【朝日新聞社】
『馬喰八十八伝』

井上ひさし著 



 嘘をつくという行為はけっして褒められたことではないが、たとえばマーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』におけるペンキ塗りのように、本来であれば面白くもない「仕事」を、いかにも楽しくて仕方がないというふうに他人に思わせる機転などは、トム・ソーヤー自身はもちろんのこと、彼にまんまと罰としての「仕事」を手伝わされた友人たちも、そしてペンキ塗りの罰をあたえた張本人さえも、「満足させた」という意味では賞賛に値するものだと言える。だが、このトム・ソーヤーの機転が清々しいのは、彼が立場上は弱くて非力な子どもであるという点も、じつは大きいと考えられる。もちろん、この物語はトム・ソーヤーのいたずら好きな性格が味わいのひとつであり、彼に与えられる罰もなかば自業自得な部分もあるのだが、それでも腕力や立場のうえではかなわない子どもが、大人たちにただ従順にふるまうのではなく、むしろ悪知恵と機転をフル回転させて大人をびっくりさせたり翻弄したりするさまは、生意気という感じよりも、どこか応援したくなるようなものがたしかにある。

 今回紹介する本書『馬喰八十八伝』は、稀代の法螺吹きたる馬喰八十八の生涯を語ったものであるが、彼はもともとそんな奇妙な名前だったわけではないし、物語の当初は嘘つきですらなかった。もっとも、小さいころから嘘をつく才能だけはあったようであるが、老いた母親の神社仏閣百ヵ所めぐりに付き合うあいだは、けっして戯言を用いないと心に誓いをたて、それを実践している若者であり、おもに馬の種付けや病気の治療といったことを生業とする馬喰(ばくろう)でしかなかったのだ。

 しかし、彼が成田山詣でのために下総国の馬産地で知られる桜七牧のひとつ、高野ノ牧に立ち寄ったさい、持ち馬だった花雲を盗まれてしまう。馬語を理解し、また自身も馬語を操ることのできるという、これまた稀有な能力をもつ彼は、傍にいた馬たちから、その犯人が高野村で馬に関する商売のいっさいを管理している長者、駒太夫の手によるものと聞き出したものの、そのことを正直に代官に訴えたところ、嘘つき呼ばわりされたあげく、百叩きの刑をくらってしまう。じっさいには八十八回で済んだのだが、この回数が「馬喰八十八」という名の由来となる。

「八十八回か。よし、おれはこの高野ノ牧で八十八個の嘘をつくことにしよう。そいつを忘れぬように、たった今からおれの名は八十八だ」

 正直に生きても良いことなど何もない。神社仏閣の力もこれらの災難を振り払ってはくれない。ならば、自分にあるこの嘘つきの才能で逆境を乗り越えるしかない――かくして、嘘と馬という、いささか心もとないふたつの才能を駆使した八十八の逆襲がはじまることになり、同時にここで本書の読みどころが決定づけられる。それは、八十八の法螺吹きの能力がどこまで権威に対して通用するか、という一点であり、ここには弱者が強者をぎゃふんと言わせる勧善懲悪のストーリー、あるいは一種の復讐劇の要素が含まれている。そして肝心の八十八の嘘つきの能力であるが、これは基本的に、トム・ソーヤーのペンキ塗りの技法の応用となっている。

 たとえば八十八の種付け用の牡馬花雲は、けっきょくは皮と肉という形でしか戻ってこなかったのだが、八十八はこのさほど価値があるとも思えないような形見が、別の場所で百両で売れたと駒太夫に吹き込むのだ。もちろん、何の証左もなくそんなことを言ってもまず信じてはもらえないのだが、彼はその百両を、まったく別の方法、それも同じく馬の皮を使ったペテンでもって手に入れており、嘘に信憑性をもたせることに成功している。本来であればまったく価値のないもの、あるいはどう考えても災難でしかない事柄を、いかに価値あるもののように見せかけるか、というところに、彼の巧みな詐称術の見せ場が出てくるということである。

 ところで嘘という、けっして褒められたものではない才能の扱いについて、本書ではけっこう注意深いところがあり、八十八はこの嘘つきの力を、悪人やあこぎな人たちに対してしか使わないし、また八十八自身、そういう輩を騙す方向にかんしてのみ、異様なまでに頭の回転が早くなるようなところがある。本書のなかで、真面目な村人から真面目な問題についての解決を求められるシーンがあるのだが、こうした用件には、彼の嘘はあまりうまくはたらかない。つまり、八十八の法螺吹きの力は、対悪人用だからこそその効果が発揮されるということになる。そしてそれを裏づけるかのように、彼の嘘つきを治すために百ヵ所めぐりをつづけていた母親が、死の間際になって彼の嘘が「とりえ」だと仏様に諭された夢をみたという告白が入る。

 それゆえに、この八十八の物語が、たんに勧善懲悪の復讐譚に終始していれば万事ハッピーエンドを迎えるはずなのだが、ここに名主の高野金兵衛の娘、お今とのラブロマンスが混じってくることで、彼の運命は大きく変遷させられることになる。

(――つまるところお今さんのそばにいたい。これがおれの本気。これだけが真実。そのためにはどんな嘘だってついてみせるぜ。そうとも、嘘が真実を守るんだ)

 言うまでもないことだが、本書のヒロインたるお今は、悪人ではない。そしてそうであるがゆえに、さすがの八十八もその嘘の能力を用いて彼女を口説き落とすことはかなわない。もし、お今が彼に惚れることがあるとすれば、それは彼の嘘の結果として、弱者に救いがもたらされるという事実にこそあると言える。そしてその思いは、しだいに八十八の目的をより大胆に、より大規模なものへと移行させることになる。それはまさに、嘘で天下をとるかのごとき、無謀な、しかしこのうえなく魅力的な野望である。はたして、八十八の嘘は天下を相手にどこまで通用するのか、それはぜひ直接本書を読んでたしかめてもらいたい。

 ちなみに蛇足ながら、本書にはしばしば著者自身の見解が差し挟まれることがあるのだが、そのなかでとくに興味深いことのひとつとして、著者がこの八十八の生涯を創作としての「物語」ではなく、あくまで史実に基づいた「伝記」であると強調している点である。だが言うまでもなく本書はフィクションであり、馬喰八十八もまた昔の伝承のなかに出てくる架空の人物である。そして、そんなふうに考えたとき、本当の稀代の大法螺吹きというのは、馬喰八十八ではなく、むしろ井上ひさしという小説家なのではないか、と思わずにはいられなくなる。ともあれ、なかなかに油断のならない作品であることには間違いない。(2013.11.06)

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