【角川書店】
『ゼロの迷宮』

ドゥニ・ゲジ著/藤野邦夫訳 



 いきなりコミックの話で恐縮だが、たとえば石黒正数の「それでも町は廻っている(2)」で、歩鳥の弟がラジオから流れてきた「午前0時」という言葉に対して、「ゼロは無い事なのに0時はあるなんて…怖い」と呟くシーンがある。ゼロというのは、何もないこと、空白であること、無の状態を記号化することで、空白を埋めるという概念から生まれたものであるが、私たちがあたり前のように用いているこの記号の、何もないにもかかわらず、その状態をあえて「あるもの」としてとらえるという考え方は、ある意味コペルニクス的発想の転換であり、またこのうえなく矛盾するものを結びつけているという、なんとも奇妙な性質をもったものでもある。

 何もないものを記号で表現してしまう、というのは、何もないという状態になんらかの価値があるからこそ生まれた発想でもある。これまで人類は、自身の周囲にあるあらゆるものに名前をつけ、そうすることで未知のものを自分たちの属する秩序の世界にとりこんできたが、そもそも「何もない」というのは、どういう状態なのだろうか。そして「何もない」ということに価値があるというのは、どのような意味をもち、そこにいたるまでにどんな歴史を積み重ねてきたのだろうか。今回紹介する本書『ゼロの迷宮』は、要約してしまえば数字の歴史とゼロの概念を物語仕立てで描いた小説、ということになるのだが、単純にそうした説明だけでは表現できない部分をはらんでいる。それはあたかも、ゼロという記号がはらむ概念を一種の神話や伝説として再構成するかのような、そんな大胆で意想外な試みであり、ゼロがもつ意味をあらためて問いなおすという挑戦でもある。

「――財産と借金がおなじだったら、どういうことになるんだろうね。それはスンヤを借りてるんだ。つまり、なにもないものを借りているんだよ。おれたちは新しい量を考えついたのさ。それはある量、同じ量を引いたときにのこる量だ」

 本書を構成する六つの章は、それぞれ場所はメソポタミア南部と固定されてはいるが、時代は大きく隔てられている。1章では多国籍軍によるイラク空爆のなか、フランス人考古学者のアエメール・アルシが現地人のウバイドと出会い、彼の住む村に一時期滞在するというストーリーで、間違いなく現代を舞台としているのだが、つづく2章では、時代は一気に五千年前のメソポタミアにまで遡ることになる。そして章を経るごとに千年単位に時代が下り、最後の章でふたたび現代へと戻ってくる。それぞれの章において展開される物語のあいだに、直接的なつながりはない。ただ、いずれの時代にもかならずアエメールという名の女性が登場するという点が、本書を大きく特徴づけており、また本書を評するにおいて重要な鍵となってくる。

 なぜそれぞれの時代において「アエメール」という名前の女性が物語のなかに登場し、中心人物的な役割をはたすのか、彼女たちのあいだに名前以外のどのような共通点があるのかについて、本書のなかにいっさいの説明はない。だが、それぞれウルクの女神の女祭司、ウルの酒場の娼婦、バビロンの夢占い師、バグダッドの奴隷の踊り子ときて、最後には考古学者のフランス人へとたどりつく彼女たちを結ぶ線の上には、常に数字の記数法における重要な転換期がからんでいる。数を粘土板に表記するという発想からはじまって、数を表わす記号の簡略化、進数と桁の概念の発見ときて、最後に桁の空白を埋めるゼロという概念の発見にいたる流れ――本書全体をとおして見えてくるのは、「アエメール」という存在が人類と数字との関係性、とくにゼロの発見が人類におよぼした影響について、なんらかの役割を果たしている、という強い印象づけである。

 五千年という時間は、人間のその一生と比較すれば膨大な長さであり、当然のことながらひとりの生きた人間が固有の存在として保ちえる範囲を超えるものだ。もっとも現実的な可能性として、親から子、子から孫へと引き継がれる血族としてのつながりというものが考えられるのだが、その可能性については、2章で登場する女司祭としてのアエメールの予言めいた言葉によって否定されている。「自分はあらゆる愛を体験するだろうが、母親と妻としての愛を体験できないだろう」というその言葉は、その後に登場するアエメールたちの運命を指し示すものであるが、同時にアエメールという存在がその時代時代において、一代かぎりでとぎれてしまう、ということを意味する。ひとりの人間の生と死、この世界にある日存在し、そして同じようにある日存在しなくなる――それは二進数的にいうなら、1と0という関係であるが、もし何もないという状態が「ゼロ」という記号で置き換えられるのだとすれば、それは生と死がある状態を指し示すものであり、じつのところその価値は等価なのだということになる。

 死というものが、この世界からいなくなる、無の状態になるということではなく、生の裏返しであるという意味を、ゼロの概念は含んでいる。何もないことをあえて「ある」とするこの記号の価値は、まさにその点にこそある。考古学者としてのアエメール・アルシが、シュメール人の死の概念として「粘土に返る」ことだと語るシーンは、彼女が知り合ったウバイドという青年がサダム・フセインの民兵と戦う立場にあり、いつ死んでも不思議ではないということを考えると、非常に象徴的な意味合いを帯びてくる。

 物語のなかで、アエメールと知り合うことになる男性たちは、あるいは襲撃者や時の権力者、独裁者といった者たちと争って血を流し、命を落としていく。死と破壊によってゼロの状態になるいっぽうで、洪水の被害を少しでも小さくして、町の復興のために奮闘したり、天の星の動きを観測したりする者たちがいる。そして、それぞれの時代のアエメールたちは、そんな男たちと恋に落ちていく。そこには当然のことながら人としての喜びや悲しみといった感情の発露があるのだが、本書はそうした感情の部分については、努めて抑制した表現をつづるのみである。1が0になり、またその0から1が生み出されていく――その生と死、破壊と復興の粛々としたくり返しは、さながらひとつのサイクルのごとく物語のなかをめぐり、そのなかで数字の概念はゼロの発見に向けて収束していく。

 どれだけ相手と愛をはぐくむことができても、けっして自身の血族を残すことができないという運命をかかえたアエメールの存在は、生物学的にはほとんど意味をなさないものと言えるが、そこにゼロの概念をもちこむことで、生と死を超越した神話的存在として読者に迫ってくることになる。はたして彼女の魂は、何を求めて彷徨っているのか、そして記数法とともに流されていく果てに、どのような結末を迎えることになるのか、ぜひともたしかめてもらいたい。(2008.12.05)

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