【左右社】
『本は読めないものだから心配するな』

菅啓次郎著 



 何の前知識もなく本書『本は読めないものだから心配するな』を手にしていた私は、そのタイトルから、本や読書にかんする四方山話を収めた内容を想像していたが、そんな私の予想はなかば当たっていて、なかば外れていた。

 たしかに著者が読んだ本の批評を書いたものであり、また著者の読書に対する姿勢や考えに焦点を当てた本である。だが同時に、著者が旅した国や地方のことを描いた紀行文でもあり、またその言い回しはときに詩的なものも感じさせる。とくに何かひとつのテーマを掘り下げているというわけではなく、むしろとりとめのない印象がありながら、そこに展開される批評は、取りあげた作品の本質を鋭く突いていて、読んでいて何度もハッとさせられる。

 本に「冊」という単位はない。とりあえず、これを読書の原則の第一条とする。本は物質的に完結したふりをしているが、だまされるな。ぼくらが読みうるものはテクストだけであり、テクストとは一定の流れであり、流れからは泡が現れては消え、さまざまな夾雑物が沈んでゆく。本を読んで忘れるのはあたりまえなのだ。

 私も本好きな人間として、これまでにそれなりの数の本を読んできたほうだと思っているが、おそらく私の本の読み方と、著者の本への接し方とのあいだには決定的な違いがある。それは上述の引用にもあるとおり、私が「本」という形態を「読む」という行為にこだわっているのに対して、著者のそれはおよそ「本」という形式を大きく逸脱し、良い意味で自由奔放だということである。

 たとえば著者が本書で紹介する本のジャンルは、じつに多岐に渡る。そこには小説があればエッセイもあり、かと思えば詩集があり、哲学書や人文学の本も混じっている。なかには写真集といった、「読む」というよりは「観賞する」といったほうがふさわしい本も含まれているのだが、ひとつ共通する部分があるとすれば、著者の読書とは、人が生きるということに深く根ざしたものであり、それは自分をとりまく世界をよりよく理解しようとするためのものだということでもある。そしてその姿勢は、何より「物語」を好み、現実世界からの遊離を楽しみたいと思っている私の読書とは、およそ対極に位置するものだ。

 本とは読むものだという常識が、私にはある。それまで知らなかったことを知るために、あるいは現実という重力から解放された物語を楽しむために、私たちは本を読む。私の場合は、そこからさらに自分が何を考え、何を思ったのかを「書評」という形にまとめて文章化するという行為が加わるが、なぜそのようなことをするのか、その本質を考えたときに導き出されるのは、「本を読む」という行為に対する何らかの「対価」を得たい、という欲求である。だが、この「対価」という考えはなかなかにやっかいなものであるばかりか、ともすると危険なものに変貌する可能性があることを、私たちは意識する必要がある。

 以前紹介したピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』のなかに、「未読の諸段階」という章があるが、その段階のひとつに「読んだことはあるが忘れてしまった本」が挙げられている。彼にとって、「読んだことはあるが忘れてしまった本」とは「未読」と同等のものとして扱われているわけだが、せっかく金と時間をかけて本を読んでも、その本の内容や、読んだときの感想といったものが時間とともに記憶から薄れ、ついには読んでいないのと同じ状態に戻ってしまうのだとするなら、いったい私たちは何のために本を読むのか、という疑問に突き当たってしまう。

 これはとくに、読書という行為を何らかの「対価」を得るためのもの、というイデオロギーと結びつけてしまった場合に、よりいっそう深刻な命題として私たちに迫ってくる。そうなると、本を読んでもいずれゼロになるのであれば、そもそも本を読むこと自体が無駄なことだ、と結論づけてしまうまであとわずかだ。読書とはあくまで暇つぶしのためのもの、ほんのいっとき、現実を忘れるための娯楽としてしかその価値はない――まるで私たち人間が、地球という限りある資源を無尽蔵に搾取して、その富をひたすら蓄えていく資本主義の権化であるかのごとく、消費するためのものとしての本を、物語を、文字どおり消費していくだけになってしまう。だが、知識の集積としての「本」とは、本来そうした主義とはもっとも遠い場所に位置するものであるはずだ。本書はそんな、ある意味であたり前のことを指摘してくる。

 効率よく利潤を上げることを最大の目的として動く貨幣の「共和国」に対して、すべての書物を「共有物」とする第二の「共和国」は、反響と共鳴と類推を原理として、いたるところで新たな連結を作りだしていく。――(中略)――人々は好んで効率の悪さ、むだな努力、実利につながらない小さな消費と盛大な時間の投資をくりかえし、くりかえしつついつつのまにか世界という全体を想像し、自分の生活や、社会の流れや、自然史に対する態度を、変えようと試みはじめる。

 著者の読書に対する姿勢は、旅をするときの姿勢とよく似ている。それも、何か明確な目的があっての旅ではなく、なんのあてもないままに知らない場所を彷徨うような旅――明確な目的がないので、何をもって「目的を達した」と判断するのかはわからないが、出かけた先にある見知らぬ他者、見知らぬ環境、感じたことのない雰囲気といったものに、自分が何を感じ、何を読みとるのかに耳をすませることに価値を置くような姿勢を、著者はとくに大切にしているところがある。

 それはたとえば、年に何冊本を読むのかといった、よくある読書自慢とは対極に位置する姿勢だ。たしかに読書の量を「冊数」で比較するというのは、いかにもわかりやすい基準ではあるが、そうした考えは、たとえば人間の価値を年収だけで判断するかのような、ある種の容赦のなさがある。勝手気ままな旅で得られる、実質的な価値では推し量ることのできない「何か」をつかもうとするかのように、ともすると読んだことさえ忘れてしまう「読書」という行為でつかめるもの――それはなかなかはっきりとした言葉で言い表すことのできないものであるが、そうした表現できないものの重要性を、本書はたしかに捉えている。そして、だからこそ本書の批評は読む人の心を強く響かせる。

 それまで知らなかったことを知るために、人は本を手にとる。だが、そもそもそうした好奇心をその人に植えつけたのは、おそらくその人の日々の生活に根ざした姿勢によるものだ。なぜなら私たちは「まるで知らないこと」に対しては、何の反応も示しようがないのだから。そんなふうに考えると、本を読むとはどういうことなのか、それが自分にとってどのようなことに繋がっていくのかを、意識せずにはいられなくなる。まるで旅をするように本を読む著者の、ささやかながらも影響を受けずにはいられないその姿勢に、ぜひ接してみてほしい。(2015.06.16)

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