【新潮社】
『ゆうじょこう』

村田喜代子著 



 軍隊においていわゆる「軍隊言葉」が奨励される要因のひとつに、方言の問題が挙げられる。日本でもかつて軍隊を発足させたとき、その要員が全国から集められたわけだが、今のように通信手段や教育機関が発達していなかった時代において、方言の違いは異国の言葉のごとき差異となることが少なくなかった。同じ日本人でありながら、出身地によってまったくと言っていいほど言葉が通じない、というのは、軍隊のような組織においては致命的である。命令を正確に伝令し、一兵卒にいたるまで正しく作戦を遂行するためには、何より用いる言葉の共有が必要となってくる。軍人であれば誰が聞いてもひとつの意味しかもたない言葉として、「軍隊言葉」が生まれたというのが定説となっているのだが、本書『ゆうじょこう』を読んだときに、同じようなことが遊郭でも適用されることに気づかされた。いわゆる「廓言葉」である。

 時は明治、薩摩のさらに南に位置する硫黄島から、熊本にある遊郭「東雲楼」にひとりの少女が身売りされた。青井イチ、十五歳。海女として引き締まった体をもってはいるものの、どこか小猿のような風貌の、田舎臭さがなかなかとれない小娘は、どういう了見か遊郭最高の花魁の部屋子として目をかけられる。そこには、彼女の遊女としての資質の高さを見抜いた楼主の思惑があった……。

 人間を明確にランク付けし、そのランクによって稼ぐ金に雲泥の差が生まれる遊郭の世界――本書はそんな特殊な閉鎖社会で生きることを強いられた青井イチの、遊女としての生活と成長を書いた作品であるが、まず目を引くのが彼女の使う言葉の訛りである。「人々の耳にはニワトリの鳴くような声にしか響かな」いというイチの方言は、そのまま彼女の生まれ育った島――南の海と深く結びつき、魚介類を獲って暮らしを立てている海女として生きる自分を保つ、アイデンティティの拠り所となっているところがある。

 じっさいに本書を読み進めていくと気づくことであるが、イチの訛りは遊女としての成長とは関係なく、そのふだんの生活においても大きく変化せず、また遊女たちに教養を施す学校「女紅場」で、彼女が教師の赤江鐵子に提出する日記の文章も、故郷の方言が丸出しになっている。もちろん、彼女とて客をとるときまで方言丸出しで喋ることはないだろうし、客に出す手紙にしても同様だろう。だが、そもそも本書のそれぞれの章につけられているタイトルが、イチの訛り言葉で統一されているところからも、本書における方言の位置づけの重要性が見て取れる。

 そんなイチの対極に位置する人物が、彼女を部屋子として預かることになった東雲という名の花魁である。東雲楼のトップに君臨する彼女の言葉は、仕事以外のときもほぼ完璧な廓言葉で統一されており、それは同時に、東雲にとっての「世界」が遊郭という、ごく狭い、そしてきわめて特殊な世界のなかで完結してしまっていることを象徴している。もちろん、東雲にも生まれ故郷があり、両親につけられた本来の名前があるはずなのだが、イチとは異なり、そうした本来の彼女を思わせる要素が本書のなかで提示されることは、ほとんどないと言っていい。

「遊女の嘘は美徳……。花魁の嘘はこの世の最高の美徳でありんす」

 東雲という源氏名が遊郭の中でしか通用しない記号であるように、遊郭の世界は世間から隔絶された、ある種の虚構によって成り立っているところがある。春をひさぐ遊女たちの表情、態度、あえぎ声から情感にいたるまで、すべてが計算しつくされた技術であり、そこに個人としての要素が入り込む余地はない。東雲という花魁は、男に金で買われる時間以外は自由であり、娼妓ほど自由な女はいないと語るが、そもそも遊女であることそのものが、遊郭から外に出ることもかなわないきわめて不自由な存在であることに気づいていない。いっぽうのイチは、そうした不自由さをごまかすことをしないまま、常に反発し、あるいは心に不平不満をため込んでいる。彼女のいつまで経っても抜け切らない訛りは、自由のない自分の境遇に対する怒りを代弁するかのようである。

 私は本書を青井イチの成長の物語と位置づけたが、彼女の立ち位置という意味では、物語の冒頭からほとんど変わらないところにいると言ってもいい。変わるのはむしろ、そんなイチと接する東雲であり、赤江鐵子であり、さらには遊郭そのもの、時代さえも確実に移り変わっていく。じっさい、閉鎖された世界である遊郭でも、耶蘇教のひそかな信仰や救世軍の存在、さらには同じ花魁である紫の妊娠騒動やあいつぐ遊女の逃亡など、変化の兆しは本書のあちこちに見受けられる。そんななかにあって、主要な登場人物たちが何を思い、どのような行動をとることになるのかが、本書の大きな読みどころのひとつとなっている。

 本書の時代における女性の立場は、今と比べれははるかに低い。東雲が「牛馬と同じ」と軽んじる世の婦人にしろ、遊郭に売られ、借金で縛られている娼妓にしろ、その選択権が大きく制限されているのは同じことである。たしかにイチのいる遊郭では、遊女となるための教養を学ぶための場があり、彼女は読み書きや帳簿の計算といった知識を得ることができる。だが、せっかく得たその知識も、遊女という立場にいる以上、客をもてなす以上の役には立てられない。そしてそれ以上に、地方の貧困のひどさという問題があり、それが娘を遊郭に売るという流れを形作っている。

 まさに時代が悪いとしか言いようのない世界のなかで、それでも懸命に生きようとする女たちの姿が、本書のなかにはたしかに描かれている。本書のタイトルである「ゆうじょこう」は、漢字に置き換えれば「遊女考」ということになるのだろうが、あえてひらがなで書かれたこのタイトルは、まさにイチにとっての「遊女とは何か」を意味するものである。そしてそれは、彼女が出会ってきた人たちから吸収した、さまざまな「遊女」の姿が入り混じったものでもある。はたしてイチは、故郷を遠く離れた遊郭でどんな遊女となっていくのか、そして明治という時代が遊郭という存在にどのような影響をおよぼすことになるのか、ぜひたしかめてほしい。(2013.09.04)

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