【毎日新聞社】
『横道世之介』

吉田修一著 



 何事もよく考えて行動するのは大事なことであるが、あまりに考えすぎてしまうと、けっきょく考えるだけで行動できなかったり、時期を逸してしまったりする。私などは典型的なまでにこのタイプの人間だと思っていたのだが、考えるだけでなかなか行動に移せないということと、よく考えてから行動するということとは、結果として行動するかしないかという意味において、じつは天と地ほどの違いがあると言っていい。

 ふだん思っていることや考えていることを行動に移すのは、それなりに勇気のいることだ。なぜなら、それは世界に対して何らかのアクションを意識して起こすということであり、そうである以上、その行動の結果として引き起こされた事柄についての責任が常につきまとうことになるからだ。逆を言えば、どれだけ頭のなかで考えていたとしても、行動しなければそれはまったくのゼロに等しいということでもある。

 世のなかには考えなしに行動して、多くの人に迷惑をかけたり多大な被害を引き起こしたりする人たちがいる。テレビのニュースや新聞などでその手のたぐいの記事をまのあたりにするたびに、いったいこの人たちは何を考えていたのだろうか、と思ったりするのだが、たとえば失敗することを怖れて行動に移せない私の心理として、失敗する自分がさらされるのが恥ずかしいという妙なプライドがあることを考えると、後先考えずにまず体が動いてしまう――それも、損得勘定関係なしにまず行動ありきで生きていけるということに、ある意味で清々しさを感じずにはいられない。少なくとも、彼らは行動を起こした。そして考えなしの行動は、考え抜かれた行動よりはるかに多くの可能性を秘めたものでもある。

「ただね、ほんとになんて言えばいいのかなぁ……。いろんなことに、『YES』って言ってるような人だった――(中略)――もちろん、そのせいでいっぱい失敗するんだけど、それでも『NO』じゃなくて、『YES』って言ってるような人……」

 今回紹介する本書のタイトルは、『横道世之介』という。人の名前であり、当然のことながら本書はその横道世之介なる人物が登場する物語であるのだが、一度目にすればもちろんのこと、見れば見るほど妙な印象を残す名前である。「世之介」という表記自体、どこか時代がかった雰囲気をもつというのもあるが、にもかかわらず本書の舞台となっているのが、どうやら1980年代くらいの日本であることがわかってくると、その名前はますますズレたものとして読者に認識されていく。そして「横道」という姓は、まるで人生をまっすぐ歩いていくのではなく、横道に逸れてばかりいるような印象をあたえる。

 物語のなかの横道世之介は、東京の大学に通うために故郷の長崎から上京したばかりの大学生である。全部で12の章で構成されており、ひとつの章が約一ヶ月、つまり、本書は彼の東京での最初の一年間を描いたもの、ということになるのだが、そんな彼の生活は、一貫して「頼りない」という一言で言い表すことができる。置いていくはずだった大理石の台座をもつ時計をなぜか直前になってカバンに詰め込んで、その重さゆえに右や左へふらふらしているという冒頭の様子からして、優柔不断で妙に往生際の悪いその性格を雄弁に物語っているのだが、そもそもの大学選びからして「自分でも受かりそうな東京の大学」という基準しかなく、友人からは「常に隙だらけ」だと言われる始末。明確な人生の目的があるでもなく、やりたいことを探そうという意欲もとくに感じられない、そしてそのことに引け目や焦りを感じているふうでさえない――そんな大学生の東京での日常が、本書には描かれている。

 入学式に遅刻したあげく、入る場所を間違えて総長の頭上に顔を出してしまったり、ついつい流されるままにサンバサークルに入ってしまったりといった、どこか抜けているところがあるいっぽうで、知り合いだと思って声をかけた同級生がじつは初対面の人だったにもかかわらず、引くに引けなくてそのまま知り合いになったあげく、いつしかクーラーのある彼のアパートに入り浸るようになるといったずうずうしい一面も垣間見せる世之介の大学生活は、つねにどこかあたふたしているようなところがあって、それだけでも微笑ましいものがあるのはたしかであるが、言ってしまえばそれだけの話でもある。どこにでもいそうな、地方から上京してきた垢抜けない若者の生活――けっして立派な若者ではなく、むしろ先行きがものすごく心配な若者でさえある世之介の物語が、しかし読み進めていくにつれて特別な印象を読者に残すのは、彼のもっている基本的な気質が、周囲の状況にかかわりなく不変でありつづけるところが大きい。

 世之介の言動は基本的に考えなしである。それも、あらゆることに積極的に首を突っ込むというよりは、明確な目的がないがゆえに余計なトラブルに巻き込まれてしまう、というタイプの考えなしだ。それは、はたから見ているとなんとも頼りなく、またずいぶんと損な役回りを演じさせられているようにさえ思えてくるのだが、当の本人は、自身の言動に対してそれが後にどのような影響をおよぼすのか、といった事柄にはとんと無頓着だったりする。それはときには迷惑であるし、無責任なことでもあるのだが、逆に自身の言動について、損得勘定や打算を度外視して関わっていくことを怖れない、ある種の豪胆さにもつながっている。そしてそんな世之介のスタンスは、物語全体をつうじて不変であり、彼と何らかの形でかかわることになった友人たちは、多かれ少なかれそんな世之介のスタンスに救われているところがある。

 世之介自身は、井原西鶴の「好色一代男」の主人公から名づけられたという自身の名前の由来くらいしか語るところがないと自分でも言っているが、彼の周囲にいた人たちは、じつはけっこう深刻な問題をかかえていたり、ショッキングな出来事に遭っていたりする。ボートピープルとの接触、妊娠騒動、ゲイ、あるいは高級娼婦という心ない噂――それらの要素は、知られればそれまでの人間関係が激変する可能性のある爆弾のようなものであり、じっさいに彼らの環境や心境は、そのことによって大きく揺さぶられていく。だが、そんななかにあって以前とまったく変わらずに接してくるのが、世之介という人間なのだ。本人としてはただの考えなしの言動でしかなく、その結果はたいてい格好悪いものでしかないのだが、それが当人の知らないところで、いつのまにか別の人たちの救いになっている。けっして既存の言葉では言い表すことのできない、絶妙な距離を置いたうえでの人間関係――そこには、考えなしに行動してしまう、世間では馬鹿だと言われるであろう人間に対する、惜しみない愛情が溢れている。

 本書の背景に流れている時代は、まだバブル経済の恩恵を受けている景気の良い時代であり、そうしたある種の浮かれた世相が垣間見られたりするのだが、その恩恵とは無縁のところに世之介という人物はいる。じつは本書は世之介の大学時代を中心とするストーリーとは別に、世之介以外の人物が20年ほど前の過去としてその時代を回想するというエピソードが挟まれているのだが、たとえ時代が変わっても、世之介はあい変わらず自分たちのよく知っている世之介のままだったというある事件の存在が、不意打ちのように浮かんでくることになる。はたしてその「事件」とはどのようなものなのか、ということについては、ぜひとも本書を読んでたしかめてほしいところだが、そこには世界とのかかわりかたや、人と人との関係性における、一抹の希望を信じたくなるようなものが、たしかに存在すると明言しておこう。(2010.01.11)

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