【新潮社】
『停電の夜に』

ジュンパ・ラヒリ著/小川高義訳 

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 人はその一生のうちに、どれくらいの人たちと出会い、また別れていくものなのだろうか、ということをふと考える。

 私たちがひとりひとりではあまりにも無力な存在であり、お互いがお互いの足りない部分を補いあい、助けあって生きていく人間社会のなかにいる以上、望む望まないに関係なく、私たちは自分以外の大勢の人たちと、なんらかの関係を築いていくことになる。それは、たとえば親子や兄弟といった、けっして断ち切ることのできない血縁関係から、道ばたでほんの一瞬だけ言葉を交わしただけの関係まで、さまざまなものがあるのだが、こうした色とりどりの人間関係によって織り成された自分のこれまでの人生を振り返ったとき、私たちは逆に、人との関係の積み重ねによって自分の人生が構成されているのではないか、という思いを抱くことにもなる。

 本書『停電の夜に』の著者であるジュンパ・ラヒリの短篇は、じつにさりげない形で物語がはじまり、同じくさりげない形で物語が終わる。人生のある時期において、ほんのしばらくのあいだだけ「他人」ではなくなった隣人たち――たとえば『病気の通訳』では、インドの観光ガイドをしている男と、その客である家族の夫人との関係であり、『セン夫人の家』では、11歳の少年と、そのベビーシッターとなるインド人女性との関係であり、『三度目で最後の大陸』では、アメリカの大学図書館職員として採用された「私」なる人物と、その彼がカルカッタで結婚した女性を呼び寄せるしばらくのあいだだけ借りていた下宿の大家である老婦人との関係であるのだが、そうした関係が、登場人物たちのその後の人生を劇的に変えた、というエピソードは、本書の中にははっきりとは書かれていない。ただ、その名残をとどめているような描写が、じつにさりげない形で差し挟まれているだけである。

 人と人との出会い、というと、とかく「運命の出会い」とか「激しい恋愛関係」とかいった劇的なものばかりが注目されがちであるが、本書に載せられている、人生のワンシーンを切り取ったかのような、ちょっとした出会いと別れを、そしてそこから生まれたほんのちょっとした心の変化を、繊細な筆致で現出させた著者の功績は大きい。とくに、死産という悲劇を経てお互いの距離が遠くなりつつあった夫婦が、たまたま停電になった夜に、ろうそくの乏しい光のなかで、お互いが隠していた秘密を打ち明けあう、という表題作『停電の夜に』における、光と闇のコントラストが、お互いの心の明暗と結びつくシーンなどは、ひどく印象的で、かつ美しい。そして、まるでベテランのカメラマンが撮った写真を思わせるようなこうしたシーンの数々は、何よりも人と人のあいだに置かれた距離を雄弁に物語るものでもある。

 本書の著者ジュンパ・ラヒリはロンドンの生まれであるが、両親はともにカルカッタ出身のベンガル人であり、幼少の頃にはアメリカに渡るという複雑な経歴を持っている。こうした背景が本書の作品におけるひとつの核であるのは間違いないところだろう。じっさい、本書のなかには、著者と似たような経歴をもっていると思われる登場人物が何人も出てきたりするのだが、ひとつだけ気をつけなければならないのは、それがすべてではない、ということである。

 基本的に、外国人というのは異質の人間である。自分のまったく知らない生活環境や習慣のなかで生きていた、聞き慣れない言葉と思考を介する外国人、さらには著者のように、ある特定の国の出身と限定することができず、イギリスとインド、アメリカの狭間にいるかのような、不安定なアイデンティティを抱える人たち――自分が日本人である、ということを意識することすらほとんどないほど、日本という国に染まった私などにとって、彼らの存在はすでに異質であり、お互いのあいだには膨大な距離によって隔てられているように思えてしまう。だが、本当にそうなのだろうか。住んでいる場所が大きく隔たっているからといって、お互いの心の距離まで遠く隔たってしまうものなのだろうか、という問いかけが、本書のなかにはたしかにある。

『ピルザダさんが食事に来たころ』という短篇は、バングラディッシュからやってきたピルザダさんという人物を、アメリカに在住しているインド人の少女の視点から描いた作品であるが、彼女には「両親と同じ言葉をしゃべ」り、「笑うジョークも一緒」で、食べる物も習慣もなんら変わらないピルザダさんが、じつは自分たちと同じインド人ではない、という事実におおいに戸惑いを覚えることになる。人と人との出会いによって「他者」が「他者」でなくなるとき、その心の距離はたしかに相手へと一歩近づいたわけであるが、こうした心の距離が、たとえばピルザダさんの出身地であるバングラディッシュと、少女の住むアメリカという、実質的な距離と比較されることによってよりはっきりと見えてくる、という手法は、著者ならではの絶妙なものであり、だからこそ、少女がバングラディッシュにいるはずのビルザダさんの家族の無事を祈る、という彼女なりの行為に大きな意味が生まれてくることになる。また逆に、『停電の夜に』や『神の恵みの家』のように、結婚というイベントによって、夫婦というもっとも身近な関係を築くことができたにもかかわらず、お互いのそれまで知らなかった部分を知ってしまったがために、保たれていたお互いの心の距離が急に離れていく様子を描いていくのも同様である。

「他人」が「他人」でなくなり、また「他人」へと戻っていくときに生じる、心と心の距離の変化――人生のなかで、おそらく何度となく起こるであろう、おもいがけない異質な他者との接触のなかで、人が何を思い、そのことで自分がどのように変化していくのか、という人間模様を、あくまでひとつの日常を観察する視点で描いた本書には、だからこそまぎれもない人間の姿――無慈悲さとあたたかさに溢れた人の心がある、と言うことができるだろう。(2002.04.29)

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