【講談社】
『呼人』

野沢尚著 



 一九七三年の十一月一日、その頃日本は、中東戦争による石油危機の真っ只中で、大阪のあるスーパーマーケットでトイレットペーパーの買いだめパニックが起こったんだ。
 先行きが見えない人々の不安感が一挙に出口を求めて爆発して、その日をもって日本の高度成長時代は終わったんだ。

 一九七三年というのは、私の生まれた年でもあるわけだが、私がまだ子どもだった頃に、すでに日本の高度経済成長が終わりを告げていた、などという暗い兆しはまったくもって感じなかった。科学技術は人々の生活をより便利にし、来るべき21世紀には宇宙旅行だってあたり前のようにできるようになっている――そんな、考えるだけで楽しくなるような未来が待っていると信じて疑っていない自分が、たしかにそこにいたことを覚えている。まさか、現代のようにあらゆる価値観が崩壊して、何を信じて生きていけばいいのかわからないまま混迷のつづく時代がやってくるなどと、夢にも思っていなかったのだが、もし、一九七三年の時点でそうした時代転換があり、そしてちょうどその頃に三十才代だった人間が、今の私のような思いをもっていたのであれば、そこには昔も今も変わらない何かがある、ということになる。

 私たちにとって、未来とは常に未知の領域である。それはどんな人間にとってもけっして変わることのない事実だが、大人、とくに三十代や四十代以上の大人にとっての未来と、まだ小さな子どもにとっての未来とは、たんなる時間の長さでは換算のできない大きな価値の違いがある。それは、私の年代の未来が、そろそろその可能性が狭まり、その先に待っているものがおぼろげながら見えてきそうになるものであるのに対し、子どもの未来は無限大であり、まだまだどんな可能性も残されている、ということである。おそらく、今を生きる子どもたちもまた、かつての私と同じように、素晴らしい未来を信じているに違いない。そしてそれこそが、子どもであるがゆえの特権でもあるのだ。

 本書『呼人』に登場する久我呼人は、私と同じ年に生まれた少年である。一九八五年のとき、12歳。小学校最後の夏休みを森の中の秘密基地で過ごしたり、仲の良い友人とともに家出した同級生の女の子を捜しに無謀な冒険をはじめたりする様子は、まるでスティーヴン・キングの『スタンド・バイ・ミー』を彷彿とさせる展開ではあるものの、そこに書かれているのは、どこにでもいそうな、ごく普通の12歳の少年少女たちの姿だ。君島小春が抱えていた複雑な家庭の事情、その小春が残したわずかな手がかりをもとに、彼女の行方を自分たちの力だけで捜そうと決意した三人の少年たちの小旅行――それぞれがそれぞれに悩みや問題をかかえてはいるものの、それは12歳の夏という、たった一度しか訪れない特別な時間を彩る、かけがえのない思い出となるはずのものだった。ただひとつ、呼人の成長が12歳のまま止まってしまうことさえなければ……。

 いったいなぜ、呼人の成長が止まってしまったのか、彼の本当の母親は誰で、彼女は今どこで何をしているのか、彼の育ての親である妙子と悠仁は、どこまで真相を知っているのか、そして呼人はこれからどうなってしまうのか。本書はその冒頭からさまざまな謎に対する伏線が巧妙に仕掛けられており、そういう意味では永遠の12歳を生きることを運命づけられた呼人が、自身の生まれることになるルーツと、自身の生きる意義を見出すまでを書いたミステリーであることは間違いないが、本書の読みどころはむしろ、自分を置いていくように大人へと成長していってしまう同級生たちが辿ることになる運命と、そんな彼らの運命について、12歳の子どものままであるがゆえに、決定的に理解することのできない、ただ見ていることしかできない呼人が抱え込む数々の苦悩にこそある。

 だけど見てて我慢ならないのは、遠ざかっていくみんなが躓いて倒れる姿なんだ。躓きそうな石が目の前に見えているっていうのに、みんなは自分から足を引っかけてばたっと倒れてしまう。そんな姿をぼくは永遠に見守ってなきゃいけない。それがたまらないんだよ。

 子どもの頃にはわからなかったいろいろなことが、成長するにつれてだんだん見えてくるようになる。物事を理解できるようになる、というのは、たしかに素晴らしいことではある。だが、何かをよりよく知るというのは、それだけ知恵をはたらかせ、狡賢く生きていくということでもある。何かを我慢したり、無理に背伸びをしようとしたり、誰かに優越感や劣等感をいだいたり――かつて同級生だった里村厚介も秀島潤も、そして小春もまた、その人生において大きく躓き、そのことで深く傷ついてきた。それが人間というものであり、人生であり、そして生きるということであると答えるのは簡単だ。だが、私たちは何より、永遠の12歳を生きる呼人の視点を通して、いつしか自分自身の姿をそこに映し出していることに気づくことになるだろう。そして自分が、かつて子どもだった頃から、どれだけ遠くに来てしまったのかを思い知るのだ。

 昔、私はたしかに、大人たちがなぜ金儲けに血眼になるのか理解できなかった。なぜ国どおしが戦争し、人々が争いを起こして、あまつさえ相手を殺してしまうことさえあるのかわからなかった。みんな仲良くすればいいだけのことなのに、と。それは、たしかにいかにも子どもっぽい、世間知らずな感慨だろう。だが、誰もが最初はそんな子どもだったはずなのだ。本書は――いや、呼人という人物は、そんなことを読者に思い出させる存在でもある。そしてそれは、けっして不快なことではない。

 以前読んだ雨森零の『首飾り』は、否応なく大人へと変貌していくことの切なさ、哀しさをつづった傑作であるが、本書は逆に、永遠に子どもでいつづけなければならないことの切なさ、哀しさを表現した。大人になるとはどういうことなのか、本書を読んだ人は、きっと誰もがそのことに思いを寄せることになるに違いない。(2004.10.10)

ホームへ