【早川書房】
『ZOO CITY』

ローレン・ビュークス著/和邇桃子訳 



 人生というのはときに理不尽であり、私たちはしばしばその理不尽な出来事にわけもわからないままに巻き込まれ、自身の運命を呪ったり嘆き悲しんだりするものである。なぜ他ならぬ自分なのか、この理不尽な仕打ちにいったいどんな意味があるのか、考えてみたところで明確な答えがあるわけではなく、また誰もその答えを教えてくれるわけでもない。私たちの生きる世界は、私たちが思っている以上に混沌としており、人間の知恵によって解明されたこと、秩序づけされたものなど、じつはほんの一部に過ぎないというのが、正直なところだろう。なにせ私たちは、自分が生きることの意味すら見いだすことができずにいる、中途半端で弱い生き物でしかないのだから。

 南アフリカの大都市ヨハネスブルクを舞台とする本書『ZOO CITY』の世界では、ある不思議な法則が成り立っている。それは凶悪犯罪を引き起こした者たちが、かならず一体の動物と共生関係を結ばされるというものである。本書の主人公であるジンジ・ディッセンバーは、以前はジャーナリストとして活躍していたものの、兄殺しの罪でナマケモノと共生関係となり、流れ流れてヨハネスブルクのヒルブロウ地区に住み着くことになった女性である。そこは彼女と同じように動物と共生関係となった犯罪者たちの吹き溜まりであり、『ZOO CITY』という本書のタイトルはこの地区の通称でもある。

 ズー・シティ――つまりこの界隈は、動物付きの人間たちで溢れている動物園の街ということである。ただし、その動物たちは檻のなかに閉じ込められているわけではない。動物をふくむ彼らが閉じ込められているのは、まさに「動物付き」であるという理不尽の檻だ。この世界において、動物付きであることは犯罪者と同義とみなされるし、犯罪者たちは動物との共生関係を人為的に切り離すことはできないようだ。それはかつて日本で、犯罪者に施された刺青以上に、彼らの犯した罪を象徴するものと化している。当然のことながら「動物付き」に対する偏見は大きく、彼らがまともな職業についたりして、社会に復帰することをより困難なものにしているのは想像に難くない。

 だが、その代わりというのも変な話だが、彼らはひとつだけ超能力めいた力を手にすることができる。たとえばジンジの場合、誰がが無くしてしまったモノとのつながりを視覚化し、その痕跡を追跡することができるようになっている。つまり遺失物発見の能力だ。ジンジはズー・シティで、この能力を活用して生計を立てている。だが、本書を読み進めていくと推察できるのだが、その仕事における収入は微々たるものでしかなく、とてもではないがまともに暮らしていくことがかなわない。げんに本書のなかでも、彼女の仕事の依頼主であったラデツキー老夫人が殺害されるという不運に遭遇し、彼女の苦労が水の泡となってしまっている。それゆえに彼女は遺失物発見のほかに、電子メールを利用した詐欺まがいの仕事にも手を出している。しかもその仕事相手に多額の借金をしており、やめようにもやめられないという悪循環に陥っている。

 本書のなかの世界において、「動物付き」の現象はすでに日常の一部と化してしまっており、一人称の語り手であるジンジの口からは、この現象にかんするあらゆる事柄の説明はいっさいなされない。たとえば、なぜ犯罪者が「動物付き」になってしまうのか、それは人為的なものなのか、あるいは自然現象に近いものなのか、「動物付き」につきものらしい「逆流反動」とはどういうものなのか、「動物付き」と超能力との関係、あるいは動物と人間との関係がどのようなものなのか――本書を読んだだけではほとんど何もわからないのだ。いくつかかろうじて理解できるのは、ジンジをふくめたこの世界の住人たちは、「動物付き」について、それはそういうものだという認識で、それぞれがそれぞれに判断して生きているということくらいのものである。そしてその「それぞれの判断」が、じつはこの物語における大きな鍵となってもいる。

 物語のメインは、失踪した少女の捜索である。音楽業界の大物プロデューサーが最近手がけていた双子の歌手の片割れ、ソングウェザ・ラデベが対象であるが、ふだんであれば、人探しは彼女の仕事の範疇外だ。なぜならジンジの能力を使った仕事は、あくまでモノを対象としているからである。ただ、人からモノへと辿ることができるのなら、その逆も不可能ではないらしく、ジンジが人探しをしないのは、能力としての制限というよりは、人探しにおけるさまざまなトラブルを避けるという意味合いのほうが強い。じっさい、この依頼をもちかけてきた人物もまた「動物付き」の二人組みであり、胡散臭いことこのうえない。にもかかわらず、ジンジは最終的にはこの依頼を引き受け、そして予想通りいろいろと面倒なことに巻き込まれてしまう。

 じつのところ、ジンジの一人称で語られる本書はその一人称形式にあまりにも忠実すぎて、彼女が意識しない事柄についてはいっさいの説明がはぶかれている。それゆえに、ときに彼女の行動が唐突すぎて、読者が置いてきぼりにされることがしばしばある。ジンジが今回の依頼を引き受けた理由も、たんに金に困ったからという理由かもしれないし、もっと心の奥深くに秘められた何らかの意思――たとえば、今の八方ふさがりの状況をなんとかしたいといった意思によるものなのかもしれない。だが、これは私たちの現実世界についても、多かれ少なかれ同じようなものだと言える。私たちが何かを選択したり、何かを始めたりするのに、常に言語化できるだけの明確さを持ち合わせているわけではない。たいていの場合、なんとなくそうするのであり、そしてなんとなくそうなってしまうのである。そしてそこには、たんに電車に乗るのにどちらの足からにするかといったどうでもいいようなものから、人を殺すかどうかといった重大なものまで、千差万別だったりする。

 私たちのそのときに行動における「なぜ」は、その行動の前にあるのではない。それは常に、すでに起こしてしまった行動を自分に納得させるために後から理由づけされたものでしかない。つまりはたんなる言い訳である。だが、どれだけ言い訳したところで、いったん放ってしまった言葉は取り消せないし、起こした行動によって発した結果は覆らない。それこそ、凶悪犯罪者に結びつけられてしまう一体の動物と同様、それは自身の責任として受け入れて生きていくしかないのだ。そしてそれこそが、本書におけるジンジのただひとつの揺るがない土台となっている。

 南アフリカという舞台ゆえに、本書の世界では呪術めいたものが今もなお生きており、物語のなかでも重要な役割を担っていたりする。犯罪者たちの「動物付き」も、あるいはその最たるものと言えるのかもしれない。そして呪術や魔術といったものは、人間がかつてわけのわからないものや、理不尽な出来事に対抗するためにあみだした壮大な「言い訳」の装置である。それは科学万能の世のなかになって消えてなくなるものかと思っていたのだが、今の時代にはびこっている疑似科学めいたものを見るかぎりにおいて、まだまだその力を失ってはいないようだ。さまざまな理不尽さと不幸をかかえて、それでもなお生きていく犯罪者たちの思いを、ぜひたしかめてもらいたい。(2014.02.08)

ホームへ