【角川春樹事務所】
『吉野弘詩集』

吉野弘著 



 およそ詩でも小説でも、あるいは論文でも俳句でもかまわないのだが、文字という表現形式のみを用いて何かを表現したことのある人なら、それがいかに多くの困難をともなう作業であるか、ということを実感しているに違いない。ふだん、私たちが慣れ親しみ、あたり前のように使っている言葉――だが、いざその言葉を用いて自分の気持ちを表現しようと試みたとき、言葉はとたんに私たちの意思を裏切り、まったく予想もしない方向へと走り出してしまう。まるで、深夜に恋の熱にうかされてしたためたラブレターが、朝の光を前にして魔法が解けるように、陳腐な言葉の羅列へと変わっていくかのような、なんとも歯がゆい気持ちを思うとき、詩人という、もっとも巧みに言葉を操る人たちの作品に、私たちはあらためて尊敬の念を抱かずにはいられなくなる。

 短歌や俳句よりも自由度が高く、小説よりも限られた文章で、独自の世界を築いていく詩――本書『吉野弘詩集』という、なんとも味も素っ気もないタイトルとはうらはらに、そこに収められている数多くの作品たちは、季節の移り変わりや自然、あるいは身近な日常やちょっとした出来事といったものを題材にしながら、そこから思いもよらない物事の本質を照らし出す、言葉の躍動感に溢れていて、普段はあまり詩と馴染みのない私にさえ、その表現の可能性の大きさを期待させてしまうものがある。

 詩の世界で展開されるのは、厳密に区分された言葉の意味や、言葉どおしの法則性を裏切ることで生まれてくる、新しいイメージである。たとえば「雨が降る」と言えば、誰もが降雨という自然現象を思い浮かべるだろう。これは、私たちが「雨は空から降ってくるものだ」という既存の価値観に支配されているからであるが、詩の世界ではこうした言葉の意味や法則性はすみやかに解体される。そこでは、たとえば「雨が死ぬ」という、言葉どおしが齟齬をきたす結びつきがあたり前のように起こる。だが、その齟齬から、それまでは見えなかった何かが導き出されてくることもある。そういう意味では、詩は言葉を材料とした壮大な実験場だと言うこともできるだろう。

 吉野弘の詩はけっして難しくはない。その世界は実験場というより、むしろいとおしみとともに何かを育てていく家庭菜園のような趣きがある。擬人法という比喩表現が多く用いられているというのもひとつの特長だろう。擬人法とは、動植物や無機物を、あたかも人間であるかのように表現する技法で、一見すると物事すべてを人間本位に解釈しかねない擬人法を多用した著者の詩が、けっして嫌味にも、またいかにもありがちな比喩に終わってしまうこともないのは、おそらく著者が詩を用いて解体しようとしているものが、言葉の意味や法則性ではなく、言葉によって「人間」という立場を押しつけられた、私たちの心であるからだろう。

 人間も動物も植物も、そして機械や自然現象といったものまで、すべてをまったく同じ土俵の上にのせて語る著者の作品は、だからこそ無限の包容力に満ちている。そこにはおそらく「自分」とか「他人」とかいった意識も存在しないのではないだろうか。著者の想像力は自由な翼を得てはばたき、この世に存在するあらゆるものの素朴な想いの代弁者となる。そして、代弁された詩という名の言葉は、ときに私たちの心のくぼみに、まるであつらえたかのようにコトリとはまり込む。その感触は、とても素晴らしいものだ。

言葉が少しの障害にも出会わず或るものに届く
同質の世界があるのだ

(「貝のヒント」より)

 本書に収められた詩はいくつかのグループ分けがなされているが、そのなかに「漢字遊び」という章がある。これは、漢字をいくつかの記号に分解したり、形のよく似た漢字どおしを結びつけたりすることで生まれた詩を集めたものだ。例として「同類」というタイトルの詩を下に挙げておく。

脳も胸も、その図らいも
凶器の隠し場所

(「同類」より)

 詩というのは読むもの、という意識を見事に裏切ってくれた、いわば「見て楽しむ詩」――「解説」で清水哲男や山田太一も述べていることだが、「うまいなあ」という言葉が、そのまま素直に口をついて出てしまう。そして同時に、吉野弘もまた、まぎれもなく「もっとも巧みに言葉を操る人」だと納得させられる。ただし、彼は言葉を道具として扱うのではなく、その性質を理解し、その意志を尊重しつつ、そこからさらに一歩飛躍させることのできる詩人なのだ。

『1年1組せんせいあのね』という本が理論社から出版されている。これは、小学校1年の生徒が書いた詩を載せた詩集で、私も何度か大いに笑わせてもらったり、あるいはその新鮮な感覚に驚かされたりしながら読んだことがある。こうした子供の書いた詩が、ときに大人の心を強く打つのは、まだまだ経験の乏しい小学生の頭のなかで、それでも自分が感じた新鮮な感覚をなんとか表現しようと、それまで習った言葉の使い方ではない、まったく別の組み合わせを、おそらく無意識のうちにおこなっているからなのだろう。前述したように詩人とは「言葉を操る人」のことだが、本当の詩人の素質というのはあるいは、まだ柔軟な思考をもつ子供たちのなかにこそあるのではないか、と思うことがある。そして、吉野弘という詩人のなかにも、そうした子供の要素が残されているからこそ、これほど素晴らしい詩を多く残すことができたのではないだろうか。

 あなたの心のくぼみを埋めてくれる詩が、本書にはきっとあるに違いない。(2001.12.22)

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