【新潮社】
『吉原御免状』

隆慶一郎著 



 人が強さを求めるとき、そこにある心理は大きくふたつにわけることができる。ひとつは自己顕示欲や所有欲といった、人間であるがゆえに誰もが抱えずにはいられない欲望を満たしたいという心理であり、もうひとつはそうした他人の暗い欲望から自分の身を守りたい、被害者になりたくない、という自己防衛の心理である。前者は積極的なものであり、後者は消極的なものである、という違いはあるが、けっきょくのところ、どちらの心理もその中心にあるのが自分自身であり、他の誰でもない、自分のための力、という意味では、どちらも本質的に同じものだと言うことができるだろう。そしてそれは、どれだけ清らかな大義名分をふりかざしても、どれだけ大切な人のためだと口にしてみても、当人が意識するしないに関係なく、けっして拭い去ることのできない業のようなものでもあるのだ。

 とくにこの現代においては、強さは「銃」という名の武器に姿を変え、誰もが簡単に手に入れることのできるものとなってしまった。それゆえに、強さを求める人の心はますます醜く歪み、殺伐としたものとして映るようになってしまったわけであるが、その一方で、だからこそ人々は、純粋に自分以外のもののために使われる強さ――たとえ、それが幻想にすぎないにしても――に憧れずにはいられない、という側面を持つことになる。

 そういう意味で、強さがまだ個人の力量に拠るところの大きかった、武士や侍たちの時代というのは、まだしも強さが純粋であった時代だと言うことができるだろう。だが、それでもなお、強さを求めていけば、必ず自分がどのくらい強いのか、ということを試したくなる心理をどうすることもできない。隆慶一郎という作家は、そうした事実を見据えて、それでもなお純粋な強さ――己のためというエゴさえも超越した強さを表現しようと試みた。それが本書『吉原御免状』であり、主人公の松永誠一郎であると、私は思う。

 時は明暦三年(一六五七)、二十五の齢まで肥後の山中で生きてきた誠一郎は、師である宮本武蔵の遺言に従い、江戸・吉原へと赴いた。たんに客に春をひさぐだけではない、あらゆる学問伎芸に通じた太夫たちが、きらびやかに着飾って道中を行く最高級の歓楽街、夜の闇を払拭せんばかりの明かりと、絶え間なく響く三味線の音色に包まれた遊郭、吉原――だが、誠一郎がその「都」で感じ取ったのは、およそその場にふさわしいとは言い難い、おびただしい数の殺気であった。吉原は今、「神君御免状」を奪わんとする裏柳生の忍びたちと、それを守ろうとする吉原の戦闘集団たちによる、けっして表に現れることのない、静かではあるが激烈な争いの渦中にあったのだ。

「神君御免状」の「神君」とは、江戸幕府の支配者であった徳川家康のこと。つまり、「神君御免状」とは、家康が吉原を建設することを許すと示した書状のことであるが、その中に秘められた、幕府が転覆しかねないほどの秘密とは何なのか。宮本武蔵はなぜ誠一郎を吉原に向かわせたのか。吉原に隠れ住む戦闘集団の正体は? そして、そもそも捨て子だった誠一郎の身分に関する、驚愕すべき事実とは? 謎が謎を呼ぶ展開、宮本武蔵や柳生十兵衛、八百比丘尼といった大御所をはじめ、人の心を読み、未来をも予知する能力を持つ少女おしゃぶや、唐剣の使い手である謎の老人幻斎といった魅力的な登場人物たち、そして歴史の裏に隠された、数々の驚くべき真相――こうした要素が、吉原という閉鎖的な一大歓楽街を築くにいたった複雑な経緯と結びついたとき、すべての謎が一気に氷解するという、その練りに練られた物語構成の妙は見事と言うべきものであるが、なにより凄いと思うのは、松永誠一郎という、剣術の達人でありながら清々しいまでの純粋さを保ちつづけるキャラクターを生み出したこと、そして誠一郎と吉原という、一見するとまったくの対極に位置しそうな要素を、まったく同質なものとして結びつけてしまった、という一点に尽きるだろう。

 捨て子だった誠一郎にとって、宮本武蔵は剣の師である以上に父親というべき存在だった。その武蔵が教え込んだ二天一流の剣法は、誠一郎にとって人を殺すために編み出された技術ではなく、ひたすら自分の内側に入り込み、自分を磨くための生き方そのものであった。野生動物が獲物を狩るために振るう「強さ」を自分だけの、特別な力であるとさえ思わないのと同じ、呼吸するかのように身についた強さ――それも究極的なところで自分自身のための強さであることに変わりはないが、そこで誠一郎が、二十五の齢まで他人とほとんど接する機会のない山奥で生きてきた、というプロフィールが生きてくる。なぜなら、冒頭でも述べたように、自分の強さを客観的に計るには、自分以外の人間と戦う必要があり、いわば完全な孤独のなかで育まれた誠一郎の剣法は、殺人という、他者がいなければ成立しないはずの技術をすでに超えたところに置かれたからである。それは、裏柳生の総帥であり、誠一郎の敵役となる柳生義仙の剣が、組織の剣法であり、ある目的を果たすために集団で個を惨殺するための技術であるのとは、まったく対照的なものでもある。

 そして、著者が本書で描き出す、多くの文献や資料によって裏打ちされた吉原という世界は、それまでの淫靡で廃退的なイメージの漂う遊郭とはまったく異なった装いを読者に示してみせた。それは、たんにそこに生きる人たちの姿をリアルに表現した、というだけではない。四方を堀に囲まれ、正面の大門以外に出入りすることのできないという、まるで城のような構造、どんなに身分の高い者であっても、吉原に入るときは駕籠から降り、徒歩で入らなければならないという、身分を超越した治外法権のようなしきたり――ネタばらしになるため多くは語らないが、著者の斬新な発想は、吉原を、そしてそこに生きる者たちを、閉じ込められた者たちとしてではなく、自由を愛し、何より芸能で生きることに誇りを抱く者たちを、厳格な身分制度を推し進めようとする時の権力者から守るためのものと見なした。そして、すぐれた剣士でありながら、その剣を振るうための目的を見出すことのできなかった誠一郎は、吉原という世界のなかに、たとえ多くの人の血で汚れ、自身が修羅に落ちようと守らなければならないものを、たしかに見つけたのである。

 過去に起こってしまった事実に基づいてストーリーを構築しなければならない歴史小説は、それゆえに作家の自由な想像力を制限する要素の強いものでもあるが、たとえば佐藤賢一の『傭兵ピエール』のように、あえて歴史的事実をねじまげてでも、エンターテイメントとしての面白さをとる作家もたしかにいる。本書の著者、隆慶一郎の想像力が生み出した、まったく新しい吉原を、そして江戸の世界をぜひ楽しんでもらいたい。(2001.10.30)

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