【新潮社】
『生者と死者』
−酩探偵ヨギ ガンジーの透視術−

泡坂妻夫著 



 手品やマジックショーというものは、タネが明かされてしまうとじつはなんてことのない仕掛けだったりするものがほとんどなのだが、それでも私たちがそうした手品やマジックショーを楽しみ、しばしば快くだまされるのは、ひとえにその演出の巧みさ、壮大さというものに酔わされてしまうからに他ならない。ある意味で、私たちは気持ちよくだまされて、何かと世知辛い現実を一時的にでも忘れたいという願望から逃れられない、ということなのかもしれない。

 ある事物をどのように演出していくか、というのは、たとえばある商品をいかに宣伝していくかというのと同じくらいに重要な要素だと言える。どれだけ良い商品を開発したとしても、誰もその存在を知らなければそもそも売れないし、また売りようがない。これは逆に言うなら、宣伝に金と労力をかけさえすれば、たいしたことのない商品であっても売れるということで、たとえば映画館における新作映画の予告ムービーが、下手をすると映画本編より面白そうに見えてしまうのと同じよなものである。もちろん、あまりにひどい商品であれば、いずれその評判の力が宣伝を上回ってしまうであろうが、ここで言いたいことは、何かを演出することの効果はけっしてあなどれない、ということである。

 そういう意味において、本書『生者と死者』の演出効果は絶大だ。なにせ袋とじの本である。それも、中身は雑誌のお宝グラビアなどではなく、れっきとした小説である。これはもう予備知識なしで書店に足を運んで、じっさいに本書を手にとって確かめてもらうのが一番手っ取り早いのだが、ここではいったん著者からの注意書きを引用しておくとする。そう、本書には正しい「読み方」というものがあるのだ。

 はじめに、袋とじ製本のまま、この本をお読み下さい。
 短編小説を読むことができます。
 次に、各ページを切り開いて、長編ミステリーをお楽しみください。
 元の短編小説は消失してしまいます。

 16ページごとに袋とじになっている本書は、袋とじのままで読んでも、切り開いて読んでも小説として成立するような構造となっている。この仕掛けだけを取りあげても、相当にアクロバティックな技巧を必要とする、まさに奇術のような代物であるのだが、本書の凄いところは、いったん短編小説を読むことで脳内にできあがっていた世界観が、袋とじを切り開いて出てきた長編小説を読むことで、その印象をガラリと変えてしまうところにこそある。そしてそれは同時に、私たち個々の言葉に対する印象の頑固さ――私たちがいかに先行するイメージによって、物事を誤解し、あるいは錯覚してしまうかということにもつながってくる。

 たとえば小説を読んでいるときに、ある登場人物の性別を勘違いしていたという経験が私には何度かあるのだが、小説という、文字だけで構築される虚構世界において、私たち読者はどうしてもそれぞれがもっている言葉のイメージに頼ってしまうところがある。はじめからある人物の性別がはっきり宣言されていれば問題はないのだが、そうした情報がない場合――それはたいていの場合、小説を読み進めていくことで自然とわかるような構造になっていることがほとんどなのだが――私たち読者は個々がもつ言葉のイメージにしたがって、勝手に不明な部分を補完して読み進めてしまうところがあるのだ。

 小説の舞台にしても、どこの国の何という町であるかがはっきりしない場合、私たちはどうしても自分たちがよく知っている町の様子を物語のなかにあてはめてイメージしようとする。手品やマジックショーの醍醐味は、まさにこうした私たちの錯覚や思い込みをいかにコントロールするかという点にあるわけだが、これと似たようなことが本書に対してもあてはめることができる。

 袋とじのままで読める本書の短編小説は、袋とじをばらしてしまうと『生者と死者』というタイトルの長編ミステリーの一部となってしまう。これは言い換えるなら、短編で登場した人物は長編のほうでも登場するということでもある。そして、短編では登場せず、長編のみに登場する人物の代表格として、ヨギ・ガンジーという名の、ちょっと怪しげな探偵の存在がある。探偵というからには、そこでは何らかの事件が発生し、その事件の謎を解くという役割が彼にはあるわけだが、自身が稀代の奇術師でもある彼の解明しようとするのは、いっけんするとタネも仕掛けもないように見える現象――超能力と呼ばれるものだ。

 じつのところ、短編小説の内容には、この超能力の存在が大きくかかわっている。記憶喪失の美少年が、まだニュースにもなっていない殺人事件のことを言い当てる、あるいはその犯人を言い当てるというのがそのおおまかな内容であるが、短編のほうではあくまで物語を彩る要素のひとつでしかなかったこの「超能力」が、長編になると解かれるべき謎として機能することになる。はたして、中村千秋は本物の超能力をもっているのか、あるいはどこかに巧妙なトリックが隠されているのか? 袋とじという前代未聞な仕掛けのほうにばかり目が向けられがちな本書であるが、短編と長編をつなぐ物語としての絶妙な関係性こそが、本当の意味でこの作品の真骨頂だと言うことができる。

 言ってみれば、立ち読みなどで短編小説のほうしか読まなければ、それは解決編のないミステリーを読むに等しい行為となってしまう。短編単体でも、長編単体でも物語として読めなくはない。だが、このふたつの作品を短編集といった形で掲載してもほとんど意味をなくしてしまう。まさに袋とじという仕掛けありきで書かれた本書は、手品やマジックショーを楽しむがごとく読むべき小説である。(2014.03.13)

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