八 方 美 人 な 読 書 日 記
−書評300冊記念&休暇中イベント−

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7月分の日記

7月31日(火)

 カミュの『異邦人』を読了。以前から「不条理小説」という名で知られていた作品ではあったが、内容はひとりの青年の唐突な殺人と、そんな彼に対する死刑宣告、というもの。
 本書が不条理たるゆえんは、主人公ムルソーが母の死の翌日に恋人と海水浴に行って夜の営みをおこない、映画を観て笑い、そして人を殺す、というその行動にまったく論理性が欠けているからにほかならないが、それはともかくとして、「太陽」についての描写が多いのに、こんなにも暗い小説を書くことができるのだと、ふと思う。

 【更新のお知らせ】
   『月の影 影の海』(小野不由美著 講談社)の書評を追加。どうしても気になっていたことをまとめてみました。

7月30日(月)

 7月25日の日記で珍しく私が非難した安原顕が、どんな価値観を持っているのか気になって、彼の著作に目を通してみる。

 とはいうものの、某J堂でかろうじて見つけた安原顕の著作は『激読卍固め』と『編集者の仕事』という本の二冊だけで、bk−1の検索でヒットする著作数からすると、ずいぶん少ないなあ、と思ったものの、著者はジャズ論なども書いているので、あるいは別の棚にはあるのかもしれない。

 それで、ひとつだけわかったのは、安原顕は怒ることができる人だということ。
 怒りの感情は、知っている人は知っていると思うが、そうそう長く続くものではない。彼はともかく怒っている。それは、日本という国そのものであり、日本の政治であり、犯罪を犯す少年であり、そして日本国民そのものだ。怒ることができるのは、怒ることができるだけの情報に敏感だということであり、何に対して怒ればいいのかすらわからなくなっている日本の多くの人々と比較したとき、その態度はたしかにひとつの才能であり、ひとつの覚悟である。しかし、彼の怒りを「熱い」と言うのは簡単だが、その熱さ、情熱は、たとえば丸山健二が抱いている「熱さ」とは似て異なるもののような気がするし、そもそも「辛口」であることと「過激」であることとはあきらかに違うものだ。

『激読卍固め』では、何気に鈴木光司の『ループ』を大絶賛しているので、あるいはスケールの大きな実験的小説が好きなのかもしれない、と思うのだが、そのわりに瀬名秀明の『八月の博物館』の批判の仕方は尋常ではないし、判断材料がまだ少ない、というのが正直なところだ。
 素晴らしいと思った作品に対しては、わりとしっかり書評しているのに、けなすときにかぎって、最近怒っていることをひきあいに出したのち、たんにストーリーをうわべだけかじって「こりゃだめだ」で締める、というものが多いのも気になる。月に35冊もの本を読み、書評を書きなぐっている者の宿命なのか?

7月29日(

 上橋菜穂子『精霊の守り人』を読了。人間たちが住まう世界・サグと、精霊たちが住まう世界・ナユグを越えて行なわれる、百年に一度の「卵」をめぐる古代ファンタジー。

 なんといっても女用心棒バルサの存在が秀逸。強くて賢く、しかし心優しくてどこか寂しさを漂わせる女戦士と、新ヨゴ皇国の第二皇子で、ナユグの「卵」を産みつけられたがゆえに皇帝の刺客と、ナユグの怪物とに命を狙われるはめになったチャグムとが、次第に心を通わせ、そして何よりチャグムの成長ばかりでなく、バルサ自身の成長をも描いているところが、ストーリー的に素晴らしいところ。
 人間こそがこの世界の支配者であることを象徴するかのような新ヨゴ皇国の政と、精霊たちの世界との交流、しいては世界そのものとの調和を第一に考えて生きてきた先住民族ヤクーの生活との対比も興味深い。

7月28日(土)

 恵比寿ガーデンシネマで上映されている映画『点子ちゃんとアントン』を観る。

 8/10までの上映、ということなので、あまり人もいないだろう、という思惑だったのだが、どうももう一方の「ゴーストワールド」のほうが今日封切り、ということで、意外と人が多かった。
 映画のほうは原作の『点子ちゃんとアントン』を現代版にアレンジしたような感じで、点子ちゃんの破天荒な空想癖はなりをひそめ、どちらかというとアントンとの友情をメインに持ってきている作品となっていた。

 それにしても「恵比寿ガーデンシネマ」、他の映画館とは異なり、ずいぶん個性的な映画をセレクトしているのが印象的だった。「A.I.」だ「猿の惑星」だという、今注目の映画にけっして影響されることのない映画館――ああいう映画館があるというのは、嬉しいことである。

7月27日(金)

 桐野夏生の『ファイアボール・ブルース』を読了する。女子プロレスの弱小団体のなかで、ショーとしてのプロレスではなく「勝つためのプロレス」というスタイルをとりつづけている火渡選手がひときわ輝いていた。まさに孤高を歩む格闘家である。
「あとがき」によると、この火渡選手のモデルになったのは、あの神取忍選手だという。神取忍といえば、女性であるにもかかわらず「ミスター女子プロレス」の異名を持つプロレスラーだ。よくよく考えてみれば、常に強い女性――女性としての自分ではなく、性を超越したところにある「まぎれもない自分」を得たいと強く願う女性を描きつづけてきた著者にとって、女子プロレスの世界はまさにうってつけの材料だったのかもしれない。

7月26日(木)

 今日の関東地方は、過ごしやすい天気で救われた気分である。

 オースティン『自負と偏見』を読み始める。タイトルだけを見たときは、ずいぶんカタそうな雰囲気があったが、そこにあったのは、女性たちの恋愛に関するしたたかな考え方だった……。
 はたしてエリザベスが誰と結ばれることになるのか、気になるところか。それにしてもベネット家の娘って、5人姉妹なんですね。ジェーン、エリザベス、メアリー、キャサリン、リディア――『若草物語』より多い(笑)。

7月25日(水)

 何気に「bk1」の本検索で、瀬名秀明の『八月の博物館』を検索したところ、書評家の安原顕がクソミソに本書のことをこきおろしていた。

 曰く「あまりの愚作に、またしても呆れた」「悪いことは言わないのでさっさと筆を折り、研究者の道を歩いた方がいい」「このような愚作でも、そこそこ売れているというのだから日本は作者、編集者、版元、マスコミ、読者とも、みなどうかしているのではないか」……この人は、本書をここまでけなすことで、いったい何が言いたかったのか、理解に苦しむ。

 よしんば、それが「現代の文学の低迷に対する心の怒り」を表わしているのだとしても、あくまで言葉だけが唯一のコミュニケーションの手段として成り立っているネットの世界では、その想いはけっして伝わらないだろう。かりにもプロであるなら、けなすにしてもどこがどう悪いのか、どのような修正をすべきなのか、自分なりの意見をちゃんと示すべきではないか。

 ただけなすだけ、ただ褒めるだけなら、誰にでもできるのだ。

『グインサーガ62 ユラニア最後の日』と『グインサーガ外伝15 ホータン最後の戦い』を読了。本編からはずれたグインのシルヴィア救出の旅がようやく終了。これで本編だけに力を入れることができる(笑)。

 【更新のお知らせ】『夏の砦』(辻邦生著 文藝春秋)の書評を追加。ちょうど1ヶ月ぶりの書評です。

7月24日(火)

 エーリヒ・ケストナーの『点子ちゃんとアントン』を読了。こんな面白い児童書もあるのか、と驚く。

 語り口がえらく軽くて(「ヒュウと口ぶえをふいたね!」etc)読みやすい、というのは訳者の功績だとしても、お金持ちの娘でありながら、そんな枠を軽々と越えてしまう、空想ぐせの強くて破天荒な点子ちゃんの、笑いを誘わずにはいられない行動や、貧乏でありながらも誇り高く生きる、ちょっと自尊心が強いアントンとの交流など、いかにも子供たちが喜びそうな物語だと感じる。

 各章の最後に「立ち止まって考えたこと」と題をつけて出てくる著者自身も、どこかの幼児番組に出てくる「おにいさん」を思わせるようなキャラクターを演出していて楽しい。

7月23日(月)

 そして、書評の下書きを愛用のノートに記入。だいたいこんな感じになる。  
 


自分でもずいぶんこまかい文字を書くなあ、と実感。ここでは全体の流れをおおまかに把握することが目的で、清書はパソコンに打ち込むときに行なうのが普通。

 ときにはパソコンのワープロソフト(私はWordを使ってます)に直接書きこむ、ということもあるが、たいていは手書きの下書きを経て清書をする。読書系サイト運営者は、書評や感想を書くとき、どうしているのだろうか?

7月22日(

 つい先程、辻邦生の『夏の砦』を読了。書評をすることを前提で本を読むと、たいていの本が下のような、人呼んで「剣山状態」となる。
 
 登場人物のフルネームがあるところ、場所や時代の情報、うまい描写のところ、ここは重要だ、と思うところなど、のべつまくなしに付箋を貼りまくる。読み返すときの目印にもなるので、なかなかに重宝している。ちなみに、付箋の色はとくに関係ないです。

 しかし……『夏の砦』、ちょっと私にとっては痛いかも。本書には芸術性と実用性との関係について述べた箇所があるのだが、織物工芸にたずさわる支倉冬子が創作活動に不調のまま、こんなことを口走ったりすると、私としてはえらく動揺してしまうのだ。

 私には、今こそ、なぜ自分が制作力をうしなったか、よく理解できる。私は誰も愛することができず、愛しもしなかった。だが愛するという心情の火がなくて、作品をつくりあげるなどということが可能だろうか。

7月20日(金)

 いつのまにかというか、第125回芥川賞、直木賞が決定していた。
 芥川賞は玄侑宗久の『中陰の花』、直木賞は藤田宜永の『愛の領分』。今回は知らない作家ばかりだ。いったいどんな作品を書く人たちなのか、毎度のことながら気になるものの、実は前回受賞作品も読んでなかったりする。

 芥川賞は阿部和重がとるかなあ、と思っていたのだが……。直木賞候補には田口ランディ、真保裕一、東野圭吾などいたのだが……。

『グインサーガ61 赤い激流』と『グインサーガ外伝14 夢魔の四つの扉』を読了。あと、ひさしぶりに書評を手がけようと、辻邦生の『夏の砦』を読み始める。とてもしっかりとイメージができる、視覚だけでなく聴覚や嗅覚にも訴える描写のできる人だなあ、というのが、とりあえずの感想。

7月18日(水)

 ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』を読了する。正直言って、ここまですごい作品とは思わなかった。時間をかけて読むだけの値打ちは充分にあった。

 傲慢で卑劣漢であるフョードルの三人の息子――何ひとつ父親らしい愛を受けることなく育った三人の息子のうち、長男ドミートリイは非常に粗暴でありながら、こと女性への愛に関しては高潔な情熱を抱きつづける男として、次男イワンは非常な才知に恵まれながら冷徹な無神論を貫く男として、そして三男アリョーシャは敬虔で謙虚な修道僧として育った。さらにフョードルの私生児ではないかと噂されるスメルジャコフが加わって、ひとつの悲劇――フョードルの殺人――が起こり、その犯人としてドミートリイが逮捕され、裁判を受けることになる……。
 これが本書のおおまかなあらすじであるが、はたして犯人は本当にドミートリイなのか、それとも犯行当時、癲癇で深い眠りにあったスメルジャコフなのか、というミステリー的な面白さ、裁判での検事と弁護士との息詰まる心理戦の面白さ、さらには親子関係の問題や、イワンとアリョーシャとの対話で語られる宗教の問題、ドミートリイをめぐるふたりの女性の対立や、貧しい農民であるスネギリョフの息子イリューシャとアリョーシャとの交流の様子など、じつにいろいろな要素が深く掘り下げられて描かれている。本書の感想を語りきるのは、おそらく不可能に近い。とにかく読んでほしい、としか言えないだろうなあ、と思う。

 これまでいろいろな古典文学を読んできたが、ドストエフスキーという作家に関しては、そのなかでもとくに群を抜いた存在だと言えるかもしれない。

7月16日(月)

 今更ながら、乙武洋匡『五体不満足[完全版]』を読了する。

 この講談社文庫版の『五体不満足』には、第4章があらたに追加されていて、そこには社会人時代の著者、つまり『五体不満足』によって「タレント」という立場に立たされた彼の苦悩が少なからず書かれていた。

 それまでの1〜3章のなかに、身障者であることの苦悩といったものは、ほとんど書かれていない。あるいは、そうしたものはあえて書かないようにしたのかもしれないが、本質的に著者はいたって幸福な環境、友人関係に恵まれたひとりの、あたりまえの人間としての自分を素直に描いたのだろうと思う。
 しかし、『五体不満足』を書いたことで、著者は良くも悪くも「タレント」としての苦悩に立たされることになった。なんという皮肉だろうと思わざるを得ない。著者は自分の身体的特徴について不幸だと感じたことはないのかもしれないが、『五体不満足』の著者としてマスメディアの目にさらされたことを、不幸とまでは言わないものの、少なからず負担に感じているのだ。
 佐野眞一の『だれが「本」を殺すのか』のなかで、著者を掘り出した編集者のインタビューがあったが、そこで彼は、著者を有名にしてしまったことに対する後悔に近い想いを吐露していた。そして本書のなかでも、著者は「もしできるなら、時間を『五体不満足』執筆以前に巻き戻したい」と書いている。

 乙武洋匡は、ちょうど私が大学を卒業したその年に、同じ大学に入学している。そして今――おそらく彼は、『五体不満足』の乙武洋匡、というネームバリューから脱け出すために戦っている。この「完全版」と銘打たれた本書には、そんな決意があるように思える。

7月15日(

 小説を書くという行為について考えるとき、きまって思い出すのは、私にとっての「走る」という行為だ。
 年に何度か、心の中に何かもやもやした黒い感情が高まって、どうにもならなくなることがあった。そんなとき、私はおもむろに真夜中の公園を走ったものだった。やむにやまれぬ衝撃のままに、走る。走って、走って、苦しくなって、気がつくと、「負けてたまるか」と叫んでいる自分がいる。

 でも、いったい何に「負けてたまるか」なのか。

 世の中に対してなのか、特定の誰かなのか、それとも自分自身に対してか……。ともかく、心の中のもやもやしたものを燃料にして、酷使される肉体をどこまで凌駕できるのかをためすかのように、走りつづける自分がいる。

 だが、そうした感情は、けっして長くは続かない。いつか必ず疲れ果て、足が止まってしまう。それで、何がどうなる、というわけでもない。でも、おもむろに走り出して、疲れきって足を止めて……そしていつも思うのだ。「なんで走るんだろう」、と。
 私のなかにある、「走る」ことへの衝撃――小説家というのは、もしかしたらその衝撃を「小説を書く」ことに向けることができる人間なのかもしれないと、真夜中の公園をとぼとぼと歩きながら、ふとそんなことを考えた。

 というのが、今から数年前の私。

 今はもっぱら、「走り終えたあとのビール」のために走ってます(笑)。ああ、年取るって……。

7月14日(土)

 何気に『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』が発売されていたので、とりあえず「著者紹介」の写真だけ確認してみた。
 あるサイトの掲示板で、1巻と2巻とで、著者紹介の写真がずいぶん違っている、という話題があったので、第3巻ではどんなにゴージャスになっているか楽しみだったのだが、以前と同じだった……。

 というか、ちゃんと内容のほうも読まないとなあ……。

『グインサーガ外伝13 鬼面の塔』を読了。なんか、話がだんだんデカくなってきているのだが、広げられた風呂敷をちゃんと畳むことができるのだろうか……。

7月13日(金)

 





 書評を書くときに、まず下書き用として持ち歩いている手帳。かなりボロボロ……(笑)
 この手帳、じつは高校になったときに、あの「進研ゼミ」の付録としてもらったものなのだが、まさかその後、10年以上も使うことになるとは思いもしなかった。

 紙を止める金具のところも、一度は本体から剥がれてしまったのだが、アロンアルファでくっつけたりして、なんとか使ってます。「新しいのを買えばいいじゃん」って自分でも思うけど、長年使い慣れているものだけに、なかなか手放せなくなっています。

 上遠野浩平『ブギーポップ・パラドックス ハートレス・レッド』読了。ひさしぶりというか、霧間凪が活躍する話。あいかわらず、シリーズのいろいろなところで話が繋がっている……。

7月12日(木)

 スターバックスコーヒーは、なぜにあんなに人気があるのか。
 一度、新宿南口にあるスタバにも行ってみたが、店内はとっくの昔に満席で、客がその周辺にまで溢れかえっていたことがあった。一緒に行った友人の話では、それが普通のことであるらしい。

 5/1にできた大宮駅内のスタバには、私が前々から気になっている「ふかふかソファ」があるのだが、今に到るまで座れたためしがない。
どうやら、開店直後にでも行かなければ、どうしようもないようだ。

 スターバックスコーヒーの、あの「ふかふかソファ」に腰掛けて、こころゆくまで読書する――それが私の当面の夢だったりする。

  【更新のお知らせ】 というか、「easy search」のサイト内検索システムを導入。多少の不満もあるけど、まあ無料ということで、このあたりで手を打つことにする。オーダーメイドへの道は遠い……。

7月11日(水)

 今日、会社からの帰り道に、とうとうセミの鳴き声を聞いてしまった。
 いよいよ本格的な夏のはじまりを、否応なく意識させられる一瞬だった。

 福永令三『クレヨン王国の十二か月』を読了。電車が走っていたり、テレビがあったり、こいのぼりがはためいていたり、節分があったり――現実世界を意識させるアイテムが数多く登場するにもかかわらず、それでもやはり「ここではない」ファンタジー世界を思わせるクレヨン王国の設定は、まさに現代の児童書なんだなあと実感する。王妃の12の悪い癖がなおっていく過程もうまい。

7月10日(火)

 新しいウルトラマンシリーズがはじまった、ということで、ビデオに録画していた「ウルトラマンコスモス」を今日になって観てみた。

「やさしさ」と「強さ」の二面性を持つヒーロー ――けっして相手を殺傷しない「ルナモード(青)」と、容赦なく相手を叩きのめす「コロナモード(赤)」のモードチェンジで戦う、というコンセプトはいいとして、なぜに「コスモス」?

 最初、あの花を思いだしちゃったよ(笑)

 昔からウルトラマンシリーズにつけられる名前は、基本が3文字(例:セブン、エース、タロウ、ゼアス、ティガ、ダイナ、ガイアetc)だった。よほど変則的なものを除いて、4文字というのは今回がはじめてではないだろうか。だから語呂からしてちょっと変だ。

 いや、それよりも番組の内容。劇場版「ウルトラマンコスモス ファーストコンタクト」を観なければ話が繋がらない、という構成は、夏休みになった子どもたち(そしてそんな子どもにせがまれる大人たち)をなんとか映画館にひっぱってきて、稼ぎを出そうという意図がミエミエだぞ。
 まあ、ずっとテレビ放送しておいて、完結編だけは映画(しかも2回にわけて)、という某アニメよりはマシか……。

『グインサーガ60 ガラムの報酬』を読了。とうとうアリストートスが……。

7月8日(

 最近、休日になるとよくやるのが昼寝。

 たまの休みなんだからいろいろやりたいとは思うものの、普段のクセで早く起きてしまうと必ずその反動が午後にやってきたりする。早起きも程度もの、ということか。

  森岡浩之『星界の紋章V 異郷への帰還』を読了。とりあえずこれで完結らしい。スペオペにふさわしいハッピーエンド。

 ヒュー・ロフティング『ドリトル先生アフリカ行き』も読了。登場する動物たちがみんなそれぞれ個性を持っているのにも驚きだが、それ以上に井伏鱒二が翻訳をつとめていることのほうが驚きかもしれない。
 ところで、本書に登場する不思議な動物「オシツオサセツ」だが、もとはどんな表現だったのだろうか?

7月7日(土)

 軽井沢でレンタサイクルを乗りまわしていたためか、ちょっと体が疲れ気味。
 あと、日焼けしたところがかゆい。

 ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』を読み始める。掲示板でも同じ意見があったが、ドストエフスキーの描くロシア人って、よくしゃべる(笑)。
 俗物の女たらし、自分自身にまで平気で嘘をついてまで道化を演じつつける悪漢、フョードルの三人の息子たち――呪われしカラマーゾフの血は、彼らにどのような結末をもたらすのか? というのが梗概らしいが、なんというか、これほど徹底して「悪人」を書ききっている小説も珍しい。作家というものは、えてして自分の「理想」を描きがちなものなのに。

 小野不由美の『風の海 迷宮の岸』は読了。「十二国記」の第二作、ということだが、前作『月の影 影の海』とはまったく別の話。蓬莱で人間として育てられた泰麒が主人公、ということで、ぜんぜん麒麟らしくない自分に恥ずかしさと苛立ちを覚えつつ……という話なのだが、ひとつだけ気になるのは、本書に登場する景麒は、前作の景麒と同一人物なのか、ということ。時間の経過がいまいちはっきりしない。

7月6日(金)

 有給休暇をとって、軽井沢へ日帰り旅行に出かける。
 目的は、文学ゆかりの地を散策すること。

「軽井沢高原文庫」と「軽井沢絵本の森美術館」が最大の目的だったが、時間があったので「エルツおもちゃ博物館」にも立ち寄り、「芭蕉句碑」や「室生犀星文学碑」、「旧三笠ホテル」にも足を伸ばしたが、やはり一番印象深かったのは、「軽井沢高原文庫」である。

「軽井沢高原文庫」はこじんまりとした静かな場所で、奥には堀辰雄が過ごしたという別荘が残っていた。平日のせいか、人がひとりもいなくて、まるで当時にタイムスリップしたかのような気分を味わった。
 資料として面白かったのは、まずは昭和47年5月の「アサヒグラフ」。「軽井沢の川端康成」という特集が組まれていて、散髪をしたりアメをしゃぶったりしている川端康成の写真が紹介されていた。もうひとつは映画「大怪獣モスラ」のパンフレット。この映画の原作「発光妖精とモスラ」は中村眞一郎、福永武彦、堀田善衛(この名前は初耳)の共作で、1961年の「週刊朝日別冊」掲載されていたらしい。

 あとは、戦後間もなくに創刊された文芸誌「高原」の存在だろうか。戦争で浅間山麓の疎開していた文学者たちが多く寄稿していた文芸誌で、室生犀星、佐藤春夫といった作家がここからデビューした、ということだ。

 余談ながら、「旧三笠ホテル」には、堀辰雄を死んだときに室生犀星が書いたと言われる弔辞の草稿が展示されていた。

 それで、あとはうまいものを食って、軽井沢高原の地ビールを飲み、ほろよい気分で帰ってきたところ、最後の最後に突然の夕立に見舞われてしまった次第である。

7月5日(木)

 今日は私の誕生日だったりする。

 こうして自分のホームページを持つようになって、いろいろな人たちと交流ができるようになったが、同じようにホームページを持っている方で、私と同じ7月5日が誕生日、という人たちを私は数人知っている。
 彼らは自分の誕生日、という事実を、こうしたウェブ上の日記にどう書き表わしているのだろうか。とても気になるところではある。

 思えば、去年の今日は、「誕生日だからおおいに祝うがよい!」などとサイトのトップページに載せたような気がする。というのも、この時期、中学から大学にいたるまで、ず〜〜〜〜〜〜っと期末試験当日と重なって、ろくに誕生日を祝うヒマもなかった、という記憶が脳裏にこびりついていたりするからだ。
 それにしても、これで28年も生きたことになるんだなー、などとしみじみ思います。そして三十路のタイムリミットもあとわずか……(笑)

 魯迅の『阿Q正伝・狂人日記』を読了。岩波文庫の短編集(原題は「吶喊」で、開戦に両軍の兵士が雄たけびを上げることを意味する)。大きなテーマは、無教養な人たちの理不尽な死を、なかば滑稽さも取り入れて描くことだと思うが、とくに『阿Q正伝』の主人公阿Qのキャラクターの濃さは一読に値すると実感する。喧嘩で負けても妙な屁理屈をつけて、自分が勝ったことにしてしまう阿Qの姿は、たしかにユーモラスではあるが、そのラストをよくよく考えてみると、少し怖くなってくるに違いない。

7月4日(水)

 笠井潔の『探偵小説論T 氾濫の形式』を読み始める。

 ミステリ好きのもろやんさんのサイトで教えてもらった評論であるが、普段、ミステリというジャンルの弱点としてとらえられがちの「記号としての死」――つまり、人の死という重大な出来事を軽んじているという発想を、完全に逆転させているところが面白い。
 著者は、第1次大戦後に起こった英米探偵小説の隆盛を、大戦が人々にまのあたりにさせた大量死=無個性な死と結びつけ、探偵が犯人を推理していく過程を、「記号としての死」の対象である被害者を、確実なひとりの人間として再定義する行為であるとしている。
 そして、日本の第二次大戦後におこった探偵小説ブームへと論は展開していくのであるが、その文章はけっして簡潔ではないため、読破するには少し時間がかかりそうだ。

7月2日(月)

 あーなんだかんだで休暇も半分が終了してしまった。

『グインサーガ59 覇王の道』と『グインサーガ外伝12 魔王の国の戦士』を読了。3ヶ月もあれば楽に最新刊まで追いつける、と思っていたけど、この調子だと間に合いそうにない……。罪作りなシリーズだ。

 【更新のお知らせ】というか、たけたけっさんの「活字好きに100コのQuestion」を「八方美人なイベント」に置いただけです。

7月1日(

 BK1の「ブリーダープログラム」では、月末ごとに売上の報告が来るのだが、先月はじめて売上が出た。
 たいへんありがたいことではある。が、それはともかくとして、そのメールをよく読んでみると、サイト管理者が購入してもポイントサービスにはならない、という但し書きが。

 よほどその手の問い合わせが多かったのだろうなあ……。

 アンドレ・ジイド『狭き門』を読み始める。これもどうやら「真実の愛」をテーマにした作品らしい。スタンダール『赤と黒』もそうだったし、トルストイ『アンナ・カレーニナ』もそうだった。
 十九世紀の海外文学の代表作というのは、どうも「真実の〜」というものを主題にした作品が多い。しかも、あげくに主人公は死んでしまったりするのだが、「真実の愛」を貫こうとするのに、既存の社会というのは、どうやら邪魔なものだ、という考えが、西洋文学の特徴らしい。

 文学論などでよく言われている「ロマン主義文学」というものがどういうものなのか、ちょっとだけわかってきたように思う。

 ずっと前に読まなくなっていた竹河聖『風の大陸』シリーズをふたたび追い始める。7巻までは読んでいたのだが、就職した頃から読まなくなっていた。
 しかし……この手のカバーの文庫を買うのは、ちょっと勇気がいるなあ……。今回は古本屋だったから、まだよかったけど。



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