【角川春樹事務所】
『八朔の雪』
−みをつくし料理帖−

高田郁著 



 交通や通信が格段に進歩した現代において、地理上の距離は昔と比べてずいぶんと縮まってきている。テレビの普及が方言の格差を埋めるのに一役買っているのは間違いのない事実であるし、ご当地料理と言われるものであっても、全国に流通していたり、料理店などで容易に食することができたりする。それが幸福なことなのかどうかという議論は措くとして、それはそれでどこか味気なさを感じてしまうのも事実だ。

 人間ひとりひとりに個性があるのと同様に、人々の集まって生活するそれぞれの地域に何らかの差異が出てくるというのは、ある程度は避けられないものであるし、だからこそ面白いという見方もある。とくに、食べ物のカルチャーショックというのは、だれもが一度は経験するものだろうと思うのだが、私が今でも覚えているのは、広島風のお好み焼きの味を知ったときのことだ。それまでお好み焼きといえば、大阪風のものがあたり前だと思っており、はじめて広島風お好み焼きの存在を知ったときも、キャベツの千切りなどを山盛りにするというそのやり方にあまりなじめずにいたのだが、仕事の関係で広島に出張したときに、いわゆる本場の広島風お好み焼きを食べたときは、その意想外のうまさに二重に驚かされた記憶がある。

 本書『八朔の雪』は、表題作をふくむ四つの作品を収めた連作短編集という形をとっているが、主人公が一定で、かつ時間軸も一定の方向であることから、ひとつづきの物語としてとらえるべき作品だと言うことができる。舞台は江戸、そして本書の主人公たるお澪は、その冒頭で自分の出した料理を客に否定されて困惑顔になっている。半年前に上方から江戸に出てきたばかりの彼女は、神田明神下御台所町の蕎麦屋「つる家」の調理場を任される立場にあったものの、大坂と江戸の味の違いは予想以上にお澪を戸惑わせるものだった。近世において女性が料理人という職業に就いていること自体、珍しいものであるが、それ以上にお澪には、今の境遇に到るまでのさまざまな事情をかかえていたりする。そうした事情をいきなり説明するのではなく、何の前振りも説明もないまま、いきなり印象深い場面をもってくることで読者の興味をひき、読み進めることでその背景や、お澪をめぐるさまざまな事情を少しずつ明らかにしていくという構成のうまさが、本書の特長のひとつとなっている。

 お澪が以前に奉公していた「天満一兆庵」は、大坂でも名の知れた料理屋で、主人の嘉兵衛にその天性の味覚を買われて料理人として厨房に入ることになったものの、本店の火事、江戸店の主である佐兵衛の失踪、嘉兵衛の死といった不幸が続いた結果、彼女は病気がちな女将の芳をかかえて江戸に出てくることになった。「天満一兆庵」の江戸店を復興させる――それが彼女の目標であり、また嘉兵衛の悲願でもあるのだが、現実には日々の暮らしに追われるばかりで、なかなか思うようにいかないばかりか、見ず知らずの自分を使ってくれている「つる家」の店主種市になんら恩返しもできない状態にある。

 大坂と江戸の味の違いをはじめ、さまざまな困難に見舞われながらも、なお人々を喜ばせる料理を目指して精進しつづけるその健気で一途な思いが心を打つ本書であるが、なによりこの作品を印象づけているのは、そうした困難克服の過程で生み出される料理の数々にあるといっても過言ではない。巻末にレシピを載せているというそれらの料理は、けっしてオリジナリティ溢れるようなものではなく、心太や茶碗蒸しなど、素朴でごくありふれたものにすぎない。そして、ある料理が物語と強く結びついている作品というのも、けっして珍しいものではないのだが、本書におけるそれらの料理は、料理そのものよりも、むしろそれらありふれた料理のなかに独自の味を生み出したお澪の思い――料理で人の心を温かくしたい、喜んでもらいたいという思いを形にしたものであり、そういう意味で味わい深いものとなっている。そしてその思いは、料理で名を上げるとか金儲けといった人間の欲望とは対極に位置するものであるがゆえに、のちに彼女の敵役として登場する名料理屋「登龍楼」との対比も鮮明に浮かんでくることになる。

 失踪した佐兵衛を探し出し、「天満一兆庵」江戸店を再興する、芳の看病をし、できるなら病気を改善させる、お世話になっている種市の恩に報いる――ほかにも、十年前の水害で行方知れずになった幼馴染の行方など、お澪が成さなければならないことや、気になっている事柄はじつは数多くあり、そうした要素の多さは、ともすると物語の軸を安定させず、散漫なものにしてしまいがちであるのだが、じつのところ彼女の向かっているベクトルは常に一定であり、その安定感が物語を板についたものにしている。それはもちろん、料理に精進するというものであり、その道程を歩んでいくことこそが、最終的には彼女のかかえる目的をはたすことになるというある種の信念が、お澪にはある。

 何かを信じるだけならたやすい。だが、それを長く信じつづけるというのは、けっして容易なことではない。人間である以上、自分のやっていることが本当に正しいことなのか、目指すべき目的地に近づいているのか、といった疑問はどうしても沸きあがってくる。そんなとき、自分以外の誰かの支えがあるのとないのとでは、とてつもなく大きな差を生むことになる。そしてお澪の周囲には、何らかの形で彼女を支え、手助けしてくれる人たちがいる。そんな登場人物たちの存在も本書の大きな魅力であるのだが、なによりそうした味方の存在を違和感なく認めさせるだけ魅力が、お澪にあるからこそ成立することは言うまでもない。

「この道で花を咲かせることが、私があの水害で親の命と引き換えに生き残った理由のように思えてならんのだす。一兆庵の再建も若旦那のさんのことも、その道程にあるだけのこと。決して犠牲になってるわけやおまへん」

 子どものころ、有名な易者に「雲外蒼天」の相と言われたとおり、お澪の物語は常にさまざまな困難とともに語られる。だが同時に、その困難が大きければ大きいほど、彼女の周囲にいる人たちが示してくれる人情の温かさも伝わってくる。本書は料理の話であり、お澪の料理人としての奮闘記であるが、なによりも人情の物語である。人と人との不思議なつながり、そしてそれらをつないでいくお澪の生み出す料理を、ぜひ味わってもらいたい。(2010.10.18)

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