【国書刊行会】
『夜の果てへの旅』

セリーヌ著/高坂和彦訳 



 たとえば、自分がどこかのビルの屋上にいると仮定しよう。そして今、あなたの目の前には、人生に絶望して飛び降り自殺をはかろうとしている人がいるとする。さて、ここで問題。あなたはどうすべきだろうか?
 ひとりの人間として理想的な回答があるとすれば、「自殺を止めようとする」が正解だろう。生きてさえいればいつかきっと良いことがある、死んでしまったらそれこそすべてが終わりだ――ごくごく月並みな説得の言葉であるが、少なくとも誰もが納得する、まっとうな対応であることは間違いない。人の命は何にもまして大切なものである、というのが、私たちの生きる社会の通念である以上、私たちはまさに今自殺しようとしている人を前にして、それを放っておくことができない、というのが人道ということになる。

 だが、実際の本音の部分としてはどうだろう。

 生きてさえいればきっと良いことがある、という言葉に嘘はない。誰も将来のことなどわからないのだから、もしかしたらこの先の人生にとんでもない幸運が待ち受けているかもしれない、という可能性はゼロではない。だが、この言葉がけっきょくのところ「一寸先は闇」ということと同義だということに、私たちは感づいている。幸福もあるかもしれない。だがそれ以上に多くの不幸が待っている可能性だって否定できないのだ。

 ある人間が、自らの意志でその命を断とうとしているからには、そこには他人にはあずかり知ることのできない絶望があるのだろう。そしてこの世の大抵の人間が、自分やその家族が生きていくのに精一杯だというのに、そのうえ他人の絶望になどかかわっていられない、という本音を隠し持ってもいる。自殺しようとしている人がいたとき、見て見ぬふりをする、あるいは何もしない――本書『夜の果てへの旅』という作品に書かれているのは、つまりはこうした人間の本音、腹黒く醜い利己主義的精神である。私たちはあたかもそんなものは存在しないかのように表面上はふるまっているが、じつはそれが、誰もが心の中に多かれ少なかれ抱え込んでいる闇であることを知っている。そういう意味では、その本音の部分をあらいざらい白日のもとにさらけだした著者はたしかに「呪われた作家」であり、本書は「虚無と幻滅の文学」だと言えるだろう。

 第一次世界大戦中、フランス軍兵士として戦場におもむいた語り手のバルタミュ・フェルディナンは、まさに死と隣り合わせに存在する人間のリアルな死を目の前にして、「愛国心」などという、表面上はあくま美しく気高い精神がまったくの無価値であることを思い知る。自分の体は自分だけのものであり、その自分の死に意味をくわえることができるのは、自分以外の何物でもでもない――敵であるドイツ軍の捕虜となることでなんとかこの戦場から生きて帰ろうと考えていながら、皮肉なことに名誉ある負傷兵として前線から離脱することができたバルタミュは、その代わりに一時的な精神錯乱をきたして精神病院へと送られることになる。そして、ここから彼の「夜の果て」をめぐる遍歴がはじまる。

 愛国心、博愛主義、勇気、正義、そして異性への愛情――人間が人間であるがゆえにもつことができる、自分以外の誰かのために何かをしてあげたいと願う心の作用を、バルタミュはまったくもって信用できなくなってしまっている。自分の生命の危機に直面したときに湧きおこる「死にたくない」という強烈な本能の前には、およそどれだけ高潔な精神もその意味を失ってしまう。そういう意味では、本書におけるバルタミュの遍歴は、「人はなぜ生きるのか」という問いかけに何らかの答えを見出すための遍歴だと言うことができる。

 遍歴先であるアフリカやアメリカといった大陸で、バルタミュはさまざまな人たちと出会う。彼らの大半は金と欲におぼれた、意地汚く自己中心的な人間たちであったが、それでもなお、掛け値なしの善意をもちつづけている人たちも皆無ではなかった。遠縁の娘が抱える小児マヒの治療のため、酷暑の密林での駐屯をつづけるアルシード伍長や、娼婦でありながらバルタミュの人柄を信じ、一途に愛したモリー ――彼らはたしかに、自分が人間として生きるためのはっきりとした理由をもった人物であったにもかかわらず、そんな彼らと対峙したバルタミュの心は虚無と幻滅をかかえたままである。かえって自分の抱える悪意に消沈し、ますます人間のことが、生きるということの意味がわからなくなって呆然としてしまうのだ。

 昔からおれは空っぽでいることがこわかった、つまり生きてるまっとうな理由を何ひとつもってないことが。いまじゃあおれは、自分が一文の価値もない人間だと言う厳然たる事実を前にしてた。いまにも存在しなくなりそうな感じだった。あっさりと。

 ことさら俗っぽい言葉遣いで喋り、ことあるごとに人間の利己主義、他人のことなど省みず、自分だけが得をすればいい、という卑しい心を毒づき、蛆虫だ、糞だとこきおろすバルタミュであるが、そんな彼がいったいどのような人物なのか、ということを考えたとき、そこに「バルタミュ」という個性がはなはだ希薄であることが見えてくる。そう、彼が探し求める「人はなぜ生きるのか」という問いかけは、そのまま自身のこの世界における存在意義へと直結しているのだ。バルタミュは人の心のなかにある本音の部分、ふだんは誰もが見て見ぬふりをしている心の闇へと踏み込んでは、その醜く歪んだ利己主義を暴いていく。だがそのことが、バルタミュの行動の原動力とならないのは、そのこと自体が目的だからだと言うことができる。別の言い方をするなら、彼はそうすることによってしか自分の存在意義を確認することができなかったのではないか。まるで、人の心が最低であることを知って、はじめて自身の立場に安心するかのように。

 アメリカでモリーと別れてから、バルタミュはフランスに戻って医師免許をとり、ランシーと呼ばれる郊外の町で医師として開業する。だが、そもそも自身が生きる理由を見出せないでいる人間が、人の命を救う医師になる、というのはなんという皮肉だろう。バルタミュは、真に貧しい人のために働く医師としても、あるいはひたすら利益を追求する悪徳医師としても中途半端なまま、精彩を欠いた生活をつづけていくことになる。ごく当然の帰結である。

 いたる所で閉め出しを食ってりゃあ、きっとそのうちに奴らを人でなしどもを一人残らず、震え上がらせる手を見つけられるだろうぜ、その手は夜の果てにあるに違いない。

 本書のなかにはバルタミュのほかにもうひとり、重要な位置をしめる登場人物がいる。レオン・ロバンソンという男は、戦場で出会ったのを皮切りに、ことあるごとにバルタミュの前に現われるのだが、どこか影の薄い語り手とは違って、ロバンソンの行動は非常に印象的だ。任された店の有り金を持ってトンズラしたり、金のために老婆を殺そうと計画したり、自分に惚れた女性にさんざん世話になっておきながら、いざ自分にとって必要なくなるととたんに邪険にあつかったりと、ずいぶんな悪人であるロバンソンであるが、少なくとも自らの欲望のために生きる、という明確な指針がある意味では、バルタミュとは対極に位置する人物である。そして、そんなロバンソンが最終的にたどることになる不幸を考えたとき、もしかしたらバルタミュが「夜の果て」を巡る遍歴の先に求めていたのは、ロバンソンのように生きたいという願いであり、さらにその願いは永遠に手に届かないことを思い知るだけの絶望であったのではないか、とさえ思えてくるのだ。

 愛国心にしろ、博愛にしろ、恋愛にしろ、人間が自分以外のもののために生きていくのに必要なのは「愛」である。人間が人間として生きていくために必要なのは、けっきょくはその「愛」を肯定するか、否定するかのどちらかでしかない。はたして、あなたはどちらを選ぶだろうか。自殺をしようとしている人を前にして、「愛」をもって関わっていくか、あるいは「愛」を否定して無視するか――あるいは、バルタミュのようにそのどちらも選ぶことができず、ただ成り行きにまかせる傍観者でありつづけるのか。(2004.05.26)

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