【講談社】
『妖都』

津原泰水著 



 はじめ言葉ありき、という聖書のことばは、ある意味で真実を突いている。人間は言葉という道具を発明し、混沌の海に名前を付けていくことによって、世界を固定化し、境界をつくっていった。名づけによる世界の安定化――ゆえに人間は、名前をつけられないもの、既存の価値観からは理解できないものに対して恐怖をいだく。もし、それが恐怖の本質であるとするなら、人間にとっての創生神話以前――言葉も名前もなく、あらゆる境界が容易にゆらぎ、けっして安定することのない混沌の闇は、いったいいかばかりの恐怖なのだろう。

 本書『妖都』には、これまでの私たちを支えている価値観では絶対に理解できない、異形、としか形容できないものが登場する。霊でもなく、生命でもなく、といって死体でもなく、幻でもない。ゾンビとか、生きる屍とかいった、すでに名づけられた存在ですらない。それらの姿は、見えない人にはまったく見えない。にもかかわらず、それらはたしかに実在し、生きている人間を次々と襲っていく。

 ヴィジュアル系ロックバンド「CRISIS」のボーカル、チェシャの突然の飛び降り自殺、そしてそれに前後して、都心部で急に増えはじめた、謎の自殺や事故。徐々にその数を増していくそれら――"死者"――の姿を見ることができる周防馨は、そんな"死者"に襲われていた鞠谷雛子を偶然に助けることになる。だが、そんな雛子はある事件をきっかけに予想もしない変貌をとげることになる。一方で、死んだチェシャのラストアルバム「妖都」の曲の中に、気になるフレーズを聴き取った馨は、チェシャのことを調べようと「CRISIS」のメンバーとの接触を試みるが……。

 昼と夜の境界、男と女の境界、夢と現の境界、そして生と死の境界――本書を読み進めていくにつれ、何かと何かの境目にあるもの、もしくは相反する要素の中間にあるものがことさらに強調されていることに気づく。"死者"という異形の存在が、その最たる例だろう。死んでいるのに生きている、目に見えないのに幻ではない――「死体」だとか「霊」だとか「魂」だとかいった言葉で固定化できないそれらの存在は、私たちに原初以前のはるかな記憶を呼びさます。

 そのとき私たちが感じるのは、はたして恐怖だけだろうか。

 生と死の境界をなくし、死者の国を築く――そういった意味では、坂東眞砂子の『死国』に通じるものがあるのかもしれない。だが、ここで重要なのは、『死国』の日浦莎代里があくまで「死者」と「生者」という枠組から逃れることができなかったのに対し、本書では「死者」「生者」といった区別そのものが無意味である、という点なのだ。
 チェシャは死んだ。だが、彼の自殺を、言葉が持つ意味上の「死」で片づけることに、もはやなんの意味もない。彼が本書で引き起こした事件、それは、言葉によって区切られたあらゆる境界線を取り払い、完全な無でありながらあらゆる要素をはらんでいる世界への回帰である。

 もう一度問う。そのとき私たちが感じるのは、はたして恐怖だけだろうか。

 死なないヒナ。混沌の時代。生命サイクル以前。
 いや、歴史にそんな段階が存在するはずがない。存在するとしたら、特例的な、超自然的な……現代じゃないか。この二十世紀末だ。――
(中略)――立方体のパズルが完成した。
 美しい。
 特例的な超自然の時制とは、まさに現在の東京だ。消費の快楽と恐怖。欲望の内燃。無数の不可解な死。

 さまざまな価値観が容易に崩壊していく現代、確かなものなど何ひとつ存在しない現代のなかで、あるいは人々は、そんな世界への羨望を抱いてはいないだろうか。このどうしようもなくなったように見える今の世界を、一度完全に無の状態にしたい、という欲望――そんな自分の心の声に気づいたとき、本書の恐怖は現実のものとなって読者を襲う。

 何かと何かのはざまには、充分に注意したほうがいい。"死者"はあるいは、あなたの心が持つ、正気と狂気のはざまにこそ存在するのかもしれないのだから。(1999.07.11)

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