【新潮社】
『きみの友だち』

重松清著 



 子どもの頃と比べて、大人になるといろいろな方面の人間と付き合う機会が多くなった。だが、そんな彼らとの関係を、子どもの頃に築いた友人関係と同じように思うことはほとんどない。もちろん、仲のいい人たちはいる。なんとなく気が合うなと感じる人もいる。だが、どれだけ仲が良くなっても、それはあくまで仕事や趣味の関係上のものだという意識が常にある。それゆえに一度そこから離れてしまうと、わりと良好な関係を築いていたとしてもそれっきりになってしまうことがしばしばだ。そしてそうなったとしても、さほど残念に思っていない自分がそこにいたりもする。

 他の人たちのことはわからない。だが、少なくとも私自身の心のうちに問いかけたときに見えてくるものは、その人間関係が自分にとってどれだけ有益であるか、という損得勘定のようなものだと言える。人との付き合いにおいて、相性がいいとか気が合うというのは重要なことではあるが、その上にあるものとして、何らかの「付き合い」が絡んでくることを否定することはできない。それが良いか悪いかは置いておくとして、そんなふうに考えたときに、自分の子どもの頃に、誰かと友だちとなるのにそうした損得勘定といったものを、どれだけ意識していただろうか、とふと思うことがある。

 好き嫌いという感情はあっただろう。嫌な奴というのは、子どもだからこそ敏感なところがあるものだ。だが、少なくとも誰かと友だちになるのに、そのことが自分の立場をどう変えるか、とかいった打算を前提に友だち付き合いをしていたという記憶は、私にはない。そういう意味で、子どもの頃に友人だった人たちとのつながりというのは、かけがえのないものなんだとつくづく思い知らされる。

 きみは「みんな」を信じないし、頼らない。一人ひとりの子は悪くない。でも、その子が「みんな」の中にいるかぎり、きみは笑顔を向けない。

(『花いちもんめ』より)

 本書『きみの友だち』は、10の短編を収めた連作短編集という形をとってはいるが、それらの短編は短編というよりも、むしろひとつの長編における章としての役割を負っていると言える。主役となる人物は、短編ごとに異なる。だが、その登場人物たちは短編のあいだでまったくの無関係というわけではなく、むしろ密接な関係において結びついている。そして作品全体をつうじて、まず見えてくる大きな特長として、それぞれの短編における主人公に対して「きみ」と呼びかける人物の存在がある。

 小説において二人称で書かれているものはいくつかあるが、本書における二人称形式は、これらの短編の書き手である人物を、ことさら読者に意識させるためのものだ。そしてここでいう短編の書き手とは、作者重松清のことではなく、あくまで作中内人物のひとりとして設定されているところがある。はたしてその人物とは誰なのか、そして彼は何のためにこれらの物語を書くことになったのか――その謎については、本書の一番最後に載っている短編へとつながる重要な伏線にもなっているのだが、ひとつだけわかるのは、その彼が「きみ」と語りかける人物は、短編ごとに異なってはいるものの、その視線の向かう先は常にひとりしかいない、ということである。そしてその「ひとり」こそ、和泉恵美という女性だ。

 つまり本書は、一貫して和泉恵美の物語という捉えかたもできるのである。彼女は短編の一番最初にある『あいあい傘』という作品の主役であり、そのなかで小学四年の恵美は交通事故に遭い、左脚の自由を失うというハンディーを負うことで、同じクラスの病気がちな女の子である楠原由香との親交を深めることになる。そして、そうした関係にいたる過程には、不特定多数の「みんな」への不信がある。

 ここでいう「みんな」とは、たとえば「クラスメイト」といった漠然とした集団のことを指す。同じクラスメイトであるからには、誰もが友だちであり、仲良くすべきだというのが建前となっているが、なかば自業自得とはいえ、脚の自由と同時にかつて仲良しだと思っていたクラスメイトとの関係も失くしてしまったときに、彼女はあらためて「友だち」とは何なのか、という命題に直面せざるを得なくなった。

「わたしは、一緒にいなくても寂しくない相手のこと、友だちって思うけど」

(『にゃんこの目』より)

 本書における和泉恵美と楠原由香との関係を、言葉で説明するのは難しいが、単純に「友だち」とか「親友」とかいう表現を使ってしまうと、とたんにその本質が失われてしまうようなものが、そこにはたしかにある。そして恵美が直面した「友だち」とは何なのか、という命題は、じつは本書に収められた短編すべてを貫いている命題でもある。たとえば『ふらふら』に登場する、八方美人で誰にも嫌われないように立ち回っている堀田芳美。たとえば『にゃんこの目』に登場する、親友だと思っていた子に恋人ができて以来、その関係がギクシャクしてきている花井さん。あるいは『千羽鶴』で、いじめが原因で転校したことをひた隠しにしながら、しかしそのことが原因で臆病になってしまうことを怖れている西村さん――いずれも、不特定多数の「みんな」から外れてひとりぼっちになることを怖れ、それゆえに必要以上にクラスメイトとの関係性を「友だち」という言葉で確認せずにはいられない女の子たちばかりである。そして彼女たちの視線の先には、まるで南海の孤島の住人のように、常に寄り添っている恵美と由香の姿がある。

 和泉恵美は、いずれの短編のなかにも登場する。そして彼女が登場するかたわらには、楠原由香の姿がある。それと似たような関係を築いているのが、恵美の弟である和泉文彦と中西基哉である。基哉は『ねじれの位置』という短編で、文彦が小学五年のときに転校してきた子であり、やることなすこと文彦以上のものを見せるデキる生徒だった。それまでクラスの優等生的な立場にあった文彦は、そのことがなんとなく気に入らない。やがてふたりは親友としてお互いを認めながら、同時にライバルとして刺激しあうような仲になっていくが、そこにもたんに「親友」とか「ライバル」とかいった言葉では説明しきれない何かがある。そして、そんなふたりの関係にあこがれる『ぐりこ』の冴えない三好くんや、ふたりのサッカー部での活躍で三年間レギュラーになれなかった、『別れの曲』に登場する佐藤先輩といったキャラクターが重なっていく。

 恵美の「みんな」が嫌いだというメッセージは、同著者の『青い鳥』のなかにも出てくる。共通しているのは、「みんな」には特定の個人が見えない、ということだ。恵美以外の登場人物が主役の短編において、彼女は常に「みんなって誰」と問いかける役を担う。その問いかけは、当然のことながら私たち読者にも投げかけられている。だからこそ私は、自分の友人関係のことを思い出さずにはいられなくなる。はたして私には、恵美と由香のような、あるいは文彦と基哉のような関係を築いた「友だち」がいたのだろうか、と。

 今の私はもう子どもではない。そうである以上、子どもの頃のような人間関係を築いていくことはできない。そのことを哀しく思うようなものが、本書のなかにはある。だが、同時にそれでもいいんだと思えるようなものも、たしかにあるのだ。本書のタイトルにもなっている『きみの友だち』の、「友だち」が本当に指しているものを、ぜひたしかめてもらいたい。(2010.01.20)

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