【筑摩書房】
『誘拐』

本田靖春著 

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 最初の章につけられたタイトルは、「発端」である。東京都台東区にある入谷南公園に視点を置き、そこに立ち寄った人たちがどんな人物で、何をしていたのか、またそのとき何を考えていたのかが次々と列挙されていく。その新聞記事を思わせるような描写の仕方と、冒頭に「捜査員の聞き込み」という一文があることから、何か事件的なものを連想させるのだが、話題はいったん入谷南公園がそこにつくられることになる過去の経緯や、その公園の近くに住む村越家のこと、さらにそこから離れて、唐突に小原保という人物へと焦点が移っていき、ようやく警視庁捜査一課という単語が飛び込んでくる。そしてそれは、何かの事件が発生したことを示す決定打でもある。

 昭和三十八年三月三十一日という日付に、あるいは何らかの記憶を掘り起こされる方もいらっしゃるかもしれない。今回紹介する本書『誘拐』は、のちに「吉展ちゃん事件」とも呼ばれるようになるひとつの誘拐事件を扱ったノンフィクションであるが、ある過去の出来事に対して、その展開や当時の世相などを臨場感とともに再現することがノンフィクションの要素であるとすれば、本書はまぎれもなくそのことに成功した作品だと言うことができる。

 まだ五歳にもなっていない幼児が身代金目当てに誘拐され、その後の警察側の対応のまずさもあって、用意された身代金をみすみす犯人に奪われたあげく、二年近くも犯人を特定できなかったというその事件は、幼児殺害という結果に終わったことも含め、概略だけをとらえるなら、犯人のしでかしたことは鬼畜にも劣る所業でしかなく、犯人に死刑判決が下されたというのは至極まっとうな、自業自得だという認識しか起こりえないものである。じっさい、本書を読んでいくと、その事件の犯人である小原保はおよそ金に対してだらしなく、あちこちで無計画に借金してまわったり、人のものを勝手に売りさばいてその金を使い込んでしまったり、といったことを繰り返しており、また有力な容疑者として二度の取り調べを受けたさいも、自分は事件とは無関係だという態度を取りつづけたりしたことを知るにつけ、およそ自分に対してこのうえなく甘い、自分勝手な人間という印象を受けざるをえない。だが、同時にこの事件の全容が見えてくるにつれて、そうした極悪な犯人像とはまた違った視点が、おのずと生まれてくることを否定できなくなる。

 私は本書の事件に関して、事前の知識がまったくない状態で本書と対峙することとなった。それゆえにわかるのだが、幼児誘拐の犯人が誰なのか、その決定的な鍵となるものが終盤近くにならないと見えてこないような構成をとっている。むろん、さまざまな状況から非常に怪しい人物として、小原保の名前は当初から挙がってはいるものの、それでもなお間違いなくクロだという確証をとることができない警察側の状況もまた、このうえない緻密さと客観性をもって書かれている。おそらく、当時の状況も、これと同じであったろうことは、容易に想像できる。それは、事件のことを事前に知っており、犯人もあらかじめわかっている読者には味わうことのできない、一度限りの臨場感、緊迫感を本書から感じとることが可能であることを示している。

 事件そのものにかんしては過去のものであり、ひとつの決着がつけられている。当時の日本の社会を大きく巻き込んで話題とはなったものの、それはすでに終わったことであり、私自身で言えば、まだ生まれてもいない頃の遠い事件でしかない。にもかかわらず、著者が本書でこの誘拐事件のことをとりあげたのは、そうした司法的な決着だけでは納得のいかない部分を、事件のなかに感じたからに他ならない。そういう意味で、六つの章で構成されている本書の最初の章に入っている「発端」という言葉は、たんに事件のはじまりをしめす以上の意味を含んでいる。

 それにしても、犯人の要求する五十万という金額は、庶民の生活感覚からは大金であるに違いないとしても、大きなリスクをおかさなければならない彼の危険の報酬にしては、あまりにも少額に過ぎるように思われた。

 事件の全容がわかってしまえば、犯人の小原保は、けっしてすべてを計画的に行なったわけではないことが見えてくる。およそその性格がしめすとおり、ある程度は行き当たりばったりのところがあり、たんに彼の運が良かったということと、身代金引渡しのさいの致命的なミスをはじめ、警察側のいくつもの過誤によるところも大きい。なぜ事件がここまで大きくなってしまったのか、警察の捜査はどうだったのか、という疑問はもちろん著者にもあっただろうが、それ以上に、なぜ彼が幼児誘拐を思いつくことになったのか、それも、多分に運まかせの部分がある誘拐に手を出すことになったのか、ということのほうが大きかったのではないか、と愚考する。そしてその発端を探るために、本書は小原保の過去へと遡っていく。そこから見えてくるのは、この日本の社会がかかえていた――そして今もなおかかえこんでいる陰の部分である。

 本書の解説で佐野眞一も書いているように、昭和三十八年という時代はまさに高度経済成長まっさかりの時期に当たる。東京オリンピック開催直前という、おそらく日本じゅうが沸き立っていたであろうそのいっぽうで、そうした経済的恩恵にあずかれなかった貧困層や、弱者とならざるを得なかった人たちの姿を本書はしっかりととらえている。幼いころに骨髄炎をわずらい、身体に障害を残すことになった小原保――そんな彼を含めた一族を、「悪い血が流れている」と陰で揶揄する地方独自の閉鎖性や、事件が発生し公開捜査に踏み切ってから、辛い思いをしているはずの被害者家族に対する匿名の誹謗中傷、名もなき人たちの残忍さなどに触れるにつけ、この事件の本当の被害者は誰だったのか、という疑問と読者は向き合わなければならなくなるのだ。

 じっさい、本書をとおして読んでいくことで、私たちはいくつもの側面をもつ小原保をまのあたりにすることになる。それは残忍な犯人としての小原保であり、大言壮語ばかりを口にするいい加減な男としての小原保であり、後天的な障害にコンプレックスを隠せない気弱な小原保であり、また細やかな気配りと、ささやかなことに感動を覚える人間らしさをもつ小原保である。それどれが彼の本質なのか、ということについて、著者は何も語らない。ただ自身が見聞きしたこと、調査したことをそのまま提示することで、あくまで書き手としての自分の印象を遠ざけようとする姿勢が本書のなかにはたしかにある。そしてそれは、ノンフィクションとしてはまさしく正統な態度でもある。

 ある事件に対して、その背景に何があったのか、そしてその中心人物や、それに巻き込まれた人たちが何を考え、どうしてそうした行動をとったのかを、細大漏らさず書いていくことで、はじめて見えてくるものがある。社会のなかで生きていく人たちに、突如として起こる悲劇――そのそもそもの「発端」を探ろうとする人間の、良くも悪くも人間らしい思いを、ぜひとも感じとってもらいたい。(2010.01.04)

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