【角川書店】
『零戦』
−その誕生と栄光の記録−

堀越二郎著 



 この書評を書いている2013年9月という時期に、本書『零戦−その誕生と栄光の記録−』を取り上げることについて、あるいはピンと来る方もいらっしゃるかもしれない。そう、日本のアニメーション作家である宮崎駿の新作アニメーション映画「風立ちぬ」の主人公は、本書の著者である堀越二郎をモデルとしたものである。航空機を初めとするメカが好きという印象を個人的にはもっている宮崎駿であり、そんな彼が零戦の生みの親である著者を映画の題材にしたというのも、なるほどと思わせるものがあったわけだが、私が本書を読んでふと思い出したのは、宮崎駿ではなく、漫画家の芦奈野ひとしであり、彼が描いた『ヨコハマ買い出し紀行』という漫画である。

 海面の上昇とともに人類の文明がゆるやかに黄昏ていく未来を舞台とするこの漫画のなかには、ロボットが人間に混じってごく自然に生活をしている。そのほとんどが女性型のそれらのロボットは非常に人間味があり、「アルファ」や「ココネ」といった、それぞれに固有の名前をもっているのだが、彼女たちにはそうした名前のほかに、機械であることを示す記号が与えられている。それは「A7M2」あるいは「A7M3」といった記号であるが、こうした記号のつけ方が、じつは零戦をはじめとする海軍航空機の型番からとられていることに、私は本書の知識から知ることになったのだ(より正確には、零戦は「A6」。「A7」のコードがつけられるのは、その後継機「烈風」)。それは飛行機というものに特別な愛着をもつ、いかにも芦奈野ひとしらしいネーミングと言えるのだが、私が驚いているのは、芦奈野ひとしにしろ宮崎駿にしろ、戦後60年以上も経っているにもかかわらず、現代においてもなお多くの人を魅了し、大きな影響を与えている「零戦」という戦闘機の魅力がどこにあるのか、ということである。

 当時の世界の技術の源流に乗ることだけに終始せず、世界の中の日本の国情をよく考えて、独特の考え方、哲学のもとに設計された「日本人の血の通った飛行機」――それが零戦であった。

 零戦――零式艦上戦闘機という名称は、その機体が海軍に制式機として採用された昭和十五年が、日本紀元二六〇〇年にあたることからつけられたもので、それ以前は「十二試艦戦」と呼称されている。本書はその十二試艦戦のプロジェクトが零戦としての形を得、第二次大戦において空の覇者として君臨しながらも、最後にはその羽根を失っていく過程を書いたものであるが、まず目を引くのは、十二試艦戦に要求されていたスペックが、当時の航空界の常識をはるかに超えたものであり、まさに不可能を可能にするような技量を要求するものであったことである。大型機を落とすための武装、攻撃機の護衛のため敵地まで往復できる航続力、敵機との戦闘に打ち勝つ空戦性能――いずれもひとつの特性を上げるにはべつの特性を犠牲にせざるを得ない要素であり、本来であればそれぞれの要素に特化した機体をつくるべきものである。逆に言えば、それらの性能をあえてひとつの機体のなかに組み込んだものが、零戦の大きな特長ということになる。

 不可能に思える要求に挑戦し、さまざまな艱難辛苦のはてに、それを実現させる――まるでNHKの「プロジェクトX」を髣髴とさせるストーリーが本書のなかにはあり、そこには多分に多くの人々を魅了する要素がある。だがそれ以上に重要なのは、零戦の設計を手がけた著者が、たんに海軍の要求に応えるだけの技術者というだけでなく、当時の国際社会における日本の立場というものを、航空技術という視点からきちんととらえていた点にこそある。他の列強とくらべて資源がとぼしく、また開発のためのマンパワーも不足している日本が、その劣勢を跳ね返すためには、たとえ種類は少なくともさまざまな用途において抜きん出た性能を発揮する精鋭機を開発するしかない、という著者の主張は、零戦のコンセプトとマッチしていたということになる。

 そして著者のそうした世界情勢を見る目は、太平洋戦争勃発後も変わることはない。戦時中の日本の新聞社が、自国に不利な情報を隠蔽していたなか、著者は零戦が戦争においてどのような扱いを受けているかという視点から、日本の戦況を冷静に判断する目をもっており、それはおおむね的を射たものであった。零戦が活躍しているあいだは日本軍の躍進はなはだしく、また零戦が苦戦することは、そのまま日本軍が苦戦することにつながっていた。そして神風特攻隊が乗り込む戦闘機が零戦であることを知ったとき、著者は日本の敗戦が近いことを予見している。

 本書を読むとわかってくることのひとつに、戦争当初における零戦の戦闘能力が、当時の他の国の戦闘機を圧倒するだけのスペックを誇っていたという事実がある。あくまで機体の軽量化に重点を置いたため、馬力のある重いエンジンを積めないというハンディにもかかわらず、その空戦性能の高さは比類するものがなく、何か神秘の力が宿っていると思った敵国の軍人さえいたという逸話もあるくらいである。このあたりの技術的な話――それまで常識とされてきた決め事に対して疑問をもち、その常識を覆すようなアイディアを生み出していくというエピソードの数々も、本書の面白さのひとつではあるのだが、こうした零戦の特徴を考察していくと、零戦という戦闘機が日本人の心をことのほか魅了する、ある要素をもっていることに気がつく。

 それは、日本独自のものが他の国のそれを大きく凌駕して活躍する、という要素である。たとえば牛若丸、力道山、千代の富士といった、日本人に愛される人物たちは、その小さい体にもかかわらず、巨漢の男を相手に勝利しつづけてきた者たちである。彼らの勝つ姿は、他の国に比べてちっぽけな島国にすぎない日本が勝つことと同義であった。言ってみれば、彼らは日本の強さを象徴していたということである。そしてその要素は、そのまま零戦にも当てはめることができる。上述の引用にもあるように、零戦を生み出したのは、借り物としての欧米の技術ではなく、それを超えてさらに一歩踏み出したところにある、日本独自の技術である。そうしたエピソードをもつ零戦だからこそ、「日本人の血の通った飛行機」と称される戦闘機として、今もなお多くの日本人を魅了する。

 零戦が戦闘機であり、また戦争の道具としてつくられたものであることは間違いのない事実である。だがその一点だけを強調して、零戦をはじめとする戦闘機への愛好を戦争崇拝と結びつけてしまうと、その本質を見落とすことになりかねない。零戦をつうじて見えてくる日本人の心――それは案外、私たちの特性を鋭く捉える何かを含んでいるのではないだろうか。(2013.09.19)

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