【幻冬舎】
『吉原手引草』

松井今朝子著 
第137回直木賞受賞作 

背景色設定:

 江戸幕府公認の歓楽街であったという吉原遊郭というと、私が個人的に印象に残っている知識として、「わちき」や「〜でありんす」といった独特の花魁言葉だったりするのだが、これとよく似たような印象を抱かせる集団としてふと私の頭に浮かんでくるのは、じつは戦前の日本軍の兵隊言葉である。
 よく第二次大戦時の小説や戦記などを読んでいるとわかってくるのだが、日本軍兵士を思わせる独特の言い回しというのが存在する。たとえば、兵隊はけっして自分のことを「私」や「僕」と呼ばない。かならず「自分は〜」という人称で統一されている。これは、上官や同僚、下の者を呼ぶときも同様の統一された決まりというものが存在したのだが、その背景にあったのは、全国から兵士を集めたときに生じる方言の問題がからんでいたと言われている。

 兵隊は基本的に、上官の指揮どおりに動くことが大前提だ。そのさいに、それぞれがそれぞれの方言で命令を出していては、その大前提が崩れてしまう恐れがあった。今のように通信手段が発達していない時代のこと、出身地によってはまったく言葉が通じない、という事態も充分にありえる。だからこそ、軍隊独自の言葉遣いによって兵士たちの話し言葉を統一しておくことが重要な課題であっただろうことは、容易に想像がつく。

 吉原ではたらくことになった女性の出自が、貧困にあえぐ地方の農村を主とするものであったとするなら、同じようなことが花魁言葉についてもあてはまることになる。ようするに、全国から集められた花魁予備軍から、その出自を想像させる方言を削ぎ落とすための教育の一環として花魁言葉という奇妙な言葉遣いがあった、ということだ。だが同時に、それはそれまでたしかにあったはずの個性の一端を削ぎ落とす儀式でもある。吉原に連れてこられた女たちは、花魁言葉を習い、源氏名を与えられることによって、それまで生きてきた世界とのかかわりを一時的にとはいえ、断たれてしまうことになる。そして、だからこそ吉原という歓楽街は、たんなる歓楽街というよりは、一種の異世界――非日常的な空間として、独自の発展を遂げていったとも言える。

 今回紹介する本書『吉原手引草』は、そのタイトルにもあるとおり、吉原遊郭を舞台とした物語であり、またミステリーとしての要素も強い作品であるが、ただのミステリーと異なる点があるとすれば、それは物語がはじまった時点で事件の謎はおろか、おこった事件そのものさえ読者には巧妙に隠されているという一点につきる。

 吉原を訪れる客に妓を紹介する引手茶屋の内裏や見世番、遣手や床廻し、新造や幇間をはじめ、そこに通っていた客や、はては吉原に女を斡旋する女衒にいたるまで、吉原と何らかの関係をもつ人々の語った言葉を、まるでインタビューか何かのように書き連ねていくという形式をとっている本書であるが、物語を読み進めていくうちに、読者はこれらの話の聞き手――同一人物と思われるインタビュアーが何らかの目的をもって、吉原の住人たちへの聞き込みを行なっているということに気づくことになる。その過程において、私たちはどうやら三ヶ月ほど前に吉原で天地がひっくり返るような騒ぎがあったこと、その騒動の中心に葛城と呼ばれる売れっ子花魁が絡んでいたことが見えてくるのだが、肝心のその内容については、じつは物語の終盤近くになるまで明かされることはない。

 ミステリーの見地からすれば、殺人事件の内容そのものが見えてこないということであり、そういう意味では読者にとってまだ何もはじまっていない、あるいは何もかも終わってしまったとさえ言える状態なのだが、それでもなお本書が読者の興味をとらえていられるのは、そこに隠された謎の質というよりは、むしろ本書がもつ吉原という異世界の臨場感がひと役買っていると言っていい。相手の話し言葉を、感嘆詞や笑い声といったノイズも含めて書き起こしていく本書の形式は、たとえば「指切り屋」などといった、吉原でしか成立しえない特殊な職業についている語り手の特徴をこのうえなく引き出すものであり、本来なら一人称の語り手となるはずの人物が徹底して話の聞き役に徹していることもあって、読者が吉原という物語世界に入り込みやすい構造となっている。何より、吉原という場所は本来的には春をひさぐ場であり、それだけ秘密主義的な雰囲気のただよう場所でもある。けっして神の視点でその全容を語ることなく、また一人称による主観も極力削り落とし、ただ吉原に住む人々の話のみをつづっていく本書の流れは、言ってみれば壁に穿たれた小さな穴から向こう側を覗き見るような性質のものだ。

 穴があれば覗いてみたい、というのは人間であれば誰しもがもっているひとつの性質であるが、その性質をよりいっそう引き立てている要素として機能しているのが、葛城という花魁の存在である。じつのところ、本書に出てくる吉原にかんする専門知識の数々にも驚くべきものがあるのだが、それ以上に異彩を放っているのがこの葛城という美女であり、本書に仕掛けられた謎は、ひとえにこのひとりの花魁に拠るところが大きいとさえ言える。はたして、葛城とは何者だったのか――どうやら聞き手も、ことさら彼女のことについて情報を集めようとしている節があるのだが、「女郎の誠と四角い卵はない」という言葉が示すとおり、吉原という特殊な空間を生きる人々の言葉の端々に、葛城にかんする事柄はいくつも浮かび上がってはくるものの、それらの証言をどれだけ収集し、つなぎ合わせようとしても、いっこうにその全体像は見えてこない。逆にいえば、この一筋ならではいかない葛城をはじめとする吉原の秘める要素そのものを、本書は見事なまでに再現していると言っていい。

 お歯黒溝にぐるりと囲われたこの三丁四方の遊郭の中は、思えばひとつの大きな舞台なのかもしれませぬ。――(中略)――色事の口舌や濡れ場はもちろん、惚れたあげくに死ぬの生きるのといった愁嘆場もあり。されどそれすべて仮りそめの芝居だと思えば、下手な間違いはせずとも済むのかもしれませぬ……

 上述したように、花魁は花魁となった瞬間、まさに「花魁」というひとつの無個性な存在と化してしまう。それは、戦前の日本軍兵士の、その個々にあったはずの個性について、今を生きる私たちがなかなか想像しがたく、けっきょくのところ「兵隊」という言葉でひとくくりにしてしまうのとよく似ている。そして、本書の中心となっている葛城にしても、その同じ時代を生きる吉原の住人でさえ、知っているのはあくまで「葛城」という源氏名をもつ花魁のことであって、彼女がどんな出自であり、どんな理由があって吉原で春をひさぐ身に堕ちることとなったのか、という点について、ほとんど何もわかっていないという事実が、厳然としてこの作品のなかにある。そしてそんなふうに考えたとき、本書のなかでインタビュアーの役割をはたしている、けっして自己主張をすることのない聞き手の、その隠された目的について意識せずにはいられなくなってくる。そう、彼の目的は、放っておけば「花魁」という職業についた数多くの女のひとりとして、時とともにうずもれていくはずであったひとりの女性を、まさにひとりの人間としてとらえなおしていく行為でもあるのだ。むろん、そこに彼の意識がどの程度反映されているのかは、まったく別の話ではあるのだが。

 あくまで売春という商売でありながら、形だけのものとはいえ婚礼の儀さえ客のために執り行うという吉原――ときに男衆が花魁に本気で恋をし、あるいは逆に花魁のほうがなじみの客に入れ込んだりする、しかしそのなかのどれが真実でどれがポーズにすぎないのか、このうえなく曖昧な吉原という特殊な世界にあって、ひときわ異彩を放ち、最後には吉原から神隠しのように姿を消したひとりの花魁の、そのすさまじき生き方を、ぜひともたしかめてもらいたい。(2007.09.02)

ホームへ