【講談社】
『柔らかな頬』

桐野夏生著 
第121回直木賞受賞作 

背景色設定:

「自由には責任がつきまとう」などと、いったい誰が言ったのだろう。何物にも縛られることなく自由に生きていくからには、あらゆる選択とその結果に対するすべての責任を自分ひとりの手で負わなければならない、という意味で、上述の言葉はたしかに真実ではあるが、だからといって、何らかの組織や集団に属している大部分の人たち――社会が規定する枠のなかで生きている人たちの責任が軽くなるわけではないことも、また事実である。自由でありつづけることは、自分自身の生を生きることでもある。学校や会社、家庭、血族といった枠に囚われることなく生きていくこと――それは、強い自己を確立できている人や、明確な人生の目的を持っている人の、言わば特権なのだ。
 だが、今の世の中で個人が自由を求めようとすれば、少なからず自己中心的思考に結びつくことになる。本書『柔らかな頬』に描かれているのは、自分が自分であるために、自分が属しているものをすべて犠牲にしようとした女性を翻弄する運命の物語である。

 森脇カスミは現在二児の母。今となってはもはや時代遅れとなりつつある、職人による写植と版下づくりを請け負う「モリワキ製版」の社長である道弘とともに、苦しいながらもなんとか会社を経営しつづけている。だが、かつて東京での生活を夢みたあげく、十五のときに自分が生まれ育った北海道の小さな村――このまま何十年も変わることなく、存続するためだけに存続しているかのような、何もない村を両親ごと捨て去って上京したカスミが望んでいたのは、おしゃれや教養とは無縁の、ただ子育てと生計をたてることに日々を追われるような生活ではなかった。カスミにとって、大手広告会社のデザイナーであり、「モリワキ製版」のお得意さまでもある石山との逢瀬を重ねることは、家庭と会社という束縛から解き放たれるための手段であり、自分が自分でありつづけることを何より大事にするカスミの性格を考えれば、遅かれ早かれ似たような結果をまねくことになったであろうことは容易に想像できる。

 道弘の妻であること、「モリワキ製版」の社員であること、有香と梨紗の母であること――カスミが何より怖れたのは、そのような肩書きでくくられてしまう生活に自分の個性がなじんでしまうこと、そしてそんな生活に妥協しつつある自分が存在することだったのかもしれない。お互いの配偶者の目を盗んで愛し合うために、石山が買った北海道の別荘に、家族ともども招待されたカスミは、石山の胸の中で、自分の子供さえ捨ててもいいとさえ思えるほどの幸福感を味わうが、しかしその背徳的な幸せも、有香の失踪という事態によって一瞬にして消しとんでしまう。

 はたして有香はどこに消えてしまったのか? 生きているのか、死んでいるのか、あるいは誰かの手にかかって殺されてしまったのか、だとしたら犯人は誰なのか――しかし、本書が描こうとしているのは、そのようなミステリー的な要素ではなく、自由を得ようと利己的になった結果、ますます自由を奪われることになってしまった運命の皮肉、そして自分の欲望が他人ばかりでなく自分自身をも深く傷つけてしまうという因果のはてに何があるのか、ということである。有香とともに自分の心から何かを見失ってしまったカスミは、どうしても受け入れられない現実に反逆するかのように、有香の姿を求めて漂流することになる。有香の失踪によって、カスミは死ぬこともできない囚われ人となってしまうのである。

 自由になることは、強い自己を持つ者の特権だと私は書いた。だが皮肉なことに、その強さがカスミに現実を受け入れることを頑なに拒否させてしまう。自分をこの現実になじませることができれば――それこそ自分の存在がなくなってしまうほど深くなじませることができれば、どれだけ楽になれるだろう。そんなカスミが見せる強さは、あまりにも悲しく、痛々しい。

 もし自分が失踪するなら、今度は子捨てをすることになる。梨紗を捨てることができるだろうか。いなくなった子のために、もう一人の子を捨てることなど。有香のために捨てるのではなく、子をなくした自分のために捨てるのだとカスミは考え、慄然とした。――(中略)――親を捨て、自分の裏切りがもとで子を見失い、更にもう一人の子供と夫を捨てようとする身勝手極まりない女。それが本来の姿だった。

「因果は巡る」とよく言われる。それは、胃ガンで死んだ父親と同じように、子供も胃ガンに犯される、という遺伝的な要素だけではけっして説明のつかない、宿命とも言うべきものだ。気が触れた親を持つ子供は、自分も気が触れるかもしれない、という怖れとともに生きていく。かつて、自分の故郷を嫌い、そこにへばりつくようにして暮らしている両親を嫌って家を出たカスミ――もし、その事実を有香が知ったとき、その小さな心にどのような想いがよぎることになるのだろう。

 すべての真実は、本書の中にも明確に記されているわけではない。それはきっと、読者自身が見つけ、答えを出すべきものなのだろう。(1999.12.28)

ホームへ