【河出書房新社】
『小説 真夜中の弥次さん喜多さん』

しりあがり寿著 



「弥次さん喜多さん」といえば、江戸時代の作家十返舎一九の『東海道中膝栗毛』に登場する、弥次郎兵衛と北八のコンビをまずは連想する方も多いだろう。今回紹介する本書『小説 真夜中の弥次さん喜多さん』も、ふたりが伊勢神宮を参拝するために江戸を出て、東海道を西に旅していくという骨子の部分は同じである。ただ、タイトルに「真夜中」とついていて、それだけのことだと言ってしまえばそれまでだが、しかしこの「真夜中」という言葉が、かなりの曲者なのだ。

 この書評を読んでいらっしゃる皆さんは、真夜中という時間帯に何をしているだろうか。夜にはめっぽう弱い私などは、ほぼ間違いなく眠っている時間であり、おそらく世の中の大半の方は、寝るための時間として真夜中をとらえていることと思うが、だからこそ、たとえば何かのイベントで夜中に起きていなければならないときなどは、どこか昼間とはまったく違った世界にいるような気がして、妙に興奮するものだったりする。太陽の光によって世の中が照らし出され、そのなかでは何もかもがはっきりとその姿を映し出されてしまう昼間とは異なり、夜中という時間帯は世界の大半が闇の中に閉ざされて、そこに何があり、何が起こっているのかがかぎりなく曖昧なままでいることを許される。妖怪変化が生まれたのも、光の届かない暗闇があったからであり、それこそ何百という妖怪の絵巻物を見るにつけ、人間の想像力の豊かさにあらためて感嘆せずにはいられなくなる。

 さて、本書の舞台は江戸時代のようでありながら、そのなかには自販機やらカラオケやらといった、多分に現代的な要素がちりばめられていたりして、どうにもはっきりしない。弥次郎兵衛と喜多八は同性愛の愛人どおしであり、弥次郎兵衛は所帯持ちであるから、喜多八との仲は不倫関係にあるということになる。そして喜多八のほうは、「江戸がペラペラでなくなるように」飲みつづけているご禁制の薬の影響で、現実と虚構の区別がかぎりなく曖昧な状態にある。そして物語が進むにつれて、どんどん現実とはかけ離れた、どう考えてもありえない現象が次々とふたりを襲うことになる。薬に溺れた喜多八の見る妄想の世界と、それになかば取り込まれてしまった弥次郎兵衛の、まるで夢のなかでの出来事であるかのような、支離滅裂でなにもかもが曖昧な世界を旅する物語――そういった要素を指して「真夜中」としているのであれば、それこそが本書が本書たる大きな要素であると言うことができる。

「真夜中の弥次さん喜多さん」とは、私たちが眠りから覚めて日々の生活を過ごしている昼日中の弥次さん喜多さんではなく、私たちが眠りのなかで見ているかもしれない真夜中の夢のなかにいる弥次さん喜多さんのことである。いや、あるいはこうした「昼間」とか「真夜中」といった区分け自体、本書のなかではたいした意味をもつものではないのかもしれない。なぜなら、本書はかぎりなくつづくさまざまな妄想や幻が現実を凌駕するようなめちゃくちゃな世界のなかを旅するふたりが、ときにその妄想の渦に自身を見失いそうになりながらもなんとかお互いを励ましあって生きていこうとする姿を描いた作品であるからである。

「この世もあの世もオイラもおめえもなんだかよくわからねえ」
「オイラはおめえのことはよくわかってるつもりだよ」
「オイラは自分ではわからねえ」
「じゃあオイラもわからねえ」

 本書の冒頭で、喜多八は言う。お伊勢さんにたどり着けば、きっと何もかもがうまくいく、と。それは、喜多八の体をむしばむ薬の中毒もなくなって、まぎれもない現実の世界が見えてくるに違いない、という希望にほかならない。それこそが彼らの旅の目的であり、それはきわめて現実的な願いでもあるわけだが、本書のなかにおいても、ふたりが無事伊勢神宮にたどり着けたのかどうかは、はっきりしたことは書かれていない。むしろ、旅はこれからいくらでも続いていきそうな雰囲気さえ漂わせているのだが、そもそも、私たちがまぎれもなく生きていると思っている「現実」も、はたして唯一無二の現実だと言えるのだろうか。

 自分が見ている現実は、相手が見ている現実とまったく同じというわけではなく、そんな自分自身も、ときに自分の意思を裏切るような言動をしたりすることを、私はよく知っている。どれだけ強く望んでも、相手のことをすべて理解することはできないし、ともすると自分自身でさえ信じることができなくなってくる。そして自分が信じられなくなってしまえば、そこから得られる情報によって理解している「現実」そのものも信じられなくなってしまうことになる。だが、私たちがこの世を生きていくさいに、何が現実かそうでないのか、なんてことをいちいち考えているわけではない。けっきょくのところ、今という時点で生きているのであれば、私たちは私たちが信じる現実のなかで生きていくしかない。そしてそれは、本書のなかで旅をつづけている弥次郎兵衛と喜多八にしても同じことなのだ。

 本書のなかで展開していく妄想世界は、あきらかに私たちがリアルと感じる事柄からは逸脱しており、それゆえにその情景は、ときに非常に滑稽で笑えるものだったり、あるいはブラックでシュールなものだったりするのだが、そんな妄想世界を旅するふたりは、そのありえない状況について、「これは本当に現実なのか」という疑問をもつことはない。おそらく、彼らにもわかっているのだ。自分たちの目の前に展開する出来事が、はたして現実かそうでないかなど、とりあえずの今を生きていくことに比べれば、はるかにどうでもいいことなのだと。

 虚構の世界をいかにリアルに書くことができるかどうかは、もちろんその作品がすぐれたものであるかどうかを示す基準のひとつであるが、めくるめく妄想世界――それこそ何の基準もルールもない支離滅裂な世界を、独自の感性で描ききってしまうことは、まぎれもない才能のひとつである。おそらく、たしかなリアルを求めて旅立ったふたりは、はてしない道のりをこれからも歩いていくことになるだろう。ふたりの求めるたしかにリアルは、その道のりのなかにこそあるのだから。(2005.07.18)

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