【早川書房】
『あなたの人生の物語』

テッド・チャン著/浅倉久志他訳 



 SFとは何か、ということについては、それこそさまざまな立場の人が多くの意見を述べており、またSFと呼ばれるジャンルの幅もずいぶん拡大解釈がなされていて(なにせ、古川日出男の『アラビアの夜の種族』が日本SF大賞を受賞する時代である)、実際は「その作品はSFか否か」というよりも、むしろ「その作品はどの程度SFなのか」といった定義づけのほうがしっくりくるような現状であるが、仮にSFが「Science Fiction」の略であると定義するなら、より重点が置かれるべきなのは「サイエンス」のほうではなく、むしろ「フィクション」のほうではないか、と個人的には考えている。

 現在実現されていない、あるいはまだ発見されていない科学技術が作中に登場する空想文学――これがおそらく、SFの根底にあるものである。そういう意味では、たとえば、あくまで私たちの生きる現代社会をベースに、そこにポンと「未知のテクノロジー」が放り込まれたとき、人々がどのような反応を示すのかを描いた作品も、「未知のテクノロジー」があたり前のようにその社会に浸透している仮想世界を描いた作品も、同じSFとみなすのは、けっして間違ってはいない。だが、そもそも私たちが小説を読む理由のひとつとして、「センス・オブ・ワンダー」を楽しむというのがある以上、どちらがより驚きや不思議を感じるかと言えば、きっと後者のほうではないかと私は思うのだ。なぜなら、人間の心理については私たちも想像しやすいが、私たちの生きる社会全体が「未知のテクノロジー」という要素をくわえることでどのような変化をとげるのか、ということについては、私たちにはなかなか想像できない部分だからである。そして、そうした仮想世界となんら具体的な説明なしに対峙したときに生じる違和感は、読者にとってはたしかにひとつの衝撃であることを、私たちは否定できないのである。

 SFにとって、それが科学的に整合性があるかどうかは、じつはあまり重要ではない。大切なのは、その作品の生み出す仮想世界が、どれだけの「センス・オブ・ワンダー」を感じさせるものであるか――本書『あなたの人生の物語』は、八つの短編を収めた作品集であるが、そのどれひとつをとってみても、驚くべき仮想世界が、その世界ではあたり前のこととして展開されている。その点において、本書はまさにSFの申し子とも言うべき作品だと言うことができる。

 『バビロンの塔』は、天を目指して建設されていく塔の話だが、この話の中の人々は、旧約聖書のバベルの塔のように神の怒りを買うようなこともなく、月よりも太陽よりも、星々よりも高いところにある「空の丸天井」まで到達してしまう。エラムの鉱夫ヒラルムは、その丸天井に穴をうがつ鉱夫として、その塔の頂上まで向かうことになるが、その過程において、文字どおり月や太陽の横を通り過ぎていく場面があり、その世界が私たちの住む宇宙とはまったく異質なものであることがわかるようになっている。
 同じようなことは他の作品にもあてはめることができる。『七十二文字』の世界では、無機物に「名辞」と呼ばれる言葉をあたえることで、私たちが知るところのロボットを作成する「命名師」なる職業が活躍しているし、『地獄とは神の不在なり』では、「天使」が一種の自然災害として実在する世界が描かれている。『人類科学の進化』は科学記事風に書かれたごく短い作品だが、その記事の背景から、超人類たちがそれまでの科学者の仕事の大半を担い、ごく普通の人類との科学知識の差が著しく開いてしまった世界を垣間見ることができる。

 これらの作品に共通して言えるのは、私たちが常識だと考えているこの現実世界とは、あきらかに何かが異なっているその作品世界について、「なぜ」という疑問を満足させるような記述がまったくされていない、という点である。その作品世界に生きる人々は、私たちが異質だと感じる世界観を、まぎれもない生きた現実としてとらえて生きているわけであり、そういう認識は、よくよく考えてみれば当然のことなのだが、読者は本書の短編を通して、まるでのぞき穴から別世界を覗いているかのような、不思議な感覚を味わうことができるようになっているのだ。

 いっぽう、本書の表題にもなっている『あなたの人生の物語』は、異星人とのファーストコンタクトという意味では立派なSFではあるが、この作品世界では私たちのよく知る現実世界が舞台となっており、どちらかというと、前述した「異世界を垣間見るような驚き」を味わうたぐいの作品ではない。ただ、この作品を読んでいくうちに、読者はまったく別の意味で奇妙な感覚に陥ることになるだろう。なぜなら、一人称の語り手である言語学者のルイーズ・バンクスが、異星人とのコンタクトのことを語りながら、同時に自分の娘のことについて、まるで回想しているかのように語っており、その作品世界における「現在」の基準がまるでつかめないからである。

 この作品で読者が味わうことになるのは、異なる世界に触れることで生じる驚きではなく、異なる「認識」と触れることで生じる驚きだ。私たち人間は、さまざまな因果関係から時間という認識を生み出したが、それとはまったく異なる、異星人の同時直感的認識の存在――それはたとえば『理解』のなかで超知能を手に入れたある男が、おのれの精神活動のすべてを文字どおり「理解」することで、私たちとはまったく次元の異なる認識モードに至ってしまったり、『ゼロで割る』のなかである数学教授が、数学の矛盾性を完全に証明する数式を発見してしまったり、あるいは『顔の美醜について』のなかで多くの人たちが、美人・不美人の判断がつかなくなる装置の是非をめぐってさまざまな意見を戦わせたりするのをまのあたりにしたときに生じる驚きと同じものである。むしろ、私たちがあたり前だと思っていた現実認識に対して、大きなゆさぶりをかけてくる、という意味では、異世界と接する以上の衝撃があると言えよう。そしてそのゆさぶりは、それぞれの作品の登場人物たちにとっても、けっして無関係ではないのだ。

 たとえば、神は慈悲深くも優しくもないという事実を知りながら、それでも神を愛せずにはいられなくなった男、たとえば、思いがけず自分の住む世界の仕組みを知ってしまった男、たとえば、時間軸という認識から解放され、過去も未来も存在しない考え方を知ってしまった女――本書におさめられた短編集に登場する人たちは、その良し悪しはともかく、それまでの自分がもっていた価値観を根底からくつがえされるような事実を知り、そのことによって自身の性質もまた変容せざるをえない立場に置かれてしまうことになる。そうした人間の認識の変容について、私たちがもっとも現実的にありえそうだと考えるのは、おそらく宇宙から地球を眺めることと、いわゆる臨死体験くらいのものだろうと思うのだが、もちろん、私たちの誰もがそうした心の変化を体験できるわけではない。そう考えたとき、私たちがSFというジャンルの作品に求めるのは、まさに自身の存在がゆさぶられるような「センス・オブ・ワンダー」の疑似体験であり、本書はまぎれもなくその条件を満たした作品なのである。

 SFに対する認識が広く浅くなっていくにつれて、SFと呼ばれる作品の質も、同じように薄くなっているのではないか、という思いは、ずいぶん以前から感じていたことでもあった。もちろん、あまりに難解すぎたり、多くの科学的知識が必要だったりするハードなSFであればいいとは思っていないが、かつての海外SFには、まさに私たちの知らない世界を垣間見せてくれるような作品がいくつもあった。本書は、私がひさしぶりに本物のSFだと感じた作品であることを、ここに明示しておこう。SFファンの方、あるいはかつてはSFファンだった方すべてに本書をお勧めしたい。(2004.02.07)

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