【文藝春秋】
『残響』

保坂和志著 



 たとえば、私が今住んでいるアパートの一室。ここは、私が引っ越してくる以前は、私の知らない誰かが生活していた空間だったはずだ。もちろん、私は以前住んでいた人のことなど何ひとつ知らない。だが、今はすっかり自分の色に染まってしまったその部屋の中にふと、以前そこで生活していた人の痕跡を見つけたとき、時間こそ違えども同じ空間を共有している今の自分と以前の住人との間に、もはや何のつながりもない、と言い切ることができるだろうか。

 本書『残響』に出てくる登場人物たちの関係は、ある意味ひじょうに興味深い。大泉学園にある借家に越してきた、結婚三年目になる原田啓司とゆかり夫婦、その借家に以前は夫婦で住んでいたが、妻の彩子と離婚した後は借家を引き払い、一人暮しをしている野瀬俊夫、そして俊夫と別れた渡部彩子と以前、同じ会社で働いていたことのある堀井早夜香――この、表面上は何のかかわりも持っていない三者三様の(正確に言えば四者四様の)、ごく普通の日常生活や、それぞれが思ったり考えたりしている事柄を淡々と綴った作品なのだが、じつは、これらの登場人物たちは、渡辺彩子という人物によってひとつに結びつけることができるのだ。野瀬俊夫はかつての配偶者として、堀井早夜香は何でも話せる年上の友人として、そして原田夫妻は、かつて借家に住んでいた、という情報によって喚起された想像上の人物として、渡辺彩子をとらえている。誰の「彩子」のイメージがより正しいか、とかいった疑問はナンセンスである。なぜなら、渡辺彩子は本書の中ではただの一度として登場してこないからだ。そして、登場してこないにもかかわらず、彩子はこの物語のなかでは誰よりも中心に据えられている。

 人間は主観の生き物だ。私たちは常に、自分の目で見たものとまったく同じものを他人も見ていると考え、自分が聴いたのと同じ音を聴いていると思いがちであるが、それが大きな間違いであることは、お互いの勝手な思い込みがしばしば人間関係に摩擦を生じさせ、争いやいざこざを引き起こしていることを見ても明らかである。ましてや、ある対象についてどんな印象を持つかなど、まさに人によって千差万別なのがあたり前だと言うことができる。だが、まさにそのあたり前の認識は、人間がしょせん他人のことをすべて理解することのできない、孤独な生き物である、という悲しい現実も突きつけることになる。

 それは、本書に収録されている『コーリング』という作品でも同じことが言える。『コーリング』では、かつて同じ会社に勤めていた数人の人間たちが、お互いに出会ったり話したりすることもなく、それぞれがそれぞれの生活をおくる様を連想ゲーム的に書きつらねることで、それぞれの突き放されたような感じをかもし出すことに成功しているが、『残響』になると、登場人物たちに共通する事柄が会社からひとりの人間になることによって、その人間への印象の違いがますます登場人物たちの間を開かせていく、という効果を生み出している。

 そして、登場人物たちを隔てていく間合いは、同時に読者と登場人物たちを隔てる間合いでもある。登場人物たちの心の考えを追っていくと、何の前触れもなく固有名詞が出てくるときがある。「自分は美奈恵のように感じたり信じたりすることもできないし、真知のように頭でスッパリ切っていくようなこともできないとゆかりは思うのだった」というふうに。原田ゆかりにとって、そのような思考の流れはあたり前なのかもしれないが、それを追っている読者はいささか面食らうことになる。登場人物たちは、読者のことなどおかまいなしに行動し思考する。私たち読者にできるのは、「おそらくこういう人なんだろう」と想像をはたらかせ、現実と想像との折り合いをつけることだけだ。そしてそれは、私たちが生きる現実の世界でもよくやっていることでもある。

 動物の目がすべてビデオ・カメラだったら、この世界で起こっていることはさまざまなアングルで記録され、事後にかなり精密に再現することができると俊夫は思った。あるいは人間の脳で起こっていることを逐一記録していく装置を――(中略)――背中につけて生きるようになったら、こうして考えているようなこともすべて記録され再現できると俊夫は思ったけれど、事後に再現できることとこの世界に物質的に記録されることが同じなのか俊夫にはわからなかった。

 著者は本書において、それまでのスタイルであった一人称形式を捨て、あえて三人称多元描写という、視点が次々と移り変わっていく三人称形式を採用した。そして、そのことによってそれまでの持ち味であった、文が途切れることなく長々と続いていくというスタイルが大きく変わってしまっている(詳しくは『この人の閾』参照)。まったく新しいスタイルの小説に挑戦した本書の完成度がどの程度のものであるか――それは実際に本書を読んでみて判断してもらいたい。(1999.10.02)

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