【文藝春秋】
『泣き虫弱虫諸葛孔明』

酒見賢一著 



 まずは本書のタイトルである『泣き虫弱虫諸葛孔明』、これはある意味詐欺に近いネーミングだと言わなければならない。いや、じっさいに本書に書かれているのは中国の三国志時代に活躍した天才軍師(ということになっている)、諸葛孔明のことで間違いはないのだが、別に彼は泣き虫でもなければ弱虫というわけでもない。第一、本書における孔明は、幼少のころより口喧嘩や屁理屈では大人さえもやりこめてしまうほど巧みという、なんとも嫌な子どもであったし、腕力を振るわれれば卑怯な策略や虚言、あるいは放火という手段できっちり仕返しをしたという。彼が人前で泣くのは、たいていはたんなるフリであって、その裏で別のことを考えていることが多いのだが、ではじっさいに孔明が何を考えていたのか、という点になると、じつは本書の著者でさえさじを投げている、というのが実情だったりする。

 そんなんで大丈夫なのか? 小説として成立するのか? という変な心配がふつふつと湧いてくるその内容のことはさておき、ようするに本書のタイトルは『奇人変人諸葛孔明』というのが正しい。ただ、このタイトルだと全国三千万(もいるのかどうかは知らないが)の三国志ファン、諸葛孔明ファンからクレームの嵐が来るかも、と考えた編集者が、今のタイトルに変えたというのが個人的な推察である。べつに根拠は何もない。だが、本書を読んでいけばいくほど、諸葛孔明という人物のわけのわからなさばかりが膨れ上がっていくことになる。

 ところで『三国志』において孔明の真の理解者が果たしてどれだけいたであろう。
 数えるほどしかいなかったはずである。
 
――(中略)――つまりこの稿においても孔明理解はハナから不可能(新たな孔明像に迫るとか、そんなものはまったく念頭に置いていないということである)、もし分かってしまったらこの小説は失敗であり、わたしも困ったことになるのである。

 さて、著者自身から「わけのわからない人物」というお墨付きをいただいてしまった孔明が、「三顧の礼」を経て劉備の軍師となるくだりまでを書いた本書において、もっとも特長的なのが、物語全体を高みから見下ろす形で説明し、あるいは解釈を垂れたりするナレーターとしての視点である。これは、あるいは著者自身ととってもかまわないのだが、登場人物の誰かに主体におき、物語のなかから臨場感あふれる展開をつむいでいく方法とは対極に位置するこの視点は、書かれた物語がすでに過去の歴史として認識している私たち読者の視点に近いところから物語を語るもので、司馬遼太郎の時代小説ものなどがこれにあたる。しばしば本編とは関係のないエピソードや薀蓄などを取り入れることで、いかにも歴史小説ものとしての雰囲気を醸し出すのが特長のひとつなのだが、本書の場合、そもそも孔明を「わけのわからない人物」としてとらえている認識があるせいか、良くも悪くもはっちゃけているところがある。

 私たちは、自分たちの価値観にあてはまらない考えかたや、世間一般の常識からはずれた言動をする人々、つまりは「わけのわからない人物」について、「よほどの天才か、あるいはただのバカ」という認識をもたざるを得ないのだが、本書における孔明が、まさにそれにあたる。妙な道服を着て変な歌を唄い、ふと立ち止まっては扇子をじっと眺めていたりする。勉学はできるし知識も豊富なのだが、話をすると妙にスケールの大きなこと(それこそ宇宙規模のスケールである)を語りはじめ、しだいに話がかみ合わなくなる。しかもタチが悪いことに、その弁舌には妙な説得力があり、相手をわけがわからないなりに納得させてしまうものがあるし、とかく唯我独尊で人とあまり接せず、ひきこもりがちでありながら、どこから情報を仕入れているのか、妙に時事に詳しかったりもする。

 本書に登場する誰もが、孔明が何を考えているのかを理解していないのはいいとして、ナレーターすら彼のことをよく理解していない、というより、誰にも孔明の真意などわからない、という立ち位置で物語が書かれるものだから、当然のことながら孔明の言動は意味不明なものが多くなる。妙にスケールの大きなことを考えているようなのだが、そもそも辺鄙な山奥で晴耕雨読をしている世間知らずの田舎者にすぎない、という実体があるがゆえに、そのギャップもまた大きくなってしまう。そしてそのギャップの大きさを、ナレーターは意図的に面白おかしく表現していこうとする。

 諸葛孔明と言えば、「三国志」を知らない人でも名前くらいは聞いたことのある(に違いない)有名人だ。おもに天才の代名詞として彼の名前がもちいられており、私たちは彼のことを「なんだかよくわからないけど凄いヤツ」という認識をもっていたりする。三国志のシミュレーションゲームでも、諸葛孔明の知力は100で、一番頭がいいという設定だ。だが、著者の視点からすると、何がどう凄いのかがよくわからないのが諸葛孔明であり、知れば知るほどどこか大人気ない側面が見えてくるらしい。

 時は戦国の世であり、曹操の台頭著しいなか、そんな世のなかの趨勢など興味がないのかと思えばそうでもなく、師匠ともいうべき水鏡先生に自分のことを「臥竜」と呼ばせ、とにかく凄いヤツという噂を流したのはいいが、その効果が強すぎてまるでどこかの妖怪変化という印象ばかり先走ってしまったり、かと思うと嫁さんをもらって天下のことに興味を無くしたりと、どこかやることなすことが一定していない。あっちへフラフラ、こっちへフラフラ、何を考えているのかわからず、そんな孔明に「そんなんでいいのか」とナレーターが茶々を入れたりする。

 それは後に登場する劉備とその配下の者たちも同じことで、とくに劉備については付き合うとこのうえなくやっかいな人物であり、彼の率いる軍団は任侠集団のようなものだということになる。そして、言われてみればたしかにその通りだったりするから余計にタチが悪い。本書の面白さは、三国志の歴史をきちんと押さえた上で、その突っ込みどころをくすぐり、ケレン味たっぷりに演出して見せるところだと言えるのだが、にもかかわらず、孔明にしろ劉備にしろ、やはりどこか凄いヤツであるという部分を残しているという、そのバランス感覚が絶妙で、だからこそ面白いのである。

 ちかごろ、わたしにもようやく諸葛孔明の偉大さがわかってきた。
 決して皮肉ではない。

 本書冒頭にあるこの引用は、たしかに皮肉ではあるのだが、同時に皮肉ではない。どこかバカにしているように見えながら、それでもなお孔明は(なんだかよくわからんけど)凄いヤツなんだという思いを残している本書は、最終的には孔明と劉備を結びつけることになるのだが、そうなったら最後、どんなとんでもないことが起きてしまうのか、正直なところ心配で仕方がなく、またこのうえなく楽しみでもあったりする。(2010.07.06)

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