【河出書房新社】
『ユルスナールの靴』

須賀敦子著 



 自分は何者なのか、どのような生き方をすべきなのか、そしてこれからの人生に対して、どんな態度でのぞめばいいのか――私はまだ20代の若輩者でしかないが、その日その日を夢中で生きながらも、心のどこかでそのような命題と絶えずぶつかっている自分の存在を知っている。そしてそのような自分への問いかけは、たとえ60代、70代の人であっても、やはり同じように繰り返され、同じようにこれからの時間について考えるに違いない。自分の生き方はこれで正しかったのか、何か大切なものを忘れてしまったのではないか――私は思う、いったいどれだけの人が、自分の全生涯に何ひとつ悔いを残すことなく、迷いのない足取りで自分の人生を歩いていけるのだろうか、と。

「読書は自分自身の経験の限界を超え、他者の経験に深くかかわる唯一の方法なのだ」と書いたのは、オリヴィア・ゴールドスミスの『ザ・ベストセラー』であるが、そうした読書のなかで、もし自分とよく似た人と出会うことがあるとすれば、その読者にとっては大きな幸いであろう。なぜならその瞬間、読者は自分がけっして孤独ではないこと、この心の闇を抱えているのは自分ひとりだけでない、ということを理屈抜きで悟るからである。それは同時に、自分自身の再認識であり、またそれまでの生き方を確認する作業でもあるのだ。

 本書『ユルスナールの靴』の著者である須賀敦子にとって、20世紀のフランスを代表する女性作家のひとりであるマルグリット・ユルスナールは、まさに「もうひとりの自分」とも言うべき人物だったに違いない。もっとも、著者が実際に彼女の小説を手にとって読みはじめるまでには長い時間が必要だったようだ。もし、イタリアの友人がぜひ読んでほしい、とユルスナールが著した自伝的短編集『恭しい追憶』を渡さなければ、あるいは著者は一生ユルスナールの作品を読むことはなかったかもしれないし、そうなれば、本書もけっして書かれることはなかっただろう。本書に書かれているのは、つまりユルスナールという作家の書いた作品の紹介であり、またユルスナール自身の伝記なのだ。そして、彼女の作品を次々と紹介しながら、まるでエッセイのように自身のことについても絡めていき、最後にはユルスナールの後を追うようにしてギリシアへ、さらには北米メイン州の小さな島にまで旅をした須賀敦子自身の自伝でもある。

 作者がある歴史上の人物にこのうえない興味を抱く、そしてその人物の生涯を自分なりに吸収し、ひとつの物語にする、というのは、けっして珍しいことではない。本書における須賀敦子とユルスナールの関係は、ふたりともほぼ同時代を生きた人ではあるが、けっきょくのところ紙上の記録をもってしか相手と接することができなかった、という点では同じことだと言えるだろう。だが、著者はユルスナールという人物を、けっして彼女の中の虚構としてとらえるようなことはしない。著者の文章はあくまで客観的であり、けっして感情に流されることなく、ただ知り得た事実だけを――周囲の風景を、残された記録を、そして自分がそのとき何を考え、どう思ったのかを書くことに徹している。それでいて、著者とユルスナールとの距離が、けっして隔たっているというわけでもない。著者が描くイタリアも、旅先の遺跡も、まさに著者でなければ描くことのできない表現として収まっている。このうえなく愛しながらも、それを自身の虚構ではなく、たしかな現実としてとらえようとするその徹底ぶりは、本書を小説とも、エッセイとも、紀行文とも自叙伝とも異なる、しかし非常に精錬された作品に仕上げている。

 須賀敦子が文章を書きはじめたのは、彼女が61歳のとき、1990年に書いた処女作『ミラノ 霧の風景』における女流文学賞によって文壇デビューをはたしている。60代での文壇デビューというのも異例ではあるが、彼女の心が日本という生まれ故郷よりも、むしろイタリアを中心としたヨーロッパのほうに向いていることもまた、特異なことであろう。イタリア人と結婚するものの、6年後にはその夫を失い、また、精神的な拠り所でもあったコルシア書店の仲間たちとも別れなければならなかった須賀敦子は、常に自分の居場所というものを探してきた、漂流者のような印象を強く受ける。実際、イタリアやフランスに留学していた頃の彼女は、精力的にいろいろな国に旅行に出かけていたようであるし、本書のなかでも、著者はフランスの友人から「ノマッド(放浪者)」のようだ、あなたに旅は似合っている、と言われている。
 そんな著者にとって、もともとフランス系ベルギーの貴族の生まれでありながら、けっしてひとところにとどまることなく、精力的に旅をつづけてはその先で執筆活動をしてきたというユルスナールは、どのように映ったのだろうか。あるいは、と私は思う。自分の居場所はどこなのか、自分はどのように生きるべきなのか、ということに目を向けてきた須賀敦子は、旅をすること、放浪することそれ自体がひとつの居場所であった、強い精神をもつユルスナールを見たのではなかったか。

 何かを失うということ――著者もユルスナールも、自分にとって大切な者を失い、しかしそれでも自分の足で立って歩いていこうとする孤独のなかにいる。その喪失の悲しみは、けっして情熱的に書かれるのではなく、あくまで静かで、繊細であり、だからこそ深く読者の心を打つものがある。そして、本書の冒頭で、自分の足にぴったりと合う靴、どこまでも歩いていける靴がほしいと語った著者は、最後に、ユルスナールがその晩年に履いた「横でパチンととめる、小学生みたいな、やわらかい革の靴」と出会うことになった。それはまさに、須賀敦子にとっての自分の再認識であり、自分の生き方の再確認であり、そしてこれからの人生をどのように過ごしていくかの、大きな指針であったに違いない。(2001.10.08)

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