【角川春樹事務所】
『Y』

佐藤正午著 



「ターニング・ポイント」という言葉がある。その人のその後の運命を大きく変えることになる人生の分岐路、文字どおりの「転換点」のことであるが、そうした人生のターニング・ポイントが誰にでもそれと分かる、はっきりとした形で訪れてくれるのであれば、誰も生きることに苦労はしないだろう。そのときのほんのちょっとした気まぐれの選択が、じつは人生を大きく左右するターニング・ポイントであったと気づくのは、だいたいにおいてすべてが決定づけられてしまった後であり、だからこそ人は、「もしあのとき、ああしていたら」という、けっしてありえない「if」を夢想することになる。

 もし、人生をやりなおすことができたら――後になってはじめて気づいた人生のターニング・ポイントを、もう一度選択するチャンスを与えられたら、という想いは、何事につけ後悔せずにはいられない私たち人間が、誰でも一度は夢みるありえない「if」であるが、もし仮に、ケン・グリムウッドの『リプレイ』のように、それまでの記憶をすべて保ったまま、過去のある時点に戻ることができたとして、そして本当にそのターニング・ポイントにおいて、自分が正しいと信じる選択を成したとして、そこから先の人生が、その人の満足のいく結果を生み出すかどうかは、誰にも断言することはできない。繰り返すが、人生におけるターニング・ポイントというものは、過ぎ去ってはじめてそれと気づく、ほんのささやかな選択のことであり、そして人間が本当に大切なものに気づくのは、それをなくした時であると相場が決まっているのだ。

 つまりタバコに火をつけて一度おまえは死んだ、そして五秒前のまだタバコに火をつけていない過去の自分に戻った。その時点でおまえの人生はすでに二つに枝分かれしている、記号で表せばちょうどアルファベットのYの文字みたいに。

 本書『Y』という作品の主要なテーマは、過去への跳躍――つまり、けっしてやりなおしの効かない、一度かぎりの人生にもう一度挑戦できるとしたら、という、ありえない「if」を描いた作品、ということになる。そしてそれだけであれば、本書のなかの登場人物が語るように、「筋立てとしてはかくべつ目新しくもないファンタジー」ということで終わってしまうことになる。本書の大きな特長は、その過去への跳躍という事実が、その当事者の視点ではなく、まったくの第三者の視点によって語られる、という点なのだ。

 本書の語り手である「私」こと秋間文夫は、ある出版社に勤める四十三歳の営業部員であるが、彼の妻と娘が家から出ていったその日に、北川健と名乗る男からの電話を受ける。高校時代の同級生であり、またその後も親友だったと語る北川健の名前に、しかし彼はまったく面識をもってはいなかった。「すべては物語を読んでもらえれば解決する」――わけのわからないままに、北川健の代理人と名乗る女性から受け取ったのは、けっして小額とは言えない現金と預金通帳、そして北川健が実話だと称する長い物語だった……。

 時間は常に過去から未来へと流れていくものであり、人はその流れに逆らうことも、また逃れることもできないし、だからこそ私たちの人生はたったひとつしか存在しない――私たち同様、ごくあたり前だと信じているこうした常識のなかで生きる秋間にとって、北川の話は到底信じられるようなものではない。読者に突きつけられる本書前半の謎は、この物語を託した北川とはどのような人物で、そして彼は何のためにこうした大袈裟なことを仕掛けなければならなかったのか、という点に集約される。だが、読者もある程度予想はつくだろうが、この謎はけっして本書のメインを占めるものではない。なぜなら、本書の大きなテーマが過去への跳躍にある以上、話の展開としてそれが真実でなければならないはずであるし、またそう信じさせるだけのものが北川の物語にはあり、そしてじっさいに、秋間はその話を信じるしかない状態へと追いこまれていくからである。

 そうなったときに、あくまでその過去への跳躍を、第三者の目でしか追うことのできない秋間にとって問題となってくるのは、それまでありえない「if」として思い描くしかなかった夢物語が、にわかに現実味をおびて迫ってくることであり、その「もうひとつの現実」と、どう折り合いをつけるべきなのか、ということでもある。

 たとえば、北川の物語のなかでは「一度目の人生」「二度目の人生」という書かれ方がされている。時間跳躍の当事者として、そうした認識はいかにも適切なものであるが、第三者である秋間にとって、現実とはあくまで北川の書く「二度目の人生」だけであり、「一度目の人生」で北川と親友であり、またベストセラー作家から映画監督へと転身した、才気溢れるクリエイターとして生きている秋間という人物は、やはりまったくの別人でしかありえないのだ。だが、もし北川の過去への跳躍を信じるとするなら、「一度目の人生」における自分もまたありえたかもしれない現実のひとつであり、それは他ならぬ北川の干渉によって捻じ曲げられてしまった、ということになる。そうした事実は秋間にとって――とくに、妻との結婚生活が失敗だったと認めなければならなくなっているこの現実に生きる彼にとって、けっして気持ちの良いものでないことは、容易に想像がつくと思う。

 だが、それは本当に、北川の干渉だけが原因なのだろうか。

 先にも例を挙げたケン・グリムウッドの『リプレイ』は、何度も人生をやりなおす男の話であるが、彼はその何度目かの人生において、世界をより良い方向に導こうと努力するが、けっきょくのところ世界の歴史を大きく変えることはできなかった。たとえ未来がわかっていたとしても、人間の力では変えようのない流れというものはたしかにあるのだ。

 本書のなかで過去に戻った北川が成した歴史の改ざん行為は、ほんのささやかなものだった。だが、そのささやかな行為が秋間をはじめとする何人かのその後の人生を大きく変えてしまったことが事実であるとするなら、逆に言えば北川の言う「一度目の人生」と「二度目の人生」の間に横たわる差異は、じつはほんのちょっとのことで変えていくことができる、ということでもあるのだ。

 時間跳躍は間違いなく、自然の流れに逆らう行為である。そのためか、大きく時間を跳んだ人間には、たいていの場合、幸福よりも不幸な結果が待っている、という作品が多い。本書の場合、秋間たちをその時間に置いて、過去へと跳んでしまった北川に関しては、それが結果として良かったのか悪かったのかははっきりとしない。だが、少なくとも時間跳躍という事実を第三者の視点でまのあたりにした秋間には、わずかな希望を残すことになった。その一点だけでも、本書を読んでみる価値はあると言っていいだろう。(2003.08.31)

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