【光文社】
『クリスマス・キャロル』

チャールズ・ディケンズ著/池央耿訳 



 この世には生まれながらの悪人などいない。それは、少し冷静になって考えれば誰にでも理解できる真理であるが、それでも私たちはしばしば、一時の感情から、あるいは何らかの良くない行為の一部をまのあたりにして、ある人物を悪人だと決めつけてしまうことがある。

 悪人が悪人であるための要素とは、いったい何なのだろうかと考えたとき、そこにはきわめて主観的な判断が介在していることを思い知ることになる。たとえば、殺人を犯した人間は、被害者やその近しい人たちからすれば、大切なものを奪った憎むべき人物であり、悪人と呼べるかもしれない。だが、彼は法を犯したという意味で犯罪者ではあっても、誰にとっても憎むべき悪人というわけではない。もしその犯罪者に、彼のことをよく知る者がいて、ふたりのあいだに良好な人間関係があったとしたら、少なくともその人にとって、彼はただの悪人ではなくなってしまう。

 そんなふうに考えると、人と人との関係というものの大切さ、というものが見えてくる。言うまでもないことだが、人はひとりでは生きられない。誰もが何らかの形で誰かに支えられて生きているし、また誰もが他の誰かを支えることで、私たちの社会は成り立っている。そうした自覚のないままに、自分はあくまで自分だという考え、自分さえ良ければあとはどうなろうと知ったことではない、という態度をとりつづけることは、必然的にお互いを助け合うという良好な人間関係を自ら断ち切って孤立してしまうことになるし、また他人の助けをあたり前のように受け取ったり、受けた恩をあだで返すような行為もまた、人間関係を良くないものへと変えてしまう。もし、あらゆる人間関係を拒否し、社会で孤立した人間が存在するとしたら、あるいは誰にも顧みられない、という意味で彼は「悪人」と呼ぶべき人物となるのかもしれない。

「人はみな」亡霊は答えて言った。「隣人、同胞と進んで広く交わって、心を通わせなくてはならない。――(中略)――生きている間にそれをしないと、死んでから重荷を負って歩くことになる。あちらこちらと彷徨って、悲しいかな、出る幕がないことを思い知らされるはめになるのだよ。」

 本書『クリスマス・キャロル』は、情け知らずの守銭奴で、誰からも蛇蝎のごとく嫌われていたエベニザー・スクルージが、あるクリスマスの夜に体験した不思議な出来事を経て、進んで人と交わり、誰かの幸せのために親身になって尽くすような人物へと生まれ変わるという話で、多分に人としての取るべき道を教え諭す教訓譚めいた要素をもつ作品でもあるが、ここでひとつ問題にしたいのは、それまで「降りしきる雪もその頑なな執念にはおよばない」とまで言われたスクルージ、およそ人づき合いが悪く、誰かとクリスマスを祝うことなどありえなかった彼の心が、なぜここまで変わってしまうのか、という点と、彼の「その頑なな執念」、具体的には金銭に対する並外れた強欲さが、どこから生まれ、彼の性格として固定していったのか、という点である。

 人の心というものは、そうそう簡単に変わるものではない。スクルージのような老人であればなおのことそうであろうし、それも極端から極端とも言うべき大きな心の変化ともなると、それ相応の理由が必要となってくる。本書の場合、彼を変えたのはかつて彼とともに「スクルージ・アンド・マーリー商会」を営んでいた、今は亡きマーリーの亡霊と、その後やってきた過去、現在、未来のクリスマスの精霊である。そしてマーリーの亡霊は、言ってみればこれからスクルージの身に起こる現実離れした出来事の発端として、それを受け入れさせるためのきっかけであって、彼の心を変える本質というわけではない。結果としてスクルージの心を変化させたのは、過去、現在、未来を司るクリスマスの精霊ということになる。

 過去の精霊は、スクルージの過去を彼に見せる。貧しくはあったが将来への希望に燃え、また彼が見習い奉公をしていた店の旦那が、彼を含めた従業員や顧客などを招いてささやかながらも心躍るクリスマスパーティーを催す場面は、スクルージにもかつてクリスマスを大勢の人とともに喜び合う心があったことを示している。現在の精霊は、今現在のクリスマスの様子を彼に見せる。そこで彼は、自分が邪険に追い払った甥や、安い給料でこき使っている会計助手が、それでもクリスマスであるという理由だけで、彼の祝福を祈る場面をまのあたりにする。未来の精霊は、文字どおり彼の未来を映し出す。それは、誰からも惜しまれず、また多くの人を悲しませるどころか、喜ばせることになる彼の死という未来だった。

 過去、現在、未来という時間の流れは、つなげていけばひとつの歴史となる。そして人は、その生涯というけっして長いというわけではないささやかな歴史のなかで、さまざまな人と出会い、共感したり反発したりして、やがてまぎれもない自分自身を形成し、また否応なく人と人との関係を築いていく。スクルージもひとりの人間である以上、そうした人生をおくってきたはずなのだが、物語当初の彼は、およそ人づき合いというものに関して、金にならないこと、時間の無駄であるという意識で強く凝り固まってしまっている。他人のことなど知ったことではない。だからこそ、人から何と呼ばれようと気にもしないし、自分が今や孤立していることにさえも頓着しない。

 人と人との関係によって、人は多かれ少なかれ刺激を受け、少しずつ変化していく。そういう意味で、スクルージは自分で自分の時間を止めてしまった状態にある、と言っていい。変化しない、という頑なさ――そんな彼の時間を、それぞれのクリスマスの精霊たちは、ふたたび動かしていく役目をはたすことになった。そしてそれは、スクルージがとにかく金儲けという一点だけを懸命に追い続け、周囲に気を配ったり、自分のそれまで辿ってきた道筋を振り返るといった余裕のない生活を送っていたということでもある。スクルージの妻と思われる女性が彼のもとを去っていく場面などを見るに、彼が築いてきた今の地位の背後には、彼が無用のものとして切り捨て、忘れ去っていった大切なものがあった。あるいは、彼は無意識のうちにそうした事実を認識し、また恐れていたのだろうか。だからこそ、彼は精霊たちに何度も叫び、懇願する。「もういい! たくさんだ! 見たくない!」と。

 繰り返しになるが、人はそう簡単には変わらない。だが、スクルージが会計助手であるボブの、病弱な末息子のことをことのほか気にするような場面があることを鑑みるに、彼の心の奥底には、じつは人を思いやる心がさほど変化することなくあったのではないか、と思わずにはいられない。ただ、厳しい商売の世界でのしあがっていくために、他人への同情といったものを振り捨てていかなければ、そしてそのことに邁進しつづけるしかなかったのだと考えれば、本書において彼に起こった出来事は、そんな彼の驀進をとどめ、周りを見渡す余裕をもたせるために与えられた機会だったとも考えられる。

 スクルージという人物はなんとも嫌な人物として書かれているが、彼が劇的に変化したというのではなく、本来あったはずの心に気づいた、ということであるとすれば、それはおおいに納得できる展開である。そして、そのちょっとした気づきが、他ならぬクリスマスの夜に起こったことである、という点こそが、本書がまさに「クリスマス・キャロル」というタイトルを冠する所以でもある。クリスマスがたんにキリストの生誕を祝うだけのものではなく、そこからすべての生きとし生けるものへの祈りと祝祭へとつながっていく日であるということを、本書はなによりも雄弁に物語っている。(2008.11.19)

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