【白水社】
『ザッカリー・ビーヴァーが町に来た日』

キンバリー・ウィリス・ホルト著/河野万里子訳 



 子どもが大人になっていく過程というのは、自身の主観としての世界が広がっていく過程でもある。生まれたばかりの赤ん坊は、まだ自分が誰かなのかすらわからない状態であるが、やがて自分の周囲にある世界と、自分自身との比較によって自己同一性を確立していくことになる。その「世界」とは、はじめは両親や兄弟といった家族間の関係であり、また物理的な住まいといった環境でもあるのだが、成長して行動範囲が広がっていくにつれて、人間関係も、物理的な意味での環境も飛躍的に大きくなっていく。

 自分の知っている世界が広がっていくこと――より多くの知識を獲得し、より多くの人たちとかかわっていくことは、一面では非常に刺激的なことである。だが、自身の世界が広がっていくことは、同時に自分以外の多くの価値観との衝突を生み出すものでもある。つまり、自分とは異なったものの見方、自分とは違った価値観をもつ「他人」がいるということであり、よくよく考えてみればあたり前のことでもあるのだが、それまで自分が世界の中心であると思い込んでいた子どもたちにとって、別の視点からすれば別の人間こそが世界の中心として認識されるという考えは、ある意味で衝撃的なことだ。

 ごく小さな世界に閉じこもっているあいだは、自分こそが世界の中心であっても問題ないし、むしろそうした感覚がなければ自分自身の存在を肯定できなくなるのだが、成長とともにそうした考えだけにしがみついているわけにはいかなくなる。世の中は、けっして自分を中心に回っているわけではない。自分の思いどおりにならないことはもちろん、嫌なことや見たくない事実に溢れているのが、自分の生きていかなければならない世界であるという認識は、自分がかつて世界の中心だった――中心でいてかまわないというごく幼い世界認識との決別を意味する。そしてこのとき、世の中の少年少女の心のなかで、大人への変化がはじまるのだ。

 本書『ザッカリー・ビーヴァーが町に来た日』の舞台となるのは、1971年のテキサス州アントラー。語り手の少年トバイアス・ウィルソン、通称トビーの生まれ育った、鉄道道路とバロドゥロ渓谷にはさまれたこの町は、本物の緑の自然にめぐまれてはいるが、それ以外には綿畑と牧場が広がっているだけの、ようするにただのありきたりな田舎町でしかなく、たいしたことなど何ひとつ起こることのない場所でもあった。だが、そんな町に一台の見慣れない車と、それに引かれたトレーラーがやってくる。車を運転していた男は旅回りの見世物屋であり、2ドルと引き換えに、トレーラーのなかにいる「世界一太った少年」を見せることを商売としていた。その少年の名はザッカリー・ビーヴァー。体重は292キロ。

 それまで決まりきった退屈な日常を繰り返すだけだと思っていた片田舎に、突如「異物」として入り込むことになったザッカリー・ビーヴァーの存在は、そこに住む人たちにとっては目新しい刺激の元であり、トビーも友人のキャルとともにその見世物を見に行くことになるのだが、その後、ザッカリー・ビーヴァーをつれてきた男が彼とトレーラーを残して行方知れずになるという事態となり、しだいにトビーたちはその「世界一太った少年」のことが気になりだし、彼に接触しようといろいろと行動を起こすことになる。

 だんだんぼくは、ただふつうとはちがって見えるというだけで、その人をじろじろ見ながらこんなところに立っているのは、おかしいじゃないかという気がしてきた。

 十三歳の思春期にある少年トビーを取り巻く、ごく小さいものではあるが馴染み深い世界が、ザッカリー・ビーヴァーがやってくることによって、それまで見えなかったものが見えてきたり、それまであったものがいつもとは違った側面を見せたりするという内容の本書であるが、そうした少年の心情の変化を、「世界一太った少年」との関係性をもって表現しようとしている点が、本書の特長のひとつである。当初、トビーにとってのザッカリー・ビーヴァーは、たんに「世界一太った少年」という要素をもつ珍しい存在でしかなく、他の野次馬同様の好奇心しか持ち合わせていなかったのだが、いざ彼をまのあたりにしたときに、太ってはいるが彼が自分と同じ人間、それも、自分とさほど年も離れていない少年であることに気づく。そうした思いが上述の引用文となって表現されているのだが、それでもその時点においては、トビーにとっての「日常」のなかに、ザッカリー・ビーヴァーは含まれてはいなかった。

 だがその後、すぐに町から消えるはずだった「異物」が、いつまで経っても残っているという状況が、彼の日常をかき乱すことになる。ようするに、トビーにとってはあくまで一時的なこと、それこそ「非日常」として楽しむべきものという認識だったものが、いつのまにか「日常」となりつつあるのだ。ありきたりな日常に入り込んだザッカリー・ビーヴァーという名の「非日常」――それは、それまでのトビーにはなじみの薄い要素でもあったのだが、彼の周囲においてまったく存在しないものなのかといえば、けっしてそんなことはない。たとえば、いつも自分のそばにいたはずの母親の不在、あるいはベトナム戦争に徴兵されてしまったキャルの兄など、それまでとは違う「非日常」が、トビーを中心とする慣れ親しんだ世界を漂っているのだ。

 トビーの母親は、昔から有名な歌手になることを夢みていた。彼女の不在は、その夢の実現のためのものであるのだが、それだけではないこと――夫婦間の不和もまたその一因であることを、トビーは薄々感づいている。また現実の戦争に行ったキャルの兄の不在は、それがもしかしたら永遠のものとなるかもしれないという不安と常に隣り合わせのものである。本書を読み進めていくとわかってくるのだが、本書に登場する人たちは、いずれもトビーたちのような子どもには見えない部分で、何かしらの陰を抱えている。そして、他ならぬ一人称の語り手であるトビーがそのことに気づくということが、本書の真骨頂でもある。それは、世界はけっして美しいものだけでできているわけではなく、また何もかもが自分の思いどおりにはならないという現実と、トビーが向き合うことを意味するからに他ならない。

 物語のなかで、トビーたちはしだいにザッカリー・ビーヴァーのために何かをしてやりたい、何かしてやらなければという気持ちになり、彼にお菓子をもっていったり、ドライブイン・シアターへつれていったりする。トビーにとってのザッカリー・ビーヴァーとは、彼が向き合わなければならない現実、認めたくない現実と向き合うこととつながっているのだ。そして、だからこそ本書におけるザッカリー・ビーヴァーの存在は、このうえなく重要なものとなってくる。

 世界はけっして自分を中心にして回っているわけではない。だが、だからこそ人は他人に対してやさしくなれるし、支えあって生きていくこともできる。それは、子どもが大人になるために、もっとも大切なことだ。変化していくことと、それを受け入れること――たとえ、それが痛みをともなうものであったとしても、それが少年少女の成長につながっていくと信じたい。(2009.12.22)

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