【富士見書房】
『ザンヤルマの剣士』

麻生俊平著 



 「正義とは自由に他ならぬ。少なくともただ自由のなかだけに存在するのだ」というのは、辻邦生の『背教者ユリアヌス』のなかの台詞であるが、ここで言われている「自由」とは、自分が自由を有していることはもちろんのこと、他人もまた自分と同じように何かを行使する自由を有していると認めなければならないことを意味している。自分ひとりだけが振るうことのできる自由、人によって制限されてしまう自由、あるいは誰かによって与えられた自由とは、真の意味での自由ではない。だが、たとえば自分がまったく知らない他人の自由を認めることは、言ってみれば相手が自分を傷つける行動をとるかもしれないことをも認めなければならない、ということでもある。

 もちろん、相手の行為によって他ならぬ自身の自由が損なわれてしまうのは許されるべきことではなく、ときには自身の自由のために相手と対立し、戦わなければならないときもあるだろう。だが、相手の自由を恐れるがゆえに自由そのものを束縛してしまう権利は、本来誰ももってはいないし、相手の自由を恐れるあまり他人との接触を拒絶してしまっては、そこから何も発展していかなくなってしまう。「正義とは自由に他ならぬ」という言葉の裏にあるのは、すべての人間が対等な立場にあることを受け入れなければならない、ということなのだ。だが、本来ならあたりまえのことであるはずのこれらの事柄を、個々のレベルで受け入れることの困難さを、いったいどれだけの人が意識しているだろうか。

 本書『ザンヤルマの剣士』から連なる、全10巻のシリーズのなかで描かれているのは、言ってみればこうした自由――自分だけでなく相手の自由をも認めようとするがゆえに生じる困難との戦いの記録、ということになる。主人公の矢神遼は鵬翔学院に通う、ごく普通の高校二年生であるが、ある日、正体不明の黒スーツの男から一振りの短剣を受け取ったことで、彼のその後の運命は大きな変化を余儀なくされる。「ザンヤルマの剣」と呼ばれ、抜いた者には世界を滅ぼすほどの強大な力をもたらすと伝えられる剣――それは、はるか昔に宇宙にまでその勢力を伸ばすほどの高度な技術をもちながらも滅亡してしまった超古代文明「イェマド」の遺産であり、その生き残りである黒スーツの男、裏次郎は、いつまで経っても今の文明がイェマドの段階に達しないことに絶望したあげく、人々に遺産をバラ巻き、その遺産がもたらす魔法のような力に相続者が溺れ、あるいは感情を暴走させて自滅していく様子を眺めることに黒い喜びを見出しているような、危険な男だった。

 普通であればけっして抜けるはずのない形をしているその短剣を簡単に抜いてしまった遼の、その負の感情に呼応するかのように次々と発生する奇怪な殺人事件。一時期はその剣のもたらす力ではないかと疑い、自殺寸前まで追いつめられた遼だったが、アメリカ帰りのサバイバル・ガール、遼の従妹にあたる朝霞万里絵や、裏次郎と同じくイェマドの生き残りであり、人々の手に渡った遺産を回収、破壊するために動いている氷澄丈太郎や江間水緒美といった協力者を得ることで、自分にしかふるうことのできない「ザンヤルマの剣」の力の誘惑に負けないため、そして、同じくイェマドの遺産の力にとらわれてしまった人々の心を救うために、その力を使う決意をするにいたる。

 本シリーズの基本構成は、何者かの手に渡ったイェマドの遺産によって引き起こされる事件を、「ザンヤルマの剣」をもつ遼たちがその力を使って解決していく、というものである。こんなふうに書いていくと、あるいは超技術を有するイェマドの遺産を武器として戦う安易なバトルものの展開を想像する方も多いかもしれないが、基本的に裏次郎がバラ巻いた遺産がどのようなものなのか、遼たちにはわかっておらず、またそうした遺産が直接的に攻撃の形となって彼らの前に現われることもほとんどない。ゆえに、遼たちの戦いはまず、自分たちの周辺でのちょっとした異変――たとえば学園祭に対する妨害工作や、急激に流行しはじめる妙な運動、あるいは超常現象にも似た事件の頻発といった、もしかしたら遺産がらみの事件ではないかと思える事柄に対して、その真偽を調査するところからはじまる。そして、仮にそれが遺産がらみであったとしても、誰が遺産を持っているのか、そしてその遺産がどのような能力をもっているのかまでは、推測の域を出ないことが多い。

 本書の面白さは、そうした正体不明の事柄に対して、遼の持つ「ザンヤルマの剣」の力と、万里絵たちによる綿密な計画、調査が加わることによって、徐々に事の真相が明らかにされていく過程にこそあり、そういう意味ではむしろミステリーやサスペンスに属するものがあると言える。そして、「ザンヤルマの剣」がもつ秘密や、イェマドが滅亡するにいたった原因、あるいは裏次郎と丈太郎、水緒美たちの過去に何があり、どのような決着がつけられるのかといった、シリーズだからこその伏線を読み進めていく楽しみもあるのだが、そうした点についてはじっさいに本書を読んで確かめてもらうとして、ここでひとつ注目しておきたいのは、本書の登場人物たち――それはすなわち、本書と同じ世界を生きている私たちにもつながるものでもある――にとって、「イェマドの遺産」とはどのような意味を持っているのか、という点である。

 私たち人間は言葉を生み出し、世界のあらゆるものに名前をつけることによって、対象を自分たちの側に属するものとして定義していった。法律や倫理、あるいは道徳観といったものも、すべて私たちの発する言葉の延長線上にあるものである。だが、「イェマドの遺産」とは、そうした私たちの規定するものの外側にあるもの、つまり、今の人間にはほとんど理解不能なものとして、私たちの前に現出するものである。超高度な技術を有し、まるで魔法のような力を発揮する「イェマドの遺産」は、その理解不能な属性ゆえに人間の心に恐怖心を芽生えさせ、それゆえに人間がこれまで規定してきたものを容易に破壊してしまう。それは言い換えるなら、たとえば戦争といった極限状態における殺人や、深刻な飢餓状態におちいったときに起こりうる人肉食といった禁忌の破壊と同様のものであるのだ。

 本シリーズに登場する、遼たちの敵として登場する人たちは、意識するしないはともかくとして、いずれも遺産の力によって、そうした禁忌をあっけなく踏み越えた行動を起こしてしまっている。それは、それまで人間を規定していた言葉による世界観が根底から覆され、むき出しになった世界と自分自身とに向き合わなければならなくなったがゆえの悲劇でもある。そして「ザンヤルマの剣」を受け取った矢神遼にしても、ただの高校生――それも、臆病で小心者、他人との付き合いについても苦手であり、ともすると自分の殻に閉じこもりがちなところがあり、にもかかわらず、ときに自分の感情の高ぶりを押さえられないところもある、物語の主人公というにはあまりに未熟で陰の多い少年でしかない。むしろ、彼の参謀役として知恵を貸し、また自身でも積極的に動くことで彼をサポートする万里絵のほうが印象に残るところさえあるのだが、主人公のこうした人間としての弱さ、とくに、他人と衝突することを忌避しようとするその性格が、ただの弱さで終わるのではなく、その弱さを戦うべき相手のなかにも見出してしまうやさしさ、純粋さにつなげていこうとする方向性が、著者の作品の中には見られる。

 水緒美たち遺産管理人と遼に決定的な違いがあるとしたら、それは遺産をめぐって闘う目的だ。――(中略)――遺産によって誰かが傷つけられることを防ぐのが遼の目的だ。それはなにも、遺産の機能の犠牲になる人ばかりではない。奇跡とも思える機能の誘惑に屈し、内に秘めた欲望やコンプレックスを暴走させて破滅していく遺産相続人も、救われるべき対象だと遼は考える。

(『放課後の剣士』より)

 遼たちの戦いは、たんに遺産の力との戦いというだけではなく、漠然と規定されていた「人間らしさ」が無意味なものとして崩壊していった後に、それでもまぎれもない人間らしさを保つためにはどうすればいいのかを探究していくための戦いでもある。そして、だからこそ遼は、他ならぬ剣の形をした遺産――あきらかに武器として使われることを目的としている遺産を手にしているにもかかわらず、戦いのたびに傷つき、悩み、しかしそれでもなお戦うことをやめない。遺産を破壊し、あるいは遺産相続人を殺害するのは難しいことではない。だが、遺産相続人たちが陥ってしまった安易な選択をとらず、時間もかかり、簡単に答えの出ない道をあえて進んでいくからこそ、遼の戦いは大きな意味をもつものとなる。

 シリーズが進むにつれて、遼たちの敵は次第に大きなものとなっていく。遺産の力を企業利益のために使おうとする組織や、遺産の破壊のために動いている国際的な秘密組織、そしてもうひとつの「ザンヤルマの剣」をもつ少年――世界を滅ぼす者としての運命を背負いながらも、その運命と戦うことを決意した遼は、その戦いの果てに何を見出すことになるのか。ライトノベルという言葉で片づけてしまうにはあまりにも重く深いテーマを、本シリーズはたしかに内に秘めている。(2006.04.08)

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