫)
『赤と黒』(スタンダール)
『グインサーガ55 ゴーラの一番長い日』(栗本薫)
『大いなる遺産』(ディケンズ)
『チョコレート工場の秘密』(ロアルド・ダール)
『続 1年1組せんせいあのね』(鹿島和夫編)
『チーズはどこへ消えた?』(スペンサー・ジョンソン)
『吾輩は猫である』(夏目漱石)
『「作家の値うち」の使い方』(福田和也)
『グインサーガ56 野望の序曲』(栗本薫)
『グインサーガ外伝10 幽霊島の戦士』(栗本薫)
『ダーティーペアの大冒険』(高千穂遙)
『バターはどこへ溶けた?』
『インド夜想曲』(アントニオ・タブッキ)
『アンナ・カレーニナ』(トルストイ)
『星界の紋章T 帝国の王女』(森岡浩之)
『フロン』(岡田斗司夫)
『グインサーガ外伝11 フェラーラの魔女』(栗本薫)
『天使の憂鬱−ダーティペアフラッシュ1』(高千穂遙)
『星の王子さま』(サン・テグジュペリ)
『グインサーガ57 ヤーンの星の下に』(栗本薫)
『いちご同盟』(三田誠広)
『映画少年・淀川長治』
『星界の紋章U ささやかな戦い』(森岡浩之)
『グレート・ギャツビー』(フィツジェラルド)
『月の影 影の海』(小野不由美)
『老人と海』(ヘミングウェイ)
『グインサーガ58 運命のマルガ』(栗本薫)
『車輪の下』(ヘルマン・ヘッセ)
『狭き門』(アンドレ・ジイド)
『風の大陸第8部 天命の大地』(竹河聖)
『グインサーガ59 覇王の道』(栗本薫)
『グインサーガ外伝12 魔王の国の戦士』(栗本薫)
『探偵小説論T 氾濫の形式』(笠井潔)
『阿Q正伝・狂人日記』(魯迅)
『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー)
『風の海 迷宮の岸』(小野不由美)
『星界の紋章V 異郷への帰還』(森岡浩之)
『ドリトル先生アフリカ行き』(ヒュー・ロフティング)
『グインサーガ60 ガラムの報酬』(栗本薫)
『クレヨン王国の十二か月』(福永令三)
『ブギーポップ・パラドックス ハートレス・レッド』(上遠野浩平)
『グインサーガ外伝13 鬼面の塔』(栗本薫)
『五体不満足[完全版]』(乙武洋匡)
『グインサーガ61 赤い激流』(栗本薫)
『グインサーガ外伝14 夢魔の四つの扉』(栗本薫)
『夏の砦』(辻邦生)
『点子ちゃんとアントン』(エーリヒ・ケストナー)
『グインサーガ62 ユラニア最後の日』(栗本薫)
『グインサーガ外伝15 ホータン最後の戦い』(栗本薫)
『自負と偏見』(オースティン)
『ファイアボール・ブルース』(桐野夏生)
『精霊の守り人』(上橋菜穂子)
『激読卍固め』(安原顕)
『異邦人』(カミュ)
『デッド・ゾーン』(スティーヴン・キング)
『グインサーガ63 時の潮』(栗本薫)
『グインサーガ64 ゴーラの僭王』(栗本薫)
『グインサーガ65 鷹とイリス』(栗本薫)
『ドン・キホーテの「論争」』(笙野頼子)
『日本の「文学」を考える』(鈴木貞美)
『グインサーガ66 黒太子の秘密』(栗本薫)
『グインサーガ67 風の挽歌』(栗本薫)
『東の海神 西の滄海』(小野不由美)

 計64冊。書評をしていた頃は1ヶ月に8〜10冊であることを考えると、倍以上本をとりあえず読みこなしたことになる。なんか我ながら「よく読んだな〜」と思わずにはいられない(笑)。

8月6日(月)

 そもそも「純文学」とは何なのか、という命題が気になって、あるいはこれを読めばわかるかも、ということで鈴木貞美の、そのものズバリ『日本の「文学」を考える』を読んでみる。

 どちらかというと、「純文学」をはじめとする言葉がそれまで辿って来た変遷を読み解く文学史に近いものがあるが、これを読むと、今では立派な文学作品だと思われていたものが、当時は文壇には歯牙にもかけられない凡作だった、という例がいくらでも出てきたり、「純文学」という言葉もその時代時代によって担われてきた役割に違いがあったりしたことがよくわかってくる。
 あるいは、こうした論争や再認識、再定義の歴史こそが「文学」というものなのではないか、という気さえしてくる。

『グインサーガ66 黒太子の秘密』『グインサーガ67 風の挽歌』を読了。やっとグインが本編に復帰。そして「煙とパイプ亭」での一件に涙。

8月4日(土)

 笙野頼子が「純文学擁護」の立場で論争を巻き起こしている、という話は以前から聞いていたことだったが、それがどういうものなのかが気になって、『ドン・キホーテの「論争」』というエッセイを読んでみる。

 まだ全部を読んだわけではないのだが、ひとつ思ったのは、笙野頼子が小説家だけあって、「言葉」というものをいかに重視しているか、ということだった。彼女が怒っているのは、たとえば「純文学」の意味についてまともに考えもせず、ただイメージだけをとらえて「純文学はダメだ」と煽り立てるマスコミの態度であるのだが、安易な言葉の利用、という点では私自身にも身に覚えのあることでもあって、痛い自覚だと言わざるを得ない。

 私も一応、出版業界に身を置く身であるゆえに、今の出版不況にはけっして無関係ではいられないし、「書物は文化だ」と声を張り上げながらも実際には「売れる本」ばかりを追い求める「売上至上」の文学論が目立つのは私も感じていたところだが(それはこのインターネットの世界でもけっして例外ではなく、やはりマスコミで注目されている作品、ことにミステリー関係の本紹介や感想が多いのは、メールマガジン「読書の素」を見てもわかることだ)、ではあらためて「純文学とは何か」と問われたとき、はたしてどのように答えればいいのだろうか。
 おそらく、笙野頼子は誰よりもそのことを考えている人なのだろう。そしてそこには、大衆文学と迎合するようなものではなく、また「純文学」という至上の、しかし古臭いイメージがあるというものでもなく、まさに言葉に挑戦し、世界と戦うため、そしてそのなかでたしかに自分というものを確立するための「純文学」という形があるように思える。そして、その形はけっしてカチカチのものではなく、柔軟に変化していくものだという捉え方も。

 私はもともと「物語性」のある小説が好きである。そういう意味では私もまたただの大衆のひとりに過ぎないと思っているが、「売れないから駄作」という、およそ出版業界にはもっとも似合わない考え方がこれほど浸透してきている、という危機感を本書を読んで感じた。読んで自分の存在に、世界そのものに危機感を抱かせる、不安を与えるようなものが「純文学」だ、という漠然とした考えが私にはあるが、それはあるいは「こんな形の小説もあるのだ!」という驚き、衝撃を与えるようなものも含まれるのだろうと思う。ただ、その驚きを正面から受け止めるか、抹殺してしまうかは、読み手の問題ということなのだろう。
 そして私たち読者は、そうした新しい方向性に対してちゃんと評価できるだけのものを、本当は持つべきなのだろう。文学に関する正しい知識というものが、読者の間にもっと浸透すれば、笙野頼子の怒りや不安といったものも、あるいは変わっていくのではないだろうか。

8月3日(金)

 私が愛用しているパソコンはNECだ。

 NECというと、PC−9801シリーズでパソコン業界ではほぼ独走状態のシェアを誇っていた超有名企業であったが、OSとしてMS−DOSが主流になりだしたあたりから徐々に他の企業に押されて、今ではすっかり首位の座を明け渡してしまった感がある。
 だが、私がインターネットというものが思いのほか面白いことに気づいてから、自分のパソコンを買おうと決心したとき、けっきょくNECのVALUESTAR−NXにしたのは、この企業のパソコンと小学生のときから付き合っていたよしみと言う他にない。

 そう、私の家には、古くからパソコン(当時は「マイコン」と呼ばれていた)があったのだ。そのときに買ったパソコンは、NECのPC−6001mk2。「しゃべるパソコン」が売りで、私も兄もせっせとプログラム言語のBASICを覚え、なんとかパソコンを使いこなそうとしたり、ゲームで遊んだりしていたのを思い出す。両親も、当時ずいぶん高価だったであろうパソコンを、よく買い与えたものだと思う。

 私はそれ以降、あまりパソコンにこだわることはなくなったが、兄のほうは凝り出して、その後も何台かパソコンを買っていたような気がする。たまに兄の部屋に呼ばれてゲームをさせてもらったとき、はじめて8インチのフロッピーディスクを見て、その処理速度の速さに唖然としたものだ。当時の私が知っていた補助記憶装置といえば、カセットテープがあたり前だったのだ。

 あれから時は経ち、今のパソコンの処理能力を考えると、当時では及びもしなかったいろいろなことができるのだろう、と思うのだが、パソコンのゲームはもっぱらH系のものばかりが目立ち、専用ゲーム機のゲームもグラフィックは綺麗なのに、以前ほど面白いと感じるような何かに欠けるようなものが多いように思えてならない。まだCPUの処理能力が低い頃のほうが、頭をひねって面白いゲームを作ろうという意欲があったのではないだろうか。

『グインサーガ63 時の潮』『グインサーガ64 ゴーラの僭王』『グインサーガ65 鷹とイリス』を読了。休暇終了までに最新刊に辿りつけるか?

8月2日(木)

 鼻毛を引っこ抜くと、なんでくしゃみが出るのかなあ、などという、どうでもいいことをぼんやり考えていたりする。暑さのせいかもしれない。

 スティーブン・キングの『デッド・ゾーン』を読み始める。交通事故で4年半も昏睡状態にいたジョンが目覚めたときに、身につけていた奇跡の力――それは、手を触れるだけで未来を予言したり、なくし物を見つけたりする能力だった。
 スティーブン・キングというと『スタンド・バイ・ミー』とか傑作を多く出している作家だが、まだ小説のほうは一度も読んだことなかったので、これを気に読んでみた。ホラー作家という印象が強かったが、本書に関してはそうした要素はあまり見当たらないようだ。それとも、これからか? 主人公が辿る運命がどのようなものなのか、とても気になるところだが……。



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