【青土社】
『容疑者の夜行列車』

多和田葉子著 
第38回谷崎潤一郎賞/第14回伊藤整文学賞受賞作 



 どこかに旅行に出かける、という行為は、まずたどり着くべき目的地があって、はじめて旅行として成立するものである。もちろん、目的地にたどり着くまでの時間も旅行の楽しみのひとつだと言えば、たしかにそのとおりであるが、何はともあれ、自分がどこに向かうのか、という指針がなければ、人はその場から移動することができなくなる。目的地のない旅行などというものはありえないし、仮にあったとして、それがはたして旅行と言えるものなのかどうか、私には判断がつきかねるだろう。

 目的地があって、そこにたどり着くことが旅行であるとすれば、その移動にかかる時間はできるだけ短いほうがいいのが理屈である。ずっと昔、まだ車や列車や飛行機といった乗り物がなかった頃の旅行といえば、おそらく目的地に向かって移動することが旅行という行為の大半を占めていたに違いないし、そうなると、そもそも遠くに旅行すること自体が、その人にとっては一大イベントであったはずである。

 もちろん、旅行という行為がその人にとっての日常から非日常への移行である、という要素は、昔も今も変わらない。だが、交通手段が発達し、目的地に着くまでの時間が短縮されたとき、その短縮された時間はいったいどこへ行ってしまったのだろう、と不思議に思うことはないだろうか。移動速度が速くなったのだから、そのぶん移動のために費やされる時間が減るのは当然の論理であり、また目的地で過ごす時間がそれだけ長くとれるということでもあるのだが、日常から非日常へと移行する、いわば境界線に属する灰色の時間が縮小されていくことに、たとえば景観を損なうという理由で電信柱が撤去されたとたん、かつての電線の張りめぐらされた空にある種の郷愁を覚えるのと似たような感情が湧くことはないだろうか。

 本書『容疑者の夜行列車』は、なんとも不思議な雰囲気をもつ作品である。まず、人称が二人称、つまり「あなた」という、他の主体から見られる対象となることが前提となっている人物が登場する。この「あなた」なる人物は、どうやら踊りで生計を立てている女性らしく、しょっちゅういろいろな国の舞台でダンサーとして踊っており、そのためにいろいろな国を転々と渡り歩くような生活をつづけているらしい。らしい、と断定を避けたのは、もともと二人称でしか語られることのない「あなた」のことについて、本書を読み進めていくにつれて、その人物像がはっきりしてくるどころかますます曖昧なものとなっていくからである。それも、最初のほうはわりといろいろな要素がはっきりしており、それを指し示す情報も提示されているのだが、だんだんその情報もあてにならなくなってきて、はたして「あなた」がどのくらいの年齢の女性なのか――いや、そもそも女性であるかどうかすらはっきりとしなくなってくるのである。

 上述したように、二人称である、ということは、「あなた」を「あなた」という二人称で把握する主体が常にどこかにいる、ということでもある。本書はいくつかの章で構成され、それぞれの章で「あなた」は、とある目的地の町へと列車で移動する途上にいる。あるいはこれから列車に乗り込もうとしていたり、目的地に着いて列車を下りた後だったりすることもあるが、基本的には「あなた」が乗った列車のなかでおこった出来事や、出会った人々のエピソードを語るという、ちょっとした旅行記を思わせるような内容である。パリへ、北京へ、ハバロフスクへ、ウィーンへ――だが、章をまたがって登場する「あなた」が、本当に同一人物なのか、どうにもはっきりしない。まるで、章ごとに「あなた」を観察する主体が変化し、それゆえに受ける印象も微妙に異なってくるかのように、読者もまた、「あなた」から受ける印象を固定させることができない。

 ある場所から別の場所へと移動する、ということは、その場所がもっている属性が変化するということである。はじめて訪れる場所は、たいていはそれまで自分になじみのある場所とは雰囲気が異なっていて、多少のとまどいが生じることもあるが、そこで過ごす時間が積み重なるにつれて、徐々にその場になじんでいくことができる。であれば、ある場所から別の場所へと移動している最中というのは、言ってみればどの土地の雰囲気にも属していない、曖昧な時空間のなかにいる、ということができる。それでも、移動していることを意識していれば、まだしも自分は移動をしているのだと思うことができるが、基本的に眠っている時間を利用して列車に目的地まで自分を運んでもらう夜行列車ともなれば、属性はおろか日常と非日常の境目すらますます曖昧なものとなっていく。本書は、そうした何かと何かの間に広がる、どちらにも属することのない領域について強く意識している。予期せぬ出来事で大きく乱れるダイヤ、列車を待つあいだにぽっかりと空いた時間、何度も修正を余儀なくされるスケジュール――本書には、さまざまな名もなき境界が溢れており、そしてその中心には、常に「あなた」がいる。

 自分はどこへ行きたいのか。或いは、言いたいことはあったのかもしれないが、それがまた、言葉の領域に達していなかった。言葉になる前の「何を探しているか」の内容はどんなものか。夜行列車の線路の音のようなものか。

 自分がはたして何者なのか、どこへ行って、何をしなければならないのか。世の中はとかく明確な答えというものを要求してくるものであるし、どんなことにも何かしらの結果をつけ、区切りをつけたくなるのが人間の性でもある。だが、そうやって区切りをいれることによって、逆にいろいろな可能性が人知れず駆逐されていったのではないか。本書には、明確で固定された意味づけをことごとく排除する方向で物語をつづっていきたい、というひとつの意思がある。もしその意思が、読者に固定されないことへの居心地の悪さを感じさせるとしたら、それは間違いなく本書の大きな特色であり、読者はまんまとその世界に引き込まれてしまった、ということを意味するのだ。(2005.11.10)

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