【みすず書房】
『ゾリ』

コラム・マッキャン著/栩木伸明訳 



 私たちがふだん心にいだく感情や想いというものは、けっして単純なものではない。いっぽうで憎んでいながらも、もういっぽうでは愛情を感じていたりといった、相反する感情を同時に持ち合わせていたりするものであるし、そのどちらもその人にとっては真実の感情であったりする。たんに「憎しみ」と言ったところで、そこに内包される思いは人によって、あるいは状況によって千差万別あるはずであり、それが人間のもつ感情の複雑さでもあるわけだが、いったんそうした感情を「憎しみ」という言葉に置き換えてしまうと、その言葉がもつ一般的な意味のなかに自身の感情が還元され、本来心のうちにあったはずの微妙な部分がいつしか忘れられてしまうことがある。

 言葉というのは、名状しがたいものに形をあたえ、しかるべき秩序のなかに組み込んでしまうことである。たとえば、私が誰かに恋をしたとして、その想いは私のなかでは唯一無二の、けっして何ものにも置き換えることのできない特別な感情であるはずなのだが、その想いを誰かが「それは恋しているということだ」と言ってしまうことで、私の感情はとたんに「恋愛」という誰にでも理解できる枠のなかに収まってしまうのだ。あるいは、こんなふうに言い換えることもできるかもしれない。私のある特定の人物に対する特別な感情は、「恋愛」という言葉をあたえられることによって、はじめてそれが恋愛の感情であると認識されるのだ、と。

 それまで見たことのないもの、わけのわからないものというのは、恐怖の対象でもある。だからこそ私たちは、そうしたものに名前をあたえ、自分たちに理解できるものとして安心したいと願う。そしてそうした言葉の力が、ときにスローガンや主義主張といったものに形を変え、政治的道具として利用されてきたのは、過去の歴史が示すとおりである。

 つねに方向を変え、いつも変化し続けるゾリは、たえず僕を酸素欠乏状態にさせる。新鮮な空気を吸わせてくれると同時に、溺れ死にさせようとするのが彼女だった。

 本書『ゾリ』は、ゾリ・ノヴォトナーという名の女性が歩んできた、けっして平凡とは言えない人生を描いた作品であるが、彼女のことをてっとり早く、かつ印象深いものとするために、たとえば「ジプシー詩人」という肩書きとともに紹介することに、このうえない違和感と、同時にある種のためらいをおぼえる。なぜならその肩書きは、「ゾリ」という、本来であれば男性につけられるはずの名前をもつ彼女の本質というよりは、彼女を取り巻くさまざまな政治的、時代的な要因が、「ジプシー詩人」であることを彼女に強いたというべきものであることが、本書を読み進めていくと見えてくるからである。

 1930年代、ナチスの抑圧下にあったスロヴァキアで、ジプシーだったゾリの家族はファシストであるフリンカ親衛隊に虐殺された。たまたま別行動をとっていたゾリと祖父だけが生きのびることができ、彼らはジプシーの親戚を頼って生活するようになる。祖父のジージはジプシーでありながら読み書きができ、ひそかにマルクスの『資本論』を読むような変わり者だったが、彼はゾリに読み書きの仕方を教えただけでなく、学校にも通わせ、結婚相手さえも「読み書きできる妻」を許容できることを大前提に選ぶようなところがあった。

 ジプシーの文化は口承伝承が基本であって、書物や文字に書きとめられた言葉を忌避するところがあるのだが、そういう意味で、ゾリに教育を施した祖父には先見の明があったと言うことができる。ファシスト政権によって厳しい抑圧の対象となっていた時代はいつしか過ぎ去り、ソ連邦による社会主義の時代が訪れると、彼女の詩人としての才能は見事に開花することになる。それは、もともと歌を唄うこと、いろいろな歌の歌詞や歌い回しをおぼえることが得意だったゾリの資質が、祖父の教育と結びついた結果であり、なにより歌を書き言葉にして紡いでいくことの楽しさを知ったからこそのものであったのだが、そんな彼女の才能を見出した革命詩人であるストラーンスキーと、イギリス人の翻訳家スワンによって、ゾリはそれまで抑圧されてきたジプシーの地位を変革させる「ジプシー詩人」として、さらには旧体制をひっくり返す革命詩人の寵児として脚光をあびることになる……。

 特定の土地に住み着くことなく、また読み書きすることを禁忌とし、常に移動しつづけながら生活するというジプシーたちへの根深い偏見(「ジプシー」という呼び方そのものが差別的要素を含むということで、今は「ロマ」という呼び方が定着しつつある)やその生活様式、そんな彼らを排除したり、あるいは厳しく管理しようとする時の権力に翻弄されてきた、まさに抑圧の歴史ともいうべきジプシーたちの姿を垣間見ることのできる本書であるが、そんななかにあってきわめて異例な育ち方をしたゾリが、はたして何を目指し、どのような目的をもって行動したのか、という点について、きわめて希薄なところがあるというのは、本書を語るうえで重要な要素のひとつである。そして、このことを論じるためには、言葉を記録するという行為がもつ意味について、より掘り下げていく必要が出てくる。

 上述したとおり、私たちの感情や想いというものはけっして単純ではなく、相反する要素やきわめて微妙なものが複雑に絡み合った、混沌とした状態を総称するものである。だが、そこにいったん何らかの言葉が与えられてしまうと、安定することを求める私たちの心は、その言葉にたちまちとらえられてしまう。他にもさまざまなものが入り混じっていたにもかかわらず、そうしたささいな事柄が切り捨てられ、あるひとつの言葉で言い表わされる感情なり想いなりに、私たちの心が固定されてしまうのだ。それが人間の生み出した、秩序を見出す言葉の力である。

 ジプシーたちは読み書きするための言葉をもつことがない。それは、固定された言葉に信用を置かないとする彼らの文化であり、ひとつの考え方であるが、それは逆にとらえるなら、自身の感情や意思といったものを、わかりやすい言葉やスローガンとして固定されることを意識して拒否していると言うことができる。ゾリの無目的なように見える言動や、あらゆる事柄に受動的なその態度は、まさにジプシー的なものでもあるのだが、私たちはそうした彼女の姿に、どうしてもとらえがたいものを感じてしまう。そして同時に、本書のタイトルでもある「ゾリ」とは、けっきょく何者だったのか、という疑問と常に向き合わなければならなくなる。

 本書はときにゾリの一人称で語られ、あるいは三人称としてのゾリが描かれ、かと思えば別の人物から映るゾリの姿を映し出す。時代も主観もけっして固定されることのない物語である本書のなかで、とくにイギリス人の翻訳家であるスワンの視点から書かれた章が私たちにとってとっつきやすいと感じるのは、彼らがゾリのことを言葉で固定し、何らかの役割を与えようとしているからに他ならない。「ジプシー詩人」「完璧なプロレタリアート」「新しいソビエト女性」――さまざまな肩書で彼女を縛り、そんな彼女をプロパガンダとしてジプシーたちを管理下に置こうとするそれらの言葉は、常に変化しつづけていくジプシーとしての彼女の本質をとらえることは永遠にない。

 固定されない歌の言葉と、固定されてしまう詩の言葉――ゾリはその狭間にあって、そのどちらに身を置くべきなのか、常に揺れ動く不安定な存在として書かれている。そもそも「ジプシー詩人」という言葉そのものが、大きな矛盾をそのなかに含んでいるのだ。結果的に、彼女はジプシーの禁忌を犯した穢れ者として追放されてしまうが、そうしてジプシーでさえなくなった彼女が、それでもなおひとりの「ゾリ」でありつづけるために、はたして何が必要であったのか、そしてそのとき、彼女にとっての歌は、あるいは詩は、どういう意味をもつものであったのか――それは、本書を最後まで読むことで読者ひとりひとりが答えを見いだすべきものなのだろう。(2009.11.16)

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