【文藝春秋】
『青い湖水に黄色い筏』

マイケル・ドリス著/村松潔訳 



 自分のことについてよく知っているのは、もちろん自分自身であることはひとつの事実であるが、それは必ずしも真実を物語るものではない。自分の発する声が、自分以外の人間の耳には異なって聞こえているように、自身がとらえる世界もまたあくまで主観のものであって、けっして自分という個体を外から眺めたものではないからだ。自身の存在や、自我、性格といったものは、私たちが思い込んでいるほどたしかなものでも、また不変のものでもない。ときには自分でも思いがけないような行動をとったり、いつもならけっしてありえないような言葉を発してしまったり、というのは、生きていればいくらでも遭遇してしまうイレギュラーだ。そのときの自身の考えを論理的に説明することは不可能だし、また仮にできたとしても、それはけっきょくのところ自分を納得させるための後付けのものでしかない。そしてそんなイレギュラーな言動を引き起こすのは、きまって自分以外の誰かと接しているときである。

 人と人との関わりあいという化学反応によって、さまざまに変化を遂げ、ときに自分でも恐ろしくなるようなエネルギーを放つ自分の存在――他者の存在は、自分を客観的にとらえるための鏡でもあるのだが、いつまで経っても定まるところのない自身の存在をかかえたまま、それでもなお他者との関わりあいのなかで生きていくというのは、私たちが思う以上に大変なことだったりする。自分のことなど、しょせん自分にだってよくわからない。だが、それでもなお、自分と同じ時間を共有し、誰よりも――ときには自分以上に――自分のことを見てきた人物がたしかに存在する、という事実は、揺れ動く自身の存在を地に定まったものとしてくれる安心感がある。たとえ、その関係がどのようなものであったとしても、少なくとも過ごした時間だけはたしかなものであるのだから。

 本書『青い湖水に黄色い筏』に登場する15歳のレイヨーナは、インディアンと黒人のハーフで、滅多に家に寄り付かない退役軍人の父親エルジンと、気まぐれで頼りにならない母親クリスティーンになかば振り回されるような人生を過ごしている。職を転々とし、賭け事に熱中し、けっしてひとところに長くとどまることなく、街から街へと渡り歩くように生きてきたクリスティーンは、その不摂生な生活がたたって体を壊し、インディアン保険局病院の常連になっていたが、ある日、病院を勝手に抜け出し、レイヨーナをつれて自分の生まれ故郷であるモンタナのインディアン保留地に向かう決意をする。だが、オンボロのヴォラーレをひきずってようやくたどり着いた保留地に住むアイダおばさんは、クリスティーンの来訪をけっして歓迎してはいなかった。そのことにかんしゃくを起こしたクリスティーンは、レイヨーナを置いてどこかへ行ってしまう。

 レイヨーナを語り手とする本書の第一部は、さまざまな紆余曲折を経て母親であるクリスティーンとの再会を果たす物語だと言うことができるが、同時にそれは、ハーフであるがゆえのアイデンティティの揺らぎに対して、自分なりの居場所を体当たりで求めるための物語でもある。母親とともに転校をくり返し、親友をつくることもできなかった聡明なレイヨーナは、どこに住んでいても自分が余所者でしかないことを自覚しており、それゆえに、自身に降りかかる理不尽な運命というものに対して諦念めいた思いをいだいているところがあるが、そのいっぽうで、アイダおばさんのもとを離れ、若い神父のいかがわしい行為を軽く受け流しつつ、自分で働き口を見つけ、自分の力で生計を立てていこうとする芯の強さも併せ持っている。

 いっぽうの第二部では、クリスティーンが語り手となって自身の過去に何があったのかを物語っていく。自由奔放で、夫以外にも何人かの男性と関係をもち、一時の衝動に身を任せるような生き方をしてきた彼女が、どのようにして黒人のエルジンと恋に落ち、レイヨーナを出産するにいたったのか――そこには、自尊心ゆえに自慢の弟だったリーの兵役を後押しし、その結果としてベトナム戦争で戦死させてしまったという苦い思い出があった。

 常に自由であり、自分の新しい世界を見つけたいという衝動から、早くから保留地の外へと飛び出していく機会を手に入れたクリスティーンは、いわば今という瞬間のみを完全燃焼させるかのような、刹那的な生き方をしてきたし、また今もってその傾向は衰えてはいない。病院に勤めるシャーリーンに無理強いして薬を送ってもらってまで、どこかに縛られることを拒否するその性格は、何より「母親」という大きな束縛にはそぐわないものであることは、おそらくレイヨーナも薄々感づいていたはずだ。ロデオという危険を冒し、最後には自分のもとにたどり着いたレイヨーナに語って聞かせるという体裁ではじまるこの第二部は、クリスティーンが過去に置き去りにしてこようとした思い出であると同時に、過去はけっしてなかったことにはならない、自分の生まれも育ちも、忘れ去るべきものでないことを再認識するための物語でもある。何よりロデオが得意だった弟のリーと同じように、あばれ馬に果敢に挑んでいき、その結果として自分のもとにいるレイヨーナの存在が、けっして振り切ることのできない彼女の過去そのものでもあったのだ。そしてレイヨーナにとっての母親の過去には、当然のことながら自身の出自のことも含まれている。

 それゆえに、第一部と第二部は時間が重なっている部分が出てくる。それは、同じ出来事をレイヨーナの側とクリスティーンの側からとらえることを意味し、レイヨーナにとっては奇異で身勝手なように見えた母の行動も、クリスティーンの過去をともなった時間のなかではまた別の意味合いを帯びてくるという二重性が生まれ、それだけ物語に深みが出てくることになるのだが、ここで重要なのは、レイヨーナが生きていくために必要なアイデンティティの拠り所として、クリスティーンの過去を共有させるという選択肢をとったということにこそある。

 最後の第三部は、アイダが語り手となっている。レイヨーナにとっても、またクリスティーンにとっても、どこか取り付く島のない頑固なところがあり、常に人とのかかわりあいを拒絶しているかのようなアイダ――この第三部は、第一部や第二部とは異なり、クリスティーンの語りに対するレイヨーナの聞き手といった存在はいない。それは、彼女がその気になれば墓場にまでもっていくことのできる大きな秘密――クリスティーンの出自に関する秘密であり、言ってみればクリスティーンが追うことのできない過去に属する秘密でもある。そしてこの秘密を知ることによって、何よりもクリスティーンが知る自身の過去、とくに、彼女とリーとの関係について、これまでとはまったく異なった意味合いを帯びてくることになる。これまで理解できなかったアイダの、ともすると冷たいとさえ思えるような頑なな態度の裏に、どのような感情がひそんでいたのか、その一端が読者に垣間見えるようになるのだ。

 娘から母親、さらにその母親へと、読み進めていくにつれて時間を遡行していくかのような構成の本書は、それぞれ母親が娘の出自を再認識し、娘は母という、自分の過去に属する時間を誰よりも共有している他者のなかに、何より自身が生きてきたというアイデンティティをゆだねていくストーリーでもある。たとえ親族であったとしても、それぞれがかかえる世界は異なるし、そのすべてを理解できるというわけでもない。だが、少なくとも娘にとって、母親と共有できる時間というのは、まぎれもない自身の生きた証でもある。けっして甘くはない人生の荒波に、それぞれのやり方で立ち向かい、乗り越えていった三人の女性――そのたくましい生き方の一端を、ぜひとも共有してもらいたい。(2007.04.06)

ホームへ